朝日が昇る頃、俺たちは再び馬車に揺られていた。
昨夜、レイと穏やかな時間を過ごせたはずなのに、朝になっても妙な違和感が拭えない。
「……なんか、胸騒ぎがする」
そう呟いたが、特に理由があるわけでもない。ただ、どこか嫌な気配がする。それが何なのかは分からない。
向かいの座席に座るレイが、俺をじっと見ていた。
昨日の診断以降、彼は必要以上に俺を気遣ってくる。
その気持ちは嬉しいが、今は別の不安が俺を覆っていた。
レイが目を細める。
「どうした?」
「……いや、ううん……何でもないと、思うんだけど……」
どうにも説明がしにくい。
そう歯切れ悪く言った瞬間、馬車の速度が急に落ちた。
違和感を覚え、俺は窓の外を覗く。
——あまりにも静かだ。
さっきまで聞こえていた鳥の鳴き声や風のざわめきが、一切しない。
まるで、あたり一帯が息を潜めているようだった。
「……レイ?」
俺が彼の名前を呼んだ瞬間——
「——伏せろ!」
レイの鋭い声と同時に、馬車が激しく揺れた。
馬が甲高く鳴き、外からは剣のぶつかり合う音が聞こえてくる。
俺はとっさに座席から転がり落ちるようにして身を低くした。
「何だ……!?」
馬車の窓からちらりと外を覗くと、黒い装束の男たちが数人、馬を囲んでいた。
レイが既に剣を抜き、馬車の扉を開けて飛び出している。
その姿は騎士に相応しく、頼もしく、美しかった。
だが、それが逆に怖かった。
レイが戦っているということは、これは単なる山賊の襲撃ではない。
俺たちを狙ったものだ。
次の瞬間——馬車が横倒しになった。
扉が開いていたこともあり、中から強く投げ出され、地面に叩きつけられる。
背中に衝撃が走り、視界が一瞬揺らぐ。息が詰まり、うまく呼吸ができない。
それでも何とか起き上がろうとした時——
「——捕えろ!」
誰かの低い声が響いた。
その直後、背後から荒々しい手が肩を掴む。
「離せ……っ!」
必死に抵抗するが、体がうまく動かない。
腹部に鈍い痛みが走り、思わず息を呑む。
「……っ」
何かがまずいと感じる。何だ、何がまずい……?
ぼんやりとした頭で、俺は理解した。俺の中には、今までとは違う命が宿っている。
「……!」
思考が終わる前に、誰かが布を俺の口元に押し当てた。
強烈な薬品の匂いが鼻をつく。
「っ……!!」
抵抗しようとするが、腕を押さえつけられ、意識が遠のいていく。
最後に、レイが剣を振るう姿が見えた。
レイがこちらを振り返る。一瞬、目が合う。
彼の瞳が驚きと怒りに染まり、俺の名を叫ぶのが聞こえた気がした。
でも——もう手が届かない。
視界が闇に沈む中、俺は最後に彼の名前を心の中で呼んだ。
※
まず、頬を冷たい風が撫でた。
次に、かすかに燻されたような匂いが鼻をつく。
……どこだ……?
ゆっくりと瞼を開くと、薄暗い天井が視界に映る。
木造の梁がいくつも並び、近くには焚き火の煙が漂っている。
そこで、俺は思い出した。
——馬車が襲われたんだ。
そして、俺は……
「っ……!」
身体を起こそうとした瞬間、手首に強い抵抗を感じた。
見下ろすと、両手は荒縄で椅子に縛られている。
足元も同様にしっかりと固定されていた。
「……マジかよ……」
困惑混じりに呟いたが、答える人間はいなかった。
無理に動けば動くほど縄が食い込む。手足に血が通わなくなりそうだ。
視線を巡らせる。
外からはほとんど物音がしない。どこかの森の奥だろうか……。
小屋の壁は古びていて、隙間風が吹き込んでいる。
「……くそ……」
息を吐き出すと喉の奥がひりつくように乾燥していた。
身体のあちこちが痛む。何より——腹部に、鈍い違和感がある。
「……っ!」
一瞬、心臓が跳ね上がった。
妊娠——そうだった。
昨日、薬師に言われたことを思い出す。
これが誰の仕業かはわからない。けれど、俺が考えている人間であれば……いや、むしろあいつしかいないだろう。
そしてあの男──アランがこの情報を知ったら……終わる。
冷や汗が背筋を伝った。
アランは俺をフランベルクの“鍵”として利用しようとしている。
俺が結界の要だということは理解しているはずだ。
でも、もしここで妊娠を知られたら——どうなる?
俺は?何よりも……レイの子であるこの子は?
「……っ!」
想像しただけで、吐き気がこみ上げる。
このままでは、俺だけじゃなく——この子も危ない。
それだけは、絶対に避けなければならない。
その時、扉が開く音がした。
「……やっと起きたかい?」
低い声が耳に届き、足音が近づいてくる。
見知ったその声──アランだ。
薄暗い室内に、アランの影が長く伸びる。
彼は悠々と歩み寄ると、俺の顔を覗き込んできた。
「随分と呑気に眠っていたね、カイル君」
口元に薄い笑みを浮かべながら、アランは椅子の背に腕を乗せる。
「……何のつもりだ?」
俺は冷静を装いながら問いかけた。
しかし、アランは余裕の表情を崩さない。
「決まっているだろう?」
彼は小さく笑いながら、俺の顎を指で持ち上げた。
「君がいなくなれば、フランベルクの結界は揺らぐ。つまり、君の価値はそこにある」
「……っ、ふざけるな」
俺は顔を振り払おうとしたが、アランの手は思った以上に強かった。
「ふざけてなんかいないさ」
アランは淡々と言葉を続ける。
「君は“鍵”だ。だから、僕の手元に置いておくのが一番確実なんだよ」
その言葉に、背筋が寒くなった。
この男は本気で俺を利用するつもりだ。
——それだけならまだいい。
でも、もしこいつが……子供のことを知ったらどうなる?
ダメだ。絶対に気取られちゃいけない。
俺は必死に呼吸を整え、いつも通りの態度を装った。
「……お前に従うくらいなら、死んだほうがマシだ」
アランは一瞬、表情を消した。
その瞬間——
パンッ!
乾いた音とともに頬に強い衝撃が走る。
「っ……!」
頭が大きく揺れ、視界が歪む。口の中に血の味が広がる。
ああ、そうか。こいつもそれなりの騎士だっけか。力は強いわけだ……。
「そうか……死んだほうがマシ、ねぇ?」
アランは低く呟きながら、俺の頬を指先でなぞった。
その動きに、ぞわりとした悪寒が背筋を走る。
「なら、もう少し……素直になるようにしてやらないとね?」
アランの声が、ぞっとするほど冷たいものに変わった——。
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