テラーノベル
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洗面台のレバーを上げ、流れ出る水で手を洗う。冷たい水に触れている間は、余計なことを考えずに済むから良い。無心になって手を洗い続け、ふと顔を上げると鏡に自分の顔が映っているのが見えた。その目は虚ろで、口元はふてくされたように唇の端が下がっている。
「……はは、何て顔」
こんな顔をしていたら、ゆずはにだって何事かと心配されるに違いない。本当に情けない女だ、と自分自身を嘲り笑った次の瞬間、ひかりの目尻からぽろりと涙がこぼれた。慌てて止めようとするも止まらず、涙滴はとめどなく頰を伝って流れ落ちていく。嗚咽が漏れてしまわないように口元を両手で押さえるが、それでも肩が震えるのを抑えられない。
洗面台に手をつき、崩れ落ちそうになる身体を支える。既に互いの家族もひかりと吉崎兄の関係を認めてしまった今、彼との結婚を取り止めることは困難だろう。仮にできたとしても、ひかりは何らかの社会的なダメージを負うことになる。
自分はこのまま、永遠に他人のものとなってしまったゆずはのことを想い続けながら、家の行事があるたびに彼女と顔を合わせなければならないのか。自分を心から大切にしてくれるパートナーとの幸せで溢れた惚気話を、聞かされ続ける羽目になるのか。
いくら何でもあんまりではないか。自分はこの仕打ちに値するような、それほどまでに重い罪を犯したというのか。
「あの、だ、大丈夫……?」
愛しい声がして振り返ると、ゆずはが心配そうな顔で立っている。
「立脇さん、本当に顔色が悪そうだなって私も思って。ほら、体調のこととかなら女同士の方が言いやすいこともあるし」
ひかりのただならぬ様子に、さすがの彼女も動揺しているようだ。あたふたと言い訳めいたことをまくし立てるゆずはに、ひかりは自分でも気づかぬ内に縋りついていた。
「えっ、立脇さ……」
突然のことにびくりと震えるゆずはの身体を抱きしめ、ひかりは彼女の肩に顔を埋める。ゆずはの髪から懐かしい匂いが香って、ふと高校時代のことを思い出した。ああ、これは確か、自分が「臭い」と揶揄して彼女に「もう使わない」と言わせたシャンプーの匂いだ。
「大丈夫? お兄ちゃん呼ぼうか……?」
気遣ってくれるゆずはに首を横に振ると、彼女はやはり困惑しながらも「そっか」と呟いて、ひかりの背中をぽんぽんと叩いた。
あの女のどこが良かったの? どうして私じゃないの? あの女でいいなら、私でもいいでしょう?
ゆずは、お願い。
私を愛してよ。
「う、ううっ……」
「立脇さん……」
心に渦巻く感情は言葉にならず、嗚咽として口からこぼれるだけだ。泣きながら自分を抱きしめるひかりに驚いた様子は見せつつも、ゆずはは決して彼女を突き放そうとはしない。困惑しながらもひかりの背中を一定のリズムで叩き続けてくれている。その優しさに、また涙が溢れた。
「ゆうちゃーん? えらい時間かかっとるみたいやけど……。うわ、何!? どうしたん!?」
いつまで経っても戻ってこないゆずはを心配したらしいせいらが、様子を見に洗面室へと入ってきた。性根の良い彼女はひかりと今日初めて会ったにも関わらず、肩にそっと手を添えてくれる。
せいらがこういう人間だから、ゆずはは彼女を好きになった。結ばれるべくして結ばれた二人だったのだと、改めて思い知らされた。
愛し合っている二人の前で、ひかりはいつまでも泣き続ける。生まれて初めて本当に好きな人と交わす抱擁は、とてもあたたかくてひどく寂しかった。
(了)
コメント
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「一番嫌いな人間になればいい」、拗らせてんなあと思いつつ読み始めたらまさかのどんでん返し! 最初から正攻法で行けばよかったんですね彼女は……