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リビングに行くと、ちょびがすでにテーブルの上に鎮座していた。
冷たい視線がこちらを見ている。
「朝からテーブルに乗るなって、何回言えば……」
そう文句を言いかけたが、ちょびの細めた目が「ちゃんとわかってる?」とでも言いたげだったので、隼人はすぐに口を閉じる。
代わりに、洗濯物を畳むことにした。
まだ少し温もりの残るシャツを丁寧にたたみながら、隼人はふと苦笑する。
「母さんが猫になったからって、俺まで真面目になるなんてな」
ちょびはその言葉には反応せず、ただ自分の毛づくろいを続けていた。
***
夜——
隼人は久しぶりに包丁を握っていた。
「インスタント禁止令」は母(猫)からすでに出されている。
「男の一人暮らしなんだから、コンビニ弁当でも仕方ないだろ」
最初はそう反論していたが、ちょびが「野菜がない!」と騒ぐたびに、「うるさいな……」と呟きつつもスーパーで買い物をしてしまう。
今夜はシンプルに焼き魚と味噌汁、サラダを用意した。
調理器具は久しく使っていなかったが、手際は意外と悪くない。
食卓に並べた料理を前に、ちょびが椅子の上からじっと見下ろしている。
「お前は魚食べられないからな」
「いいのよ、私は。ただ、あんたがちゃんとしたご飯を食べてればね」
「……母さん、本当に猫でいいのか?」
「文句言わないの」
隼人は苦笑しつつも箸を取った。
「いただきます」
ひとりきりのはずの部屋で、誰かと食卓を囲んでいるような感覚が、不思議と心地よかった。
***
隼人の生活は少しずつ変わっていった。
仕事から帰っても、脱ぎ散らかしていた服はきちんとクローゼットにしまう。
朝もギリギリまで寝ていたのが、余裕を持ってコーヒーを飲む時間ができた。
週末には布団を干し、掃除機をかけるのが習慣になった。
——すべて、「猫にうるさく言われたから」だ。
「俺の人生、猫に監視されてるのか……」
つぶやくと、ちょびが足元で尻尾を揺らしていた。
「母さん、満足か?」
「まだまだね」
すかさず返ってきた言葉に、隼人は肩をすくめる。
「そうかい……」
しかし、そんな日常に小さな異変が起きたのは、ある雨の日だった。
***
ちょびが、朝からずっと元気がない。
食欲もなく、いつものように文句を言うこともない。
隼人はその様子を見て、すぐに動物病院へ連れて行った。
「年齢的に、少しずつ弱ってきているかもしれませんね」
獣医はそう言った。
「特に病気というわけではないんですが、まあ……長生きする子でも、十数年ですから」
「そうですか……」
隼人は診察台の上で丸くなったちょびを見つめる。
寝息は静かで、穏やかだったが、どこか小さく見えた。
「母さん……」
隼人はぽつりとつぶやいた。
「俺、何で今までちゃんとしてなかったんだろうな……」
寂しさを紛らわせるように働き詰めだったし、帰国してからも部屋にこもってばかりだった。
母が生きていた頃、もっと連絡をしていれば——
もっと気にかけていれば——
後悔は尽きない。
「ねえ、隼人」
隼人が顔を上げると、ちょびがゆっくりと瞬きをした。
「大丈夫よ。あんたが今、ちゃんとしてるじゃない」
その一言に、隼人の心が少しだけ軽くなった気がした。
「そうだな……」
隼人は診察室を出て、小さなちょびを抱き上げる。
「帰ろうか、母さん」
ちょびは静かに喉を鳴らしていた。