テラーノベル
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今日は仕事でスレトモロスに来ていた。
もちろん、さっきまでは監視役として士官殿がいたが、いつものように隙を見て逃げてきた。
いつもなら、仕事が終わればそのまま帰っていただろう。
けれど、今日は違う。
僕は彼に会いたい。
彼は狩人だ。いつも決まった場所にいるわけではないし、そもそも今日ここにいるという確証すらない。
会えるとは限らない。
それでも、会える可能性があるのなら、行く必要はある。
なぜなら僕は、彼のことが好きだから。
……実に非合理的な行動だ。
目的地も定めず、遭遇できる確率も算出せず、ただ会いたいという感情だけを動機に歩き回る。
研究者としての僕が見れば、なんと無計画で、なんと愚かな行為だろうと批判するに違いない。
しかし、今の僕には、その批判を受け入れる気など毛頭なかった。
「ワンワン!」
「トゥガリン! 水を飛ばすな」
聞き覚えのある声がした。
僕は反射的に足を止める。
少し先の水辺に、一人の少年が立っていた。
さらさらとした、少し長い髪。
透き通るような琥珀色の瞳。
長く繊細なまつ毛に、雪のように白い肌。
その頬には、星屑を散らしたようなそばかすがある。
間違いない。
アリョーシャだ。
「……っ」
思わず息を呑んだ。
いた。
本当に、いた。
何の根拠もなく足を運んだ先に、僕が会いたくてたまらなかった相手がいたのだ。
偶然という言葉で片づけるには、あまりにも都合がいい。
いや、待て。
これは単なる確率の問題だ。
僕がここを訪れる可能性と、彼が今日ここにいる可能性が、たまたま重なったにすぎない。
そう考えれば、何も不思議なことはない。
……ないはずなのに。
「……アリョーシャ」
気づけば、名前を呼んでいた。
「ん?」
彼がこちらを振り向く。
琥珀色の瞳が、まっすぐに僕を捉えた。
「……ん?ミティヤじゃないか、どうしてここに」
「仕事だ」
「そうか」
彼は疑うこともなく、にこりと笑った。
「お疲れさま」
「……ああ」
たったそれだけ。
ただ挨拶を交わしただけだ。
それなのに、胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていく。
同時に、彼の笑顔をもっと見ていたいという欲求が生じた。
困ったことに、この欲求には明確な終着点が存在しない。
「ん?どうかしたか?」
「いや。少し考え事をしていただけだ」
「また科学者の合言葉についてか?」
「……そうだな。僕にとっては、かなり難しい問題だ」
「ふふっ、だったらオレには到底理解できないな」
彼はそう言って、隣にいたトゥガリンの頭を撫でた。
その仕草が、ひどく自然だった。
僕は彼のことを、どれほど知っているのだろう。
好きな食べ物も、苦手なものも、狩りに出ていないときに何を考えているのかも、僕はまだ知らないことばかりだ。
それなのに、彼のことを考える時間だけは、日に日に増えていく。
彼が笑えば嬉しくなる。
彼が困っていれば、理由を知りたくなる。
彼が誰かと親しげに話していると、胸の内に説明しがたい感情が生じる。
そして、彼と別れたあとには、決まってもう少し話しておけばよかったと後悔するのだ。
僕は今まで、あらゆる現象に対して説明を求めてきた。
原因があれば結果がある。
仮説があれば検証がある。
観測された事実は分析され、適切な理論のもとに整理される。
それが僕の知る世界だった。
けれど、彼に関することだけは、どうにも様子がおかしい。
どれほど考察を重ねても、結論を出そうとすると、決まって彼の笑顔が脳裏に浮かぶ。
そして、思考が中断される。
「ミティヤ」
アリョーシャが僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? さっきからずっと黙ってる」
「……アリョーシャ」
「ん?」
「お前は、僕のことをどう思っている?」
「え?」
彼は目をぱちぱちと瞬かせた。
「どうって……友達、かな?」
「友達…」
その言葉を、僕は静かに繰り返した。
そうか。
彼にとって、僕は友人なのか。
それは決して悪いことではない。むしろ、友人として認識されているのなら、十分に良好な関係を築けていると評価できる。
……できるはずだった。
なのに、どうして。
どうして僕は、その言葉だけでは満足できないのだろう。
「……そうか。いや、変なことを聞いてすまない」
「どうしたんだ?急にそんなこと、」
「忘れてくれ」
「ミティヤがそんなに悩んでることは珍しい、何か大変なことがあったのか?」
彼は僕の顔を見つめた。
その瞳には、好奇心と、ほんの少しの心配が浮かんでいる。
「オレがミティヤに何かしてしまったのか?」
「違う」
即座に否定していた。
「お前は何も悪くない。むしろ、問題があるとすれば……僕のほうだ」
「ミティヤの?」
「ああ」
僕は小さく息を吐いた。
もう、誤魔化すのはやめよう。
これ以上、曖昧な言葉で自分の感情を覆い隠すことは、きっと彼に対しても不誠実だ。
僕は研究者だ。
未知の事象に直面したとき、最初にすべきことは、目を逸らすことではない。
観測し、考察し、そして結論を導き出すことだ。
ならば、この感情についても同じはずだ。
たとえ、その結論が僕の人生を大きく変えるものだったとしても。
「アリョーシャ。少し、僕の話を聞いてくれないか」
「あぁ」
彼は素直に頷いた。
その返事を聞いて、僕はほんの少しだけ安心した。
「僕はこれまで、恋愛というものを、極めて非合理的な現象だと考えていた」
「……ん?」
「特定の個人に対して強い関心を抱き、その人物の言動によって感情を変動させ、時には自らの利益を損なってまで相手を優先する。生物学的な観点から説明することは可能だが、だからといって、それが合理的であるとは限らない」
「……うん?」
アリョーシャは首を傾げた。
少し難しすぎただろうか。
いや、しかし、ここまで話してしまった以上、最後まで説明するべきだ。
「僕は、そう考えていたんだ。つい最近までは」
「最近までは?」
「……お前に出会うまでは、と言うべきだろうな」
彼の表情が変わった。
僕は、彼の琥珀色の瞳を見つめた。
「お前と会話を交わすたび、僕は妙な感覚に陥る。お前が笑えば嬉しくなり、お前が落ち込んでいれば理由を知りたくなる。別れたあとには、もっと話しておけばよかったと後悔する。そして、会えない時間でさえ、気づけばお前のことばかり考えている」
言葉にしてみると、なんと滑稽なことだろう。
僕は自分自身の感情を、こんなにも正確に把握できていなかったのだ。
「当初、僕はこれを単なる興味だと判断した。君という人間について、もっと知りたいと思っているだけなのだと。しかし、観察を続けるほど、その仮説には矛盾が生じた」
「……」
「僕は、お前のことを知りたいだけじゃない。君に、僕のことを知ってほしいんだ」
言いながら、自分でも驚いていた。
そんなことを願う日が来るなんて、思いもしなかった。
自分の考えを理解してほしいと思ったことはある。
研究の成果を認めてほしいと思ったこともある。
けれど、ただ一人の人間に、自分自身を知ってほしいと願ったことはなかった。
「アリョーシャに会えるかもしれないと思っただけで、僕はここまで来た。会える保証などなかったのに、それでも足を運ばずにはいられなかった」
僕は苦笑した。
「研究者としての僕なら、こんな行動は非合理的だと切り捨てるだろうな」
「……そんなことない」
アリョーシャが、ぽつりと言った。
「え?」
「だって、会いたい人に会いに行く。それって、そんなに変なことか?」
彼は少し照れたように笑った。
「オレは、嬉しいけどな」
……ああ。
どうして、君はそうなのだろう。
僕が何日もかけて考え、言葉を尽くして説明しようとしたことを、君はたった一言で受け止めてしまう。
その無邪気さが。
その優しさが。
僕には、どうしようもなく眩しかった。
「……アリョーシャ」
「うん?」
「君という存在は、僕の人生における数多の変数の中で、唯一、論理的な説明を拒み続ける特異点なんだ」
「……とくい…てん?」
「君と会話を交わすたび、心の平穏は容易く瓦解し、君の言葉ひとつで感情の均衡が崩れてしまう。これを単なる好意と定義するには、僕の内面で生じている現象はあまりにも複雑で、あまりにも深刻だ」
彼は、ぽかんとしていた。
それでも僕は、もう止まれなかった。
「……要するに」
ここから先は、どんなに難しい言葉を並べても意味がない。
伝えるべきことは、ひとつしかなかった。
「僕はお前が好きだ。アリョーシャ」
胸の奥が、ひどく騒がしい。
「できることなら、これからの人生という長い時間を、君と共有したい」
僕は、彼の返事を待った。
どんな答えが返ってくるのか、予測することはできない。
今までの僕なら、その不確実性を恐れていただろう。
けれど、今は違った。
たとえどんな答えであっても、僕は自分の気持ちを伝えられたことを、きっと後悔しない。
「……この感情に、君なりの答えをもらえないだろうか」
静寂が訪れた。
アリョーシャはしばらく僕を見つめていたが、やがて、困ったように眉を下げた。
「……ごめん」
心臓が、一瞬だけ嫌な音を立てた気がした。
「オレ、難しい言葉は、わからない。」
「……そうか」
まあ、予想していなかったわけではない。
むしろ、あれだけの説明で理解を求めるほうが無理な話だ。説明方法に改善の余地があったことは否めない。
次はもっと簡潔に――
「でも」
アリョーシャが、僕の袖をちょんと引いた。
「オレも、ミティヤが好きだよ」
「…………え?」
思考が停止した。
いや、正確には、停止したというよりも、処理すべき情報が多すぎて、何ひとつ適切に処理できなくなったのだ。
「……待ってくれ」
「ん?だめか?」
「違う。そうではなく……お前は、今、僕の告白を受け入れたということか?」
「あぁ」
「……本当に?」
「うん?」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「もしかして、オレが断ると思ってたのか?」
「……その可能性も、十分に考慮していた」
「ふふっ」
アリョーシャは楽しそうに笑った。
僕はその笑顔を見ながら、ようやく理解した。
どうやら僕は、これからも彼に振り回され続けるらしい。
論理的に説明できない言動に戸惑い、予測不可能な返答に翻弄され、時には自分でも理解できない感情に悩まされることになるのだろう。
しかし。
それを不快だとは思わなかった。
「……アリョーシャ」
「どうした?」
「お前は、本当に……」
そこまで言って、僕は口を閉じた。
続く言葉が見つからなかったのだ。
好きだという言葉を、もう一度口にするには、あまりにも胸がいっぱいだった。
すると彼は、少しだけ背伸びをして、僕の顔を覗き込んだ。
「これからも会いに来てくれるか?」
僕は、今度こそ迷わず答えた。
「もちろんだ」
たとえ仕事の合間であっても。
たとえ会える保証がなくても。
君がいる可能性があるのなら、僕はきっと、またここへ来る。
それは、合理性だけでは説明できない選択だ。
けれど、僕はもう、そのことを否定しようとは思わなかった。
だって。
君という名の例外を、僕は何よりも大切にしたいのだから。
コメント
1件
もう……これは素敵すぎますね。ミティヤの研究者らしい理屈っぽさと、それでも抗えない恋心のギャップがたまらない。自分の感情を「特異点」なんて表現するところからしてミティヤらしいし、それを「難しい言葉はわからない」ってまっすぐ受け止めるアリョーシャの純粋さが本当に眩しい。告白シーン、めちゃくちゃ胸にきました。お互いに「好き」でよかったね……!
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