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沙耶はベッドの上にダイブすると、そのまま私の布団に顔をうずめて大きく息を吸い込んだ。
「はぁーーーーー、お姉ちゃんの匂い……」
「せっかく布団を整えたんだから潜り込んで荒らすなよー」
整えたばかりのシーツが、みるみる皺だらけになっていく。
注意しながらも、声にはどこか諦めと懐かしさが混じっているのが自分でも分かる。
「うん。わかってるよ、フリでしょ?」
けろりとした顔でそんなことを言うと、沙耶は笑いながら布団に潜り込んでいった。
頭まで潜り、もぞもぞと動きながら枕に顔を擦りつけている。
あぁ、何というか沙耶らしい――。
回帰する前……私が男だった頃も、こいつはよく同じことをしていた。
実家に帰省した時や、泊まりに来た時、私が寝ていた布団に当たり前のように潜り込んできて、何やらもぞもぞしていた記憶がある。
何をしているのか深く突っ込んではこなかったが、その光景と気配だけはよく覚えている。
それを今、別の肉体になって、約四十数年ぶりに目にしている――そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「あ、沙耶。買い物どこ行きたい?」
枕に顔を押しつけたまま、ひたすら匂いを堪能している妹に声を掛ける。
このままだと、本当に過呼吸になるのではないかと心配になってきた。
「――お姉ちゃんの服を買いに」
「それはさっき聞いたよ。ついでに運動するための服も買いたいなぁ」
「な……なんだって!? お姉ちゃんが自ら服を買いたいって!? これは明日は天変地異が起きそうだ……」
ガバッと布団から顔を出した沙耶が、両肩を震わせながら大げさに言う。
私の言葉がよほど信じられないらしい。
――残念、天変地異は明後日だよ。
喉まで出かかった言葉を押し戻し、喉の奥で苦笑を飲み込む。
そんな冗談を気軽に口にできるほど、まだこの世界を軽くは扱えない。
私はただ笑って、沙耶の大げさなリアクションを受け流した。
「さて、着替えるかぁ」
いつまでも寝間着のままでいるわけにもいかない。
外出するのであれば、それなりに人前に出られる格好をしなければならない。
……と思ったところで、クローゼットの中身を思い出し、眉をひそめる。
中に吊るされているのは、基本的に男物の服ばかりだ。元々は男として生きてきたのだから当然なのだが、今の体には明らかにサイズが合わない。
となると、やはり沙耶が置いていった服を着るしかないのか……?
服が入っている引き出しを開けると、中には上下で綺麗に分類された下着のセットが丁寧に並べられていた。
薄いレースのものから、スポーティなものまでいくつか種類がある。
男の時は、寝るときは素肌に寝間着一枚――というのが当たり前だった。
この肉体でもその習慣だけは変わっていないらしく、今も何も身につけていない。
だが、さすがにこの体で外出するなら、下着を着けないわけにはいかない。
「全知……私はどういう風にいつも服を着ていた?」
『回答します。そのままです』
「そのまま、とは……?」
嫌な予感しかしない。
上下の下着だけは着用して、その上から男物の服を着て――ズボンの裾を引きずり、袖を余らせて歩いていた、とかではあるまいな。
『はい』
「……」
何ということだ。
それでは確かに、家族や周囲から「変人」と見られても文句は言えない。
通りで、ズボンの裾が|解《ほつ》れているわけだ。
クローゼットを開けたまま唸っていると、背後から小さな足音が近づき、沙耶が私の横に立った。
「あのね……お姉ちゃん。お願いがあるんだけど……」
「急にかしこまってどうしたの?」
いつもは遠慮なく布団に潜り込んでくるくせに、珍しくもじもじしている。
沙耶は両手で紙袋を抱きしめ、意を決したようにそれを差し出してきた。
「この服着てほしいの!」
勢いよく差し出された紙袋を受け取り、中を覗き込む。
中には、タグの付いたままの女物の服がきちんと畳んで入っているのが一目で分かった。
取り出して広げてみると、大人の女性が着ていそうな、落ち着いた雰囲気のワンピースとカーディガンのセットだった。
露出は少なく、派手さはないが、その分上品で、どこか「きちんとした人」という印象を与える服だ。
体は女でも、現状の心は完全に男のまま。
女物の服を素直に受け入れて着るには、少しばかり抵抗がある。
だが、合理的に考えれば、今の体で男物の服を着ている方がよほどおかしく見えるだろう。
頭では理解できる。だが、心がそれについていかない。
うーん、と喉の奥で唸りながら悩んでいると、視界の端で沙耶の表情が徐々に曇っていくのが見えた。
「やっぱり、やだよね……。お姉ちゃんは、好きな恰好して……いいよ?」
今まで見たことがない、泣き出しそうな顔。
普段は明るくて少々図々しいところさえある沙耶が、遠慮がちに目を伏せている。
その顔を見た瞬間、胸の奥にあった抵抗が、霧散していくのを感じた。
妹にそんな顔をさせてまで貫くプライドなど、私には存在しない。
ここで意地を張るほど、私は馬鹿ではないつもりだ。
「よし、着てみるよ」
「いいの……? いつもだったら怒って拗ねるのに?」
……妙にこだわりが強かったんだな、過去の私。
確かに、回帰前の私は一度決めたことを曲げない、頑固な性格ではあったが。
『過去の事象の記憶の一部欠損を確認しました。問題を解決するため、記憶の再統合をします』
【全知】の無機質な声が響いた直後、ずきりと頭の芯が刺されるような頭痛が走る。
そこまで激しい痛みではないが、重めの偏頭痛に近い感覚だろうか。
数秒ほどで頭痛が引き、その後に――記憶が一気に流れ込んできた。
この世界における「私」の振る舞い、この20年間に起きた出来事の数々。
嬉しかったこと、面倒だったこと、仕事で失敗した日、沙耶と口喧嘩した夜――。
全て「思い出した」。だが、感覚そのものは、まだ男の頃の私のままだ。
しかめっ面になっていると、沙耶が不安そうにこちらを覗き込んでいた。
返事を待ちながら、今にも泣きそうな顔で。
「うん、たまにはいいかな、って思ってね」
「お姉ちゃん……」
「さあ、早く買い物に行こう? 沙耶が選んでくれるんでしょ?」
「うん!」
ぱっと、花が咲いたかのような満面の笑み。
あまりにも嬉しそうに笑うものだから、こちらまで頬が緩む。
さあ、支度をしよう――。
そう思い、着ていた寝間着を脱いで、そのままベッドの上に放り投げた。
「わっ、えっ!? 何で下着付けてないの!?」
「寝るとき煩わしくて……」
両手で顔を覆いながら、指の隙間からじりじりとこちらを覗いてくる沙耶。
見えないようにしているつもりなのだろうが、丸分かりだ。
何故、脱いだ本人よりも見ている側の方が恥ずかしがっているのだろうか……。
「……わかった。寝る用の下着も買おっか」
「そんなのあるんだ……」
「せっかく大きいんだから形崩れないようにしないとね……もったいない……」
沙耶は、じとりとした視線を私の胸元に向けながらそう呟いた。
この体の持ち主であるはずの私は、なんとも言えない居心地の悪さを覚えつつ、一番手前にあった下着のセットを手に取る。
色気のない、シンプルな白のブラとショーツ。
それでも、男だった頃には縁のなかった代物だ。
いつまでも全裸でいるわけにはいかないので、言われるがまま身につける。
次は服を着ようとしたものの、どこからどう着れば良いのか分からず、手が止まってしまった。
困って沙耶を見ると、彼女は小さくため息をつき、慣れた手つきで着方を教えてくれた。
――こうして、全ての服を着終えた私は、鏡の前に立つ。
「……似合ってはいるのか」
鏡に映るのは、腰まである銀髪をゆるくまとめ、落ち着いた色味のワンピースを着た若い女。
慎ましいとは言えない胸元、すらりとした脚、柔らかなラインの腰。
客観的に見れば、「それなりにちゃんとした大人の女性」に見えるのではないだろうか。
「いいじゃーん! かわいい! 美人って感じ!」
沙耶は興奮気味にスマホを構え、私をあらゆる角度から写真に収めている。
スカートなど、高校を卒業してから一度も履いたことがなかったから、足元が妙に心許ない。
羞恥心と、まだ見ぬ自分への好奇心――その両方が胸の中でせめぎ合い、心が揺れ動いている。
『賭けに負けた芸術の神と鍛冶の神がスキルを付与しました。スキル【小さな加護】を2つ獲得しました。重複するスキルがあるためスキルを統合します……スキル【決して小さくない加護】を獲得しました』
「……もう何も言うまい」
頭の中に響く【全知】の報告と共に、またもや青いウィンドウが視界に浮かぶ。
神々と聞いてはいたが、一体何をしているんだ……。
暇なのか? それとも、これが彼らなりの「遊び」なのか。
一応、獲得したスキルの内容を確認しておく。
スキル名:【決して小さくない加護】
効果:隠された本質を知ることができるようになり、手先が器用になり、幸運に恵まれる。
説明:芸術の神、鍛冶の神、全能の神の小さな加護が統合された結果、相乗効果を発揮して通常の加護と同等のスキルとなった。
「なんだこれは……」
回帰する前にも、「通常の加護」を持った者を見たことはある。
だが、その効果は基本的に一つだけ。ここまで詰め合わせセットのような内容ではなかったはずだ。
【全知】、これは本当に「スキル」として許される範囲なのか?――そう聞こうとして、口をつぐむ。
沙耶の前で独り言のように呟くのは、さすがに怪しすぎる。
頭の中で問いかけるだけでも反応するはずなのだが、【全知】は何も言わず、代わりに青い画面だけを出してきた。
『神々が焦った表情をしています』
『賭けの話を持ち掛けた賭博の神が神々に責め立てられています』
「それ見たことか」
どうやら、【全知】が勝手に加護を統合したことは、神々にとって想定外だったらしい。
今更「返せ」と言われても、返すつもりは毛頭ない。
目の前に浮かぶ青い画面が消えるよう念じると、ウィンドウはすっと視界から消えた。
さて――。
沙耶と買い物に行くとするか。
「お姉ちゃんはいいよね、そんなにメイクしなくても見た目がいいからさ」
外に出て、手を繋いだままアパートから少し離れた駐車場へ向かう途中、沙耶がそんなことを言った。
濃いメイクは私自身が好みではないため、基本的には最低限の薄いメイクで済ませている。
とはいえ、久しぶりに化粧をしたせいか、記憶の通りに手を動かしても結局30分はかかってしまった。
それでも世間の女性たちからすれば、まだ短い方なのだろう。
「沙耶だって可愛いじゃん、自信もって大丈夫だよ」
「えへへ……」
照れくさそうに笑う沙耶。
ぱっちりとした二重の目に、ふわりとウェーブのかかった癖毛――どこからどう見ても、十分に可愛らしい妹だ。
少々シスコン気味なのが玉に瑕だが……。
年齢は私より2つ下、18歳の高校3年生。
「そういえば最近、新しくできたカフェに行ってきたよ」
「あの駅前のきれいなカフェ? お姉ちゃんがカフェに行くなんて珍しいじゃん。どんな感じだった?」
「仕事の打合せで行ったから会社の金で食べてきた。珈琲も普通においしかったしケーキも甘すぎなくて食べやすかったかな」
「そうなんだ~、今度来た時にでも行ってみようかなぁ」
沙耶と他愛もない話をしているうちに、ふと、自分たちの会話の内容に違和感を覚えた。
――あれ?
今の私たち、完全に「普通の女子の会話」をしていないか?
ダンジョンでも魔石でも戦闘でもなく、「カフェのケーキ」の話。
それが自然と口をついて出てくる自分に、少しばかり驚いてしまう。
変人扱いされてはいたけれど、この世界での私は確かに20年間、「女」として日常を積み重ねてきた。
その記憶が、会話や仕草にも滲み出ているのだろう。
高校を卒業してそのまま社会に出た私は、女性らしい華やかな買い物もほとんどせず、回帰前によくやっていたゲームにも課金などしてこなかった。
仕事をして、最低限の生活をして、たまに妹と会う――本当に、これといって特筆する点のない生活だ。
だが案外、仕事ぶりは優秀だったらしく、不動産の営業職としてそれなりに成果を上げていたらしい。
通帳の残高を見た時、「思ったより貯蓄があるな」と素直に感心したくらいだ。
……もっとも、その価値も、もうすぐ大きく変わってしまうのだが。
明後日から発生するダンジョンによって、世界の経済構造は大きく変わる。
各国の通貨は徐々に信用を失い、ダンジョンから排出される純金製の貨幣――金貨が主流となっていく。
つまりどういうことかというと……。
「よし、今日は沢山お金使おう」
「どうしたの急に? ハムスターが貯食するかの如く貯めこんでたのに」
「んー? 何でもないよ。私の服だって決して安いものじゃないしさ……お礼に沙耶の服も買ってあげるよ」
「いいの!?」
女性の服は総じて高い。
探せば安いものもあるにはあるが、おしゃれをしようとすると一着数千円はすぐに飛ぶし、高校生には手が届かない価格帯の服もざらにある。
多分、さっきの服も母さんと一緒に選んで買ったのだろう。
沙耶が選んで、大事そうに持ってきた服を、ただで受け取るわけにはいかない。
「わはは、いいとも。姉を崇め奉りなさい?」
「ありがとう! お姉ちゃん大好き!!!」
沙耶が繋いでいた手の握り方を変え、恋人繋ぎにして腕を絡めてくる。
そのまま私の腕に胸を押しつけ、ぴったりと寄り添って歩き出した。
上機嫌な沙耶にくっつかれて、少々歩きづらいが……たまには、こうして姉妹で並んで歩くのも悪くない。
……私が男のままだったら、完全に事案が発生していたところだが。