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こんな自分は、知らないな。
……知らなきゃ良かったな。
「……あ、今、たまたま前を通りかかったからさ。元気?」
そう言って、涼ちゃんが俺に笑いかけてくる。
涼ちゃんは優しい。
いつだって。
こんな俺にも。
「うん」
「こんな遅い時間まで、どうしたの?仕事?」
「そんなところ」
「……。帰らないの?まだ」
「うん」
「一緒に帰らない?タクシーで送ってくよ、もう遅いし」
「大丈夫」
「……」
ごめんね。涼ちゃん。
俺のことを気遣ってくれてるのは、痛いほど分かる。
けど、まだ、家に帰る気になれない。
こんな遅い時間に、あの人が来る筈ないのに。
分かってるんだよ。そんなこと。
でもどうせ、家に帰っても一人だし。
誰もいない静かで冷たい部屋で、シャワー浴びて眠るだけだし。
だったらさ。
だったらまだ、ここであの人を待ってる方がマシに思えて。
あの人の、名字しか知らないから。
下の名前も、連絡先も、そう言えばなんの仕事をしているのかも。
毎日会ってたのに、何も知らないから。
この店と、あの人が見に来るあの小さな絵画以外に、俺達を繋いでるものは何ひとつ無いから。
「……ありがと、涼ちゃん」
立ち尽くしたままなかなか帰ろうとしない涼ちゃんに、俺は小さく笑って、
「でも、本当に大丈夫だから。帰っていいよ」
「……うん……」
涼ちゃんは、それでも少しの間ためらってから、じゃあ行くね、と。
俺に小さく手を振って、俺も小さく手を振り返して。
ドアを開けた、その瞬間、涼ちゃんが「…あ」と小さな声を上げた。
「?」
俺も涼ちゃんが見ている方に目をやって、
(……そんな。まさか……)
「あ……。あの、遅い時間に、すみません」
若井さんが。
自分も驚いているような顔をして、そこに、立っていた。
「……さみーっ……」
有楽町駅を出た瞬間、思わずブルルッと全身が震えた。
冬は嫌いじゃないけど、寒いのは苦手。
腕時計を見る。
時刻は21時35分。
10日間の出張を終えて、ようやく新幹線で東京に戻って来た。
真っ直ぐ家に帰る…筈が、急遽、職場に戻らなければいけなくなり。
スーツに黒いコート、革靴にキャリーケース…という出張帰りの格好のまま、有楽町駅から職場に向かって、テクテクと歩き出した。
もう12月。
イルミネーションに彩られた街を眺めながら、白い息を吐く。
大森さんに初めて会った日は、まだ秋の初めの頃だったのに。あっという間だ。
(……大森さん)
会いたい、な。
ほんの10日間、会わなかっただけ。
なのに今、無性に会いたい。
そうだ。
あの絵だけでも、久しぶりに見たい。
もちろん、店はもう閉まってるだろうけど、外から見える筈だから。
職場に戻るついでに、少し寄り道しよう。
なんて思って、歩いてたら……
(…………え…………?)
お店、開いてる……?
大森さんのお店の電気が点いているのが、遠目にも分かった。
まるで夜の街にポツンと、取り残されたみたいに。
自然と早足になって、お店に近付いて行くと、中にはやっぱり久しぶりに見る大森さんがいて。
あと、あの金髪の派手な人もいて。
ちょうどその人が、店を出ようと、扉を開けた瞬間に、目が合って。
「…あ」
小さな声を上げて、金髪の派手な人が立ち尽くす。
「あ……。あの、遅い時間に、すみません」
そう言ったら……
「若井さん」と。
大森さんが、店の奥から驚いたように小さな声で俺の名を呼んだその瞬間。
ふいに泣き出しそうに。
顔をゆがめた。
迷子になった幼い子供が、ようやく探しに来た親を見つけた瞬間みたいな。
そんな、頼りない顔をするから。
俺は一瞬、言葉に詰まってしまって。
どうしていいか分からなくて。
ただ黙って見つめ合ってる間、そーっと俺達の顔を交互に見ていた金髪の派手な人が、小さく咳払いしてから、
「……えーっと。あの。こんばんはー」
そう言ってくれて、ようやく、俺は我に返った。
「こんばんは……」
「金髪の派手な人」は、今夜も派手だった。
頭には、うさぎの耳のようなものがついたピンク色のファーの帽子をかぶっていて、なんならコートもピンク色で、パンツは黄色という、思う存分派手な格好をしていた。
「あ、なんか今日はあれですね、スーツなんですね。全然雰囲気違うなーって思ってびっくりして」
「え?……ああ」
俺は自分の着ていた服を見下ろして、
「そう、ですね。実は今日まで出張でして。さっき東京に帰って来た所なんです」
「……。……あーなるほど……出張……」
金髪の派手な人が、言いながらちらっと大森さんに目をやった。
俺達が話している間も、大森さんは何も言わず、ただ静かに眼鏡の奥の目を伏せている。
久しぶりに見る大森さんは、パールが沢山ついたやわらかなクリーム色のカーディガンを着ていて、それが優雅で良く似合っていて、あぁ今日も綺麗だなと思う。
「それで、今から家に帰る所ですか?」
「あ、いえ。ちょっと職場に戻る用事があって。たまたまこちらのお店の前を通ったら、明かりが点いてたので……」
「あぁ、そういう事なんですね……。……。えーと、じゃあ僕はそろそろ、帰りますね。元貴、また」
「……うん」
「じゃ、若井さん?でしたよね?またねー」
「あ、さようなら……」
ニコニコ手を振って、ピンク色のうさぎみたいなふわふわした人が店を出て行く。
俺も手を振りながらその人を見送って、ドアが閉まったら、急にしん……と沈黙が落ちた。
「……。……あ……、こんばんは」
大森さんに近付いて、ペコリと頭を下げる。
「……はい」
「こんな遅い時間に来ちゃって、すみません」
「……」
大森さんは、相変わらず目を伏せていて、あまり俺を見ようとしてくれない。
いつもどちらかと言えば素っ気ない感じの人ではあるけど、なんか、そういうのとも違って。
(……な、んか、怒ってる……!?)
怒ってる感じなのか?これは。
そうだよな、こんな夜遅く来て。
俺はただでさえ迷惑な客なのに。
「えと……お仕事してたんですよね、すみません!ご迷惑ですよね」
「……」
「こんな時間までお仕事大変ですね、じゃあ俺も帰りますね、これお土産のういろうです、名古屋に出張してまして、お口に合うか分からないですけど、じゃあまた!」
早口で一気にそう言って、慌てて帰ろうとしたら、大森さんが。
ポツリと小さな声で「……じゃないです」と呟いた。
「え……はい?」
「……」
「あ、やっぱりあれですか、ういろうはあんまり?好みが分かれる所ですよね、うんそれも分かる。大森さんは洋菓子派かな?とは思いました。色々考えてみたんですけどでもやっぱり名古屋と言えばういろうかなー?と思ってしまってすみませ」
「そうじゃなくて!」
聞いたこともないくらい大きな声で遮って、
大森さんがようやく顔を上げて、
俺を真っ直ぐ見上げてきた。
頬を、微かに紅潮させて。
「……迷惑、じゃないです」
「……え……」
「あなたを、迷惑だと、思ったことは一度もない」
少し怒っているような、
子供に諭すような話し方で。
俺は、……俺はその時、ただ呆然としていて。
俺は、大森さんは、つめたい色の人だと思ってた。
それは、悪い意味じゃなくて。
性格が冷淡だとか、そういう意味じゃなくて。
例えるなら、まさにあの絵画のような。
静かな冬の海だったり。
澄んだ湖だったり。
冬の夕暮れから夜にかけての紫がかった空。
青い宝石。
硝子のような氷。
そういうものの質感に良く似た人だと。
でも、今目の前にいる大森さんは、
血がのぼった頬も、
濡れた目もまつげも、
髪も肌も、あまりに色鮮やかで。
柔らかであたたかい彩りにあふれていて。
こんなに美しい人を、見たことが無い、と思った。
今、はっきりと悟った。
この人に恋をしている、と。
「ういろうも好きです。ありがとうございます」
「…………へっ?あ、い、いえ」
「あと、ミルクティーも。美味しかったです。ありがとう。次の日、会えたら言うつもりだったのに。こんなに時間が掛かるとは思わなかった」
「す、すみません……。あの日の翌日から出張だったんです。伝えそびれてしまって」
「今から職場に?」
「はい、戻ります」
「……そう、ですか。それは大変ですね。一緒に、食べられたらと思ったけど」
「え?」
「ういろう。お茶くらい淹れますよ」
「あ……いや……そんなご迷惑……大森さんもこんな遅くまで残ってってことは、お仕事あるんですよね?」
「無いです。仕事なんて」
「じゃあなんで?こんな時間まで……」
さぁ?……なんででしょうね。
そう言って、大森さんが微かに笑った。
やわらかく。
おだやかに。
まるで雪の間からそっと顔を出した、小さな小さな花がほころんでいるような。
見つけたら思わず嬉しくなるような。
そんな笑顔だった。