テラーノベル
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翌朝、楡野家の朝食の食卓はいつも通りに整えられていた。
焼きたてのパン、温かいミルク、そして母の笑顔。
「奈々、パンもう一つ食べる?」
その声を聞いた瞬間、奈々の全身に戦慄が走った。
それは、「言葉」ではなく「音のかたち」だった。
まるで誰かが、“母の声”を模して口の中で鳴らしているだけのような——。
「……ううん、いらない」
言いながらも、奈々は母の手元を見つめていた。
パンを切るナイフを握る指先。
細く、しなやかで、今にも関節が反転しそうな違和感を孕んだ動き。
ナイフが、パンの端ではなく空気を切るように滑るのを、奈々は見逃さなかった。
羽奈が嬉しそうに母に話しかける。
「今日ね、学校で図工の作品見せるんだ〜。ママ、見にきてよ」
「そう。楽しみねえ」
優しい返事。でも、そこに反応の重なりがなかった。
言葉が、羽奈の言葉に微妙に遅れて返ってきている。
まるで録音された音声が、自動的に再生されているように。
(あれは……母じゃない)
奈々の中で、確信は静かに、だが強く根を下ろしていった。
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放課後、奈々は再び亮太と会った。
彼は今日、母の過去の病歴を調べていたという。
「俺の母さんが“灰の女”を最初に見たって記録されてるの、6年前。
その少しあとに、君の家族の事故が起きてる」
「事故の直前、母も様子がおかしかった……」
奈々はポツポツと話し始めた。
事故の数日前から、母がよく“誰かに話しかけていた”こと。
鏡をじっと見つめていたこと。
そして事故当日の朝、「あの人、まだここにいるの」と言い残したこと。
「“あの人”って……」
亮太の目が鋭くなる。
「この病院のカルテを見たら、母さん、最初に“灰の女”を見たの、鏡の中だったんだって。
“自分が自分じゃなくなっていく”って日記に書いてあった」
奈々は震えながら問いかけた。
「“灰の女”って、いったい何なの?」
「……母さんの記録には、“口を裂く者”とも書いてあった。
“人の顔を模すとき、まずその口を裂き、笑顔を学ぶ”って」
その言葉を聞いた瞬間、奈々は昨夜のことを思い出した。
鏡の中で、母が見せた“笑い”。
ありえないほど裂けた、口元。
あれは、あれこそが“本性”だったのかもしれない。
「じゃあ……あの笑顔って……」
亮太はポケットから、一枚の古い写真を取り出した。
ぼやけたモノクロの顔写真。女の人が笑っている。
だが、その笑いは不自然だった。顔の中心が裂けている。
そして目は……黒目がなく、真っ白だった。
「これ、母さんが精神病棟に入る直前に描いた“幻視”の再現スケッチ。
“灰の女”は、人の心を食って、残った皮をかぶるんだ。
でも、口だけはどうしても……裂けてしまうらしい」
奈々は息が詰まった。
「それって……お母さんが……すでに……」
「中身はもう、いない。たぶん、5年前の事故のときに……。
“灰の女”は、きっかけさえあれば、死体でも、生きたままでも、模すことができる」
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その夜。
奈々は、父・祐介の部屋に忍び込んだ。
昔、事故の直後、父は母の回復のために大量の医学資料と録音データを集めていた。
その中に、“何か”がある気がした。
書類棚の奥、鍵のかかった引き出し。
その鍵は、祐介の車椅子の下にテープで貼り付けてあった。
開けた瞬間、埃と紙の匂いが混じった空気が弾ける。
そしてそこには——
音声データの入ったUSBと、手書きのメモ帳があった。
奈々はメモ帳を開いた。
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『真奈の声が変わった。
いつからか、同じ言葉を繰り返すようになった。
鏡を見て笑うが、鏡にその笑顔が映っていない。
羽奈が「ママの顔、にせものみたい」と泣いた日、俺も気づいた。
あれは……真奈じゃない。
けれど、俺は……認めるわけにはいかなかった。
もう一度、あの“笑顔”が見たかっただけだ。』
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奈々はUSBを自分のPCに差し込んだ。
音声ファイルは一つだけだった。
再生すると、母の声が聞こえた。
だがそれは、明らかに何かを模した声だった。
「なな……あなた……わたしの……」
——バリバリバリッ
突然、録音の奥で何かが裂けるような、湿った音が響いた。
それと同時に、笑い声が重なった。
それは母の声ではない。
誰でもない何かが、口を裂きながら笑っている。
スピーカー越しに、奈々は“それ”が近づいてくる気配を感じた。
ガタン。
背後で、扉が開く音がした。
「なあに、奈々?こんな夜更けに……パソコンなんて見て」
そこには、笑っている母がいた。
けれど、その笑顔の口角は、裂けていた。
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