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「わーかってるって。なおちん。なおちーんてば。ぼくちんのこと大好きなんだねー!」 やや垂れ下がった乳房をしゃぶる。年齢を感じさせるが、この際、そんなことはどうだっていい。
抱ければ、いいのだ。己の欲さえ満たせれば。長年連れ添い、見飽きた妻になんか欲情出来るはずがない。人間の三大欲求である、睡眠欲、食欲、性欲。うちひとつである性欲は外で満たすべきなのだ――と井口(いぐち)勝彦(かつひこ)は思う。
よって勝彦は腰を振りながら、気持ちいい部分を探す。
女は、単純な動物だ。適当にあしらってやればすぐにひぃひぃ泣く。すぐ濡れ、すぐ整う。こんな便利な性別を勝彦は他に知らない。
「なーおーちーん。えっちだね。えっちなからだしてるねー。ほら、声なんか我慢しないでいいんだよ? ここをどこだと思っているんだい? ぼくとなおちんの愛の巣なんだよぉー?」
あまったるい口調も意識してのこと。かっちゃん、と勝彦に組み敷かれた女はたまらないといった表情で喘ぐ。その様子に、勝彦は至福を感じる。がつがつと女のなかを責め立てる。立て続けに二度射精し、勝彦はようやく満足感を得られた。
妻には、仕事が忙しい、飲み会がある、と伝えてある。――これといった特徴のない、平凡な女である虹子(にじこ)には、無論、おれの浮気など見抜けるはずがない――と勝彦は高を括っていた。
この日までは。
いつも通りマンションの部屋のドアを開く。玄関に入るなり、勝彦の存在を感知し、自動で灯る照明がありがたい。
ただいまー、と言わなくなったのはいつからだろう。下の子の智樹(ともき)が生まれた頃だったか。何故か忙しそうな妻の虹子が、『お願いだから子どもたちを刺激しないで! 寝かしつけの最中に帰ってこられたら迷惑なのよ!』――と言ってのけた。
邪魔。
おまえたちは、おれを、『邪魔』者認定しやがった。
三年にもわたる不倫は、少なくともそんな虹子たちに対する復讐心に基づいてのことだ――と勝彦は自身を正当化している。
「……あれ?」
先ず、最初に感じた違和感。
玄関に全員の靴が転がっているはずが、どこへ消えた? 十足くらいが常に放置されているはずが。よくよく見れば勝彦の27cmの靴だけだ。妻の物も、長女の晴子(はるこ)、それから智樹の物も、ない。
「……なんだ? 掃除でもしたのか?」
にしてもこの玄関床は、白の人造大理石なので汚れが目立つ。すぐ汚れるのよ――と常々こぼしながら虹子は掃除していたはず。念のため靴箱も開けて見てみたが、きれいさっぱりなくなっていた。
(どういうことだ?)
玄関にビジネスバッグを置き、廊下に入ると、またも違和感が訪れる。
部屋の電気が灯っていない。時刻を確かめた。二十一時半。智樹以外の二人は起きている時間帯だ。父親をヘイトする晴子は部屋で、虹子はリビングに繋がる空き部屋にて。子どもたちが小さい頃は、虹子は寝落ちすることもあり、家じゅう真っ暗なこともあったのだが。近頃ストレスが溜まっているようで、毎晩、なにやら深刻な顔でパソコンに向かっている。そんなことも勝彦にはどうでもよいのだが。
右手のキッチンに入り、冷蔵庫から麦茶入りの2リットルのペットボトルを取り出し、がぶがぶと飲む。――妻には、『帰ったらすぐ手を洗いなさい』『ペットボトルに直接口をつけるのは止めて』と叱られるが、知ったことか。細菌なんか、空気中にうようよしているものだし、それに、どうにも近頃の子どもは無菌状態で甘やかされているように思えてならない。
人間関係もそうだが、多少は、毒のある存在に関わり、世間の荒波に揉まれて育ったほうがたくましく育つ。――に決まっているのに、勝彦がやりたいことをすればするほど、渋面を深めていく虹子のことが、勝彦には疎ましく思えてならない。
小さく舌打ちをし、ハンドソープをプッシュして手を洗う。――と、ここでまた違和感。
「……飯は」
いつもなら、カウンターテーブルに、勝彦のぶんを取り分けた、主菜、副菜、味噌汁が並んでいるはず。冷凍のご飯を含めてこれらを順番に電子レンジで自分でチンするのだから、自分は出来た男だと勝彦は思うのだが。
本来、勝彦の料理が並べられているべきそこには、一枚の紙が置かれていた。紙には、手書きで、
『子どもたちと出て行きます。
あなたの浮気のことは、知っています。
後日、弁護士を通して、連絡します。
虹子』
「――は」
紙をぐしゃり、握り潰し、足元に捨てると、勝彦は部屋中の電気を点けた。全部屋を確かめた。なんと――いつの間にやってのけたのか? 晴子と智樹の勉強机……ベッド二台……それから箪笥も何個か。あるはずだった家具の一部がなくなっている。冷蔵庫と洗濯機は無事だが。
勝彦には、意味が分からなかった。……確かに。確かに、不倫をした芸能人が袋叩きにされるこのご時世において、不貞行為を働いたのは罰せられる事実かもしれない。
だが、なにも、――いきなりトンズラこくのはないだろ!
「ちく……しょぉおおお!」頭を掻きまわし、荒い息を吐き、勝彦は、携帯電話を手に取り、妻に電話をかける。――が、話し中。明らかに着信拒否だ。
姑息な手段を用いやがって。と勝彦は怒りを覚える。いままでに見た、虹子、晴子、智樹の顔を思い返そうとした――が、いずれものっぺらぼうで、表情が浮かばなかった。どんな顔をしているのか。なにを思って生きているのか。外で女の肌に溺れる勝彦には思いだせなかった。さておき、勝彦は状況の整理に着手する。――いや。
(今朝まではいたよな?)
朝、勝彦が出社した際には、この生活には変化がなかった。起きたとしたらあの後。あの後に決まっている。虹子は普段通り、朝食を作り、子どもたちと一緒に通勤していたはず。
――おかしい。なにかが、おかしい。
いずれにせよ、毎晩飲みに行っても結局勝彦があてにしていたのは虹子の飯だ。外で飲んでも結局接待ばかりでろくに食べれない。虹子の作る夕食は、そんなおれにとっての救いだったのだ――と今更勝彦は気づく。
がらんどうの、あかるい室内を見回し、勝彦は思う。――おれは、これから。
「どうやって生きていけばいいんだ……?」
先ずは、今日の夕食を確保しなければならない。なのに、妻は、いない――。
今更ながら妻のありがたみを実感した。美味しい手料理を文句も言わず提供してくれるあの妻は、もういない。
もう一度電話をした。出ない。思い切って、虹子の実家に電話をしてみた。夜分に電話をすることに気が引けたが、虹子の実家は飲食業を営んでいる。じりじりとした気持ちで、虹子の母親が電話に出るのを待った。
「――はい。『小料理屋にしかわ』にございます」
営業用の声で虹子の母親が電話に出る。よかった、と勝彦は思った。「あ……お義母さん。勝彦です。あの、お義母さん、突然ですみませんが、虹子、子どもたち連れて出ていったみたいで。もぬけの殻です。携帯も繋がりません。……あの、虹子がどこにいるか知りませんか。まさか虹子、そっちに行っているんじゃ……」
「……勝彦さん」シンパシーを寄せぬ印象の声に、勝彦はふと思いだす。そういえばこの生真面目な義母ともそりが合わなかったな、と。「あなた、自分がなにをしでかしたのか、分かっていらっしゃらない? 虹子が、あなたの浮気でどれほど苦悩しているのか。そもそも、家事育児を一切分担せず、一切虹子に丸投げしていたあなたのせいで、あの子がどれほど苦悩しているのか……分かってらっしゃる?
あの子の決めたことです。わたしに言えることは、なにもありません。
これ以上お話し出来ることは、なにもありません。
それでは、宅の電話は、今後、あなたの電話を取り繋がないよう、設定させていただきます。
さようなら」
力強く受話器を叩きつけられた音が響き、勝彦は顔を歪める。
「どいつも、こいつも……、くそが!」
冷蔵庫に入っていた野菜、瓶類をキッチンに叩きつける。野菜は無惨な変化を遂げ、割れた瓶が散乱する。ワインやソースの匂いをあちこちにまき散らす。やがて、勝彦は、吠えた。人間本気で激高すると言葉など出ないのだと、勝彦は悟った。
「ああああ! あああー!」
蹴散らし、蹴飛ばし、室内をめちゃめちゃにしていく。ハサミを取り出し、カーテンを切り裂いた。
「ふざ、けんなぁあああー! くそどもがぁああー!」
怒りの猛獣と化した勝彦を止める者は誰もいない。長い、長い夜の始まりだった。
*