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あれは確か、私が9歳の時だった。
クリスマスも間近の、12月のある日曜日。モスクワ郊外の寂れた公園で一人、スノーマンを作って遊んでいた私は、ふと、ベンチの近くで横たわる人間を見つけた。
何となしに近付いてみると、その人間は年老いたホームレスの男だった。剥げた頭に伸ばしっぱなしの無精髭、そしてボロボロの服装が、まさしくそうであることを物語っていた。
「…………」
雪にまみれたその体を、持っていた枯れ枝(スノーマンの腕に使うつもりだったものだ)で軽くつついてみたが、男はピクリとも動かなかった。よく見ると彼の肌は青白く、顔の一部は凍傷を起こしたのか、所々どす黒かった。特に鼻はもげ落ちて、骨と思しき白い部分が見えていた。
これが、私が生まれて初めて見た、人の死体だった。
私の心は、不思議と恐怖で震えることはなかった。 寧ろ一種の「興味」のようなものが────静かに湧き起こりつつあるのを、感じていた。
私は手袋を外し、変色した男の頬にそっと触れた。 凍死体なので、当然ながら氷のように冷たい。男の顔は鼻が無かったこともあり、おぞましい化け物さながらだったが、表情そのものは、どういうわけか何処となく穏やかだった。
暫くすると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
そして私は駆け付けたミリツィアに声を掛けられ、「子供がそんなもの見ちゃいけないよ」と、その場から引き剥がされたのだった。
*
あの後私は素直に家に帰ったが、頭の中はあの死体のことばかりだった。
屋根もペチカも無い、凍てついたあの場所で、安らかに死んでいた彼。命を終える直前、彼はどんな気持ちで、たった一人で雪の上に横たわっていたのだろう。
そんなことを考えながら、私は暖房の効いたリビングで、家族と夕飯のボルシチを食べた。兄さんや姉さんが談笑する声を聴きながら、一口一口真っ赤な汁を啜る度に、幸福とは明らかに程遠いであろう、彼の死に際を妄想した。
「…………ねぇ、ナターシャちゃん」
突如、姉さんが私に声を掛けた。
「何よ、姉さん」
「さっきからずっとだんまりよ、貴女…………今日、何かあったの?」
「…………何でもないわ」
心配する姉さんに、私はそうはぐらかした。
だってとっても怖がりな姉さんに、今日の出来事を話そうものなら…………忽ち悲鳴を上げて、卒倒しちゃうに決まってるもの。
「姉さん、ナターリヤは今日公園に遊びに行っていたから、きっとそれで疲れてるんだよ」
「ヴァーニャちゃん……そうかもしれないわね」
何せナターシャちゃん、自分の気持ちを滅多に言わないから、分からないもの────姉さんが困ったようにそう言う様子を尻目に、私はボルシチを平らげた。
*
それから数日後の土曜日。あの寂れた公園に行ってみると、ホームレスの死体は無くなっていた。あの時にミリツィアが回収したのだろう。
私はその場所に行き、徐ろにその身を横たえてみた。 コートを着ているため、地面の冷たさはさほど感じない。そして仰向けになると、鉛色の空から、止め処なく白い雪が音もなく降ってくるのが見えた。
「…………」
落ちた雪が頬に触れて、体温でじわりと溶けていく。 あの男が死ぬ寸前に見ていた空は、今日と同じ感じだったのだろうか。みすぼらしい己の姿を埋め隠そうとする雪を、ただただ静かに眺めていたのだろうか。
私はふと、彼がホームレスになる前の姿を想像した。 それまでは普通に働いていたのか。友達はいたのか。 奥さんや子供はいたのか。それらが事実だとしたら、 どうして孤独の中、寒空の下で惨めに死んでいったのか。どうしてそんな「最悪な死」を、穏やかな面持ちで彼は迎えられたのか。
ひょっとしたら、「死」そのものは彼にとって、さほど苦痛なものではなかったのではないか。それまでこの世で感じていた「苦しみ」から漸く解放される喜びを、彼は意識を手放す瞬間に感じたからではないか。 それゆえに最期は「幸せ」だった。
そんな悲しみにまみれた「幸せ」を、最後の最後に得た彼の人生とは、一体何だったのか────頭の中で疑問を巡らせながら、私はゆっくりと瞼を閉じた。
*
「…………リヤ、ナターリヤ!」
「ナターシャちゃん!」
私の名前を呼ぶ声が聞こえ、再び目を開ける。
其処には必死の形相の兄さんと、心配そうに私を見下ろす姉さんがいた。二人の向こうに見える空はすっかり真っ赤で、薄暗い。
どうやら私は、あの後眠ってしまっていたらしい。
「…………兄さん、姉さん?」
「中々帰って来ないなと思って来たんだよ!何そんなところで寝っ転がってるのさ!ただでさえ寒いのに…………」
「…………ごめんなさい」
私は平謝りすると、むくりと起き上がった。刹那、 寝ている間に積もったであろう雪が、私の体からばさっと落ちた。
「本当に良かったわ、何事もなくて………… 見つけた時は吃驚したわよ、てっきり死んでるのかと…………」
「頼むから僕達を心配させないでおくれよ、ナターリヤ…………君は僕達の、大切な家族なんだから…………」
「…………」
私は、一人じゃない。兄さんと姉さんがいる。私のことを、気にかけてくれる。
でも彼は、ずっと一人だった。誰にも気付かれずに、 ひっそりと死んでいった。
「帰りましょう、ナターシャちゃん。今日の晩御飯はフォルシュマークが出るわよ」
「その前に、紅茶で体を温めないとね」
兄さんと姉さんの温かな手が、すっかり冷え切った私の手を握る。
そしてその場を離れる間際、私は振り向いて、心の中で十字架を切った。