朝の光が部屋の隅まで届き、洋子は目を覚ました。
机の上にはまだ青く輝く砂時計が置かれている。
昨夜の記録を思い出し、彼女は自然と指先で砂の流れを確認する。
残りの量はわずかだ。
しかし、日常の小さな不具合を直すには十分だった。
最初の実験は、コーヒーの事故だった。
朝食の準備中に、彼女はカップを倒してしまった。
液体は床に広がり、書類やノートが濡れそうになる。
普通なら大慌てで雑巾を取り、床を拭き、書類を救出するところだ。
しかし洋子は砂時計を手に取り、ひっくり返す。
青い砂が落ち始めると同時に、彼女の視界は微かに揺れ、空間の空気が静かに波打つように感じられた。
数秒後、カップは再び机の上に立ち、床にこぼれたコーヒーは跡形もなく消えていた。
洋子は息をのむ。
「なるほど……砂の流れと時間の戻りは連動している。」
掌の中の砂粒がかすかに震え、微量の減少を感じさせる。
彼女はすぐにノートを取り出し、手早くその現象を記録した。
〈実験1:カップ転倒の修正〉
〈砂使用量:微量〉
〈時間遡行効果:5秒〉
続いて、遅刻を防ぐための実験を試みた。
彼女はいつも通り、研究施設への出勤準備を整えていたが、時計の針が進む速さに焦る。
遅刻は些細な出来事ではない。上司や同僚に迷惑をかけ、実験の進行にも影響を与える。
砂時計をひっくり返すと、時間はゆっくりと逆行し、彼女は余裕を持って服を整え、バッグを手に取り、玄関を出た。
街路樹の影が揺れ、朝の光がビルのガラスに反射する様子を、洋子は普段より丁寧に観察した。
小さな修正を繰り返す中で、彼女は砂時計の効力を正確に把握しようと努めた。 ノートには細かく記録が残る。
〈実験2:遅刻回避〉
〈砂使用量:少量〉
〈時間遡行効果:2分〉
最も興味深かったのは、人との会話に対する実験だった。
昼休み、研究室の同僚と打ち合わせをしている際、洋子は思わず言い間違いをしてしまう。
しかし、砂時計をひっくり返すと、言い間違えた言葉は消え、正しい発言をしていたかのように記憶が書き換わった。
周囲の同僚は何事もなかったかのように会話を続ける。
洋子はその様子に微かな違和感を覚えた。
「あれ……? 言い間違いを覚えているのは私だけ?」
確かに、砂時計を使った直後、周囲の記憶は少しずつ曖昧になり、完全に元のままではなくなる。
記録ノートに追記する手が、自然と止まった。
〈実験3:会話修正〉
〈砂使用量:少量〉
〈副作用:同僚の記憶の曖昧化〉
午後になると、洋子は小さな日常の修正だけでなく、意図的に砂時計を使った複合的実験を始める。
例えば、資料の一部を誤って消してしまった場合、砂時計を使って取り戻す。
机上のペンの位置、書類の折れ曲がり、メール送信の順序——すべて微細な変化として現実が書き換えられる。
しかし、砂の量は確実に減る。
洋子は意識的に砂の残量を確認し、ひと粒ひと粒が重要であることを実感した。
夕方、研究室でひとりノートを広げ、今日の実験を整理する。
実験の連続使用により、砂時計の青は明らかに減少している。
掌に残る砂の感触を確かめ、彼女は思わず唇をかむ。
「これだけ使うと、いつか本当に足りなくなる……」
実験の成功は快感だが、同時に未知の副作用への恐怖が芽生える。
さらに興味深いことに、日常の修正を重ねるたび、世界の微細なずれを感じることがあった。
机の上の小さな埃、同僚の微妙な表情の変化、過去の会話の記憶の違和感 —— これらは単なる偶然ではない。
砂時計を使った遡行が、観測と干渉の痕跡として、世界に残されているのだ。
夜、帰宅すると、洋子は窓辺で砂時計を眺めながら思う。
青い粒が掌の中でかすかに光る。
「砂が減ると、干渉も制限される……」
科学者としての理性と、実験好きの性分が交錯する。
砂の残量、干渉の効果、副作用の予兆——すべてをノートに整理し、次の観察に備える。
眠りにつく前、洋子はひとつの結論に達する。
「砂が落ちるたびに、世界も少しずつ変わる。
でも、時間を戻せる力を手に入れた以上、責任も伴う……」
掌に残る砂粒の冷たさは、単なる物質ではなく、世界そのものと向き合う証拠である。
そして、夜が深まる。
青い砂の光が暗い部屋の隅で微かに揺れ、まるで未来を静かに示唆しているかのようだ。
洋子は深呼吸をし、砂時計を机の上に置く。
明日も、彼女の観測と実験は続く。
青の粒が残る限り、世界の些細な修正は可能であり、しかし同時に、未知の代償が待っている。
掌の砂は少なく、光は穏やかだ。
しかし、静かに脈打つその青は、洋子に強く告げていた。 ——時間を戻すことは、ただの修正ではなく、観測者としての責任を伴う行為である、と。
こうして、洋子は砂時計の青い光を見つめながら、日常の中での小さな修正と、世界の変化の微細な兆候を記録する作業を終えた。
未来への不安と期待を抱き、彼女の観察は夜の闇に溶けていった。
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