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壱道が立ち上がり、窓際に移動する。
あとはお前がやれということらしい。琴子は小さく咳払いをして座り直す。
「強姦罪の時効は、行為後10年で成立です。そもそも強姦罪は、被害者が女性じゃないと適応されませんし、口内、肛門内への行為も除外されています。
また強姦罪は親告罪なので、被害者が親告しないと、公訴さえできません」
「……じゃあ、どうして刑事さんたちは今日ここに?」
「ご存知だと思いますが、三日前に櫻井秀人さんが死亡しました。
その事件の捜査で」
顔が俯く。
その一瞬、口の端が笑っているのが見えた。
「ああ、自殺したってニュースで見ました。
陰ながら応援していたのに残念ですよ」
どの口が言っているのだ。
喉の奥が怒りで熱くなる。
琴子は目の前の男を睨んだ。
「わかりました。罪滅ぼしじゃないですが、僕が知っていることは全部お話しします」
それからこの最低最悪な変態教師は、いきなりヘラヘラと赤裸々に話し出した。
15年前、放課後いつも一人で油絵を書いている櫻井に興味をもったこと、話しかけたら案外気さくに応えてくれて、仲良くなったこと。
他の生徒にはない繊細さと洗練さに惹かれ、いつのまにかそう言う対象として意識していたこと。
色白なうなじに欲情し、気がついたらその細い首に吸い付いていたこと。
自分でも止められず、嫌がる櫻井を、体育倉庫で何度も、何度も犯したこと。
聞いていて目眩を覚えた。
櫻井秀人にとって、心を殺された少年時代を、武勇伝のごとく嬉々として語る目の前の大男に、吐き気を覚える。
話は続く。
櫻井が卒業する直前の二月、二人の関係は決裂を余儀なくされる。
三年目にしてやっとと言うべきか、目撃者が現れたのだ。
彼の名前は忘れたが、櫻井の同級生で、偶然二人の情事を目撃した途端、本間に殴りかかってきたのだという。
これから二度と手を出さないという条件で、他言は回避できたものの、願わくば卒業後もずっとこの関係を続けていきたかった本間は、ひどく落胆した。
数年がたったある日、この音声が入ったカセットが匿名で送られてきた。
櫻井本人か、その同級生からか、はたまた本間の知り得ない第三者からかは、その時点ではわからなかった。
以降毎年、本間の赴任先の学校宛にテープが届くようになり、それはいつしか、メールに代わった。
「もう、本当にそれだけなんです。彼には悪いことしました。だけど卒業後は一度も会ってないですし、電話すらかかってきたことはありません。
そもそも音声送られてくるのも、一年に一度だし、それによって脅されたり金銭要求されたりすることもなかったので、そこまで気に留めてませんでした。
だから、今回の櫻井の自殺についてもびっくりしちゃって。
ほんと無関係すよ、オレ。
どんなに調べてもらっても、何も出てきませんよ」
言いながら教室だというのに、携帯灰皿を胸から出す。
「すみません、一本吸っていいすか?
妻が不妊治療中で家じゃ満足に吸えなくて」
「ご結婚、されているんですもんね」
少年に手を出すような変態でも、という意味で言ったが、
「まあ俺、もともとホモじゃないんでね」
と一笑された。そこにはもう、爽やかな熱血教師の面影は消えていた。
「なんていうかな、彼、櫻井に会ったことあります?」
「いえ、生前は」
「あー、そうか。遺体じゃわかんないかなー」
高らかに笑う本間に、いよいよ顔の筋肉がひきつっていく。
「みょーにね、色っぽいんですよ、あいつ。
姿形がきれいってのもあるかもしれないけど、それだけじゃなくて。
片目を瞑ってペンを見つめる動作なんてね、今思い出してもウズウズしちまいますよ。
俺も好奇心旺盛、血気盛んな時期でしたからね、歯止めがきかずに」
「もうその話は結構です」
聞くに耐えなくなった琴子が制する。
「殴りかかってきた生徒のことは覚えていますか」
「いやあ、それが。授業も持ったことないし、見覚えもなくてわからなかったんですよね。
櫻井のことを下の名前で呼んでいたから、同学年だとは思うんですけど。
当時、怪我でもしたのか、松葉杖ついてたってことなら覚えてるんですけどね。
何せ、松葉杖で殴られましたから」
と何か思い出したように、クククと肩を震わせた。
「ここだけの話、その助けに入った生徒でさえ、学ランの上からでもわかるくらい、はっきりアソコでっかくしてたんだから笑っちゃいますよね。
それくらい、櫻井は変な色香があったんですって」
こちらの冷ややかな空気を察したのか、本間は座り直し、机に三指をついて、頭を垂れた。
「でも!反省してます!
もう自分も家族がいて、全うな人生歩んでいるんで。
若気の至りだったんすよ、許してください!」
「おい」
低い声が響いた。
「謝る相手が違うんじゃないのか」
窓に寄りかかったまま、目だけが光っている。
「一度でも櫻井本人に謝罪したことあるのか。てめえのことなんか思い出したくもないだろうに、毎年音声を送り続けた櫻井の気持ちを考えたことあるか」
いつも能面のような彼の顔に、明らかな怒りの色が見える。
「…ねえ、刑事さん。てめえってどんな意味はわかります?」
薄ら笑いを浮かべた本間が琴子に言う。
「相手から見ての自分の立ち位置が手前だから、手前なんですよ。
つまりもともとは一人称で、相手に対して自分をへり下って指す言葉なんです。
手前共では、とか手前味噌とか言うでしょ。
それが現代では、相手に対して“へり下れ”という意味に変わった」
そこでやっと窓際の壱道を見る。
「公訴できないんでしょ、俺を。裁くこともできないわけだ。それなのに、自分より一回りも違うようなガキに、てめえ呼ばわりされて説教垂れられると、さすがにカチンときちゃうなー」
化けの皮が剥がれた。
いきなりチンピラのように話し方も足の開き方もだらしなくなる。
「法律のことは詳しくないけどさぁ、さっき俺の声を録音したのだって、いいの?断りなくやって。
法的に違反して手に入れた証拠は裁判で効力がないって聞いたことあるけど?」
口許に笑みを浮かべた男の背後に“赤い気配”が現れた。
「強姦罪として成立しないと言ったのは刑事さんすよ。俺が殺したわけでもあるまいし」
そうではない。もしこの男が櫻井になにもしなければーーー
彼は親に勘当されなかったかもしれない。
対象が男であれ女であれ、普通に恋愛できたかもしれない。
人付き合いも人並みによかったかもしれない。
もしかしたら今も、生きていたかもしれないのだ。
「そんなに俺を引き留めて。ひょっとして男同士の行為に興味があるだけなんじゃないの?」
目が熱い。
教室に赤色の靄がかかる。
「そうですね、興味はあります」
魂のない琴子の口が勝手に動く。
「なんだー早く言えばいいのに。好きだねぇ、刑事さんも」
鐘の寂れた音が聞こえてくる。
本間が前屈みに顔を近づけてくるおかげで、今二人を挟む机を強く踏み込めば、十中八九、天板が彼の顎に直撃する。
「膣と肛門の違いってわかる?」
鐘は鳴り続けている。
どんどん音が大きくなる。
角度を計算しながら、右足を机の柄に掛ける。
「膣は肛門に比べて糠味噌のごとく“ゆるい”んだよ。肛門はウンコを千切ったり押し出したり我慢するんだから、それはそれは締まりがいいんだ」
酸えた臭いの息がかかる。
「今度やってみたら?女性でもできるよ、アナルセックス。彼氏も喜ぶと思……」
一気に踏み込んだ。
と、すごい力で抑え込まれ、その勢いで琴子は椅子に尻餅をついた。
見上げると、先ほどまで窓際にいた壱道が、机に両手をつきながら立っていた。
マスクと逆光で表情はほとんど窺い知れないが、こちらを睨んでいるのだけはわかる。
「…おい、何しようとしたんだ!」
本間が赤い顔をしている。
右手が琴子の襟元をひねりあげ、もう一方の拳が握られる。
のび太とジャイアンでよく見る構図だなとどうでもいいことを思いつつ、反射的に琴子の手が尻ポケットの“それ”に伸びる。
だが、ジャイアンの拳より、のび太の“それ”より、さらに早いものがあった。
「左利きか」
二人の真ん中、いや下にいた壱道が、ジャイアンの拳を掴む。
「離せ、こら!」真っ赤な顔が壱道を睨む。
「てめえに朗報がある」
「何だと!」
「俺は右利きだ」
言うが早いかその拳を掴んだまま、一歩引くと一気に鼻先めがけて左ストレートを打ち込んだ。
本間が後方に吹っ飛び、綺麗に整列されていた机に突っ込む。
鼻の両穴から血を流しながら、壱道を指差す 。
「警察が一般市民を傷つけていいと思ってるのか」
「先に手を出したのはそっちだろ。正当防衛だ」
殴った方の手ではなく、右手首をふりながら壱道が見下ろす。
「それはだってその女が!」
「何ですか、今の音は!」
教室のドアが開けられ、数名の教師が入ってくる。血を見た女性教師から悲鳴があがる。
「後輩が言い忘れたが」無視して壱道が静かに話始める。
「男への同意なしの性行為は強姦罪にはあたらないが、強制わいせつ罪という立派な犯罪だ」
本間は血に滲んだ口が何かを言おうとするが、同僚の教師たちがいる手前、口を結んだ。
「また強姦罪だが、3年前の四月の法改正により強制性交等罪と名前も新たに、被害者の親告なしに公訴可能となった。
さらに、被害者が男である場合や、口内、肛門内への行為も、適用されることになった。
ちなみに時効については十年で変わらないが、被害者がその行為によって負傷した場合は、強制性交致傷罪となり、時効は行為から十五年に延長される」
集まってきた教師たちの表情が変わる。
「櫻井は十四年前、肛門科への通院歴がある。この意味が分かるよな」
壱道は琴子を引っ張りあげて立たせると、抜け殻のようになった教師を見下ろした。
「せいぜい残り少ない“全うな人生”を楽しめよ」