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「……最初に夫を発見したのは朱里でした」
続く言葉を聞いて、俺は眉間に皺を寄せ息を吐く。
「詳細は省きますが、首を吊った遺体の惨状は凄まじいものです。……朱里は大きなショックを受け、心的ストレスから父親の遺体を見た事を忘れています」
「……そのほうがいいような気がします」
俺は溜め息をつき、かろうじてそれだけ答える。
「夫は優しくていい人でしたが、とても繊細な人でした。死を選んだのも、追い詰められて鬱病気味になり、突発的に……なのだと思います。遺書も残さず、あの人は突然逝ってしまいました」
「……ご愁傷様です」
俺は静かに頭を下げた。
「当時中学生だった朱里は多感な年頃だった事もあり、夫が亡くなる数日前に『お父さんなんて大嫌い』と言っていました。夏が近くなり、朱里は友達が夏休みに旅行に行くと聞いて羨ましくなったみたいでした。旅行に行きたいとねだられた夫は、仕事が忙しくて無理だと断り、結果的に朱里にそう言われてしまったのです」
俺はその結果を想像し、溜め息をつく。
「夫が追い詰められていたのは、ブラック企業と言っていいほどの会社での多忙さと、上司からのいびりが理由だったと思っています。朱里が寝たあと、夫婦で話している時、夫はいつも『会社を辞めたい』『上司が嫌だ』という話ばかりしていました。……ですから、朱里にはなんの責任もないのです。……なのにそのタイミングから、朱里は自分が『大嫌い』と言ったから父親が自殺してしまったのだと思い込み、……責任を感じて大きなストレスを抱えるようになりました」
俺は前髪を掻き上げ、視線を落として息を吐く。
自分がもし同じ状況にあったとしても、朱里と同じ事を考えてしまうかもしれない。
そう思うぐらい、親子喧嘩と彼女の父の死はタイミングが悪かった。
「……毎年、梅雨時期になると、朱里は不安定になります。父親の死やその詳細を忘れてしまっても、『自分のせいで父が死んだ』という罪悪感があり、てるてる坊主を異様なまでに怖れます。……当時は心療内科に行って服薬治療を受けていたのですが、勤め始めてからは調子が良くなった事もあり、薬は飲まずに過ごしているみたいです」
若菜さんの言いたい事を察し、俺は頷く。
「……今後、彼女が不安定になった時、側にいて支えるよう努めます」
「お願いします。……一人暮らしをしてから、毎年やってくる梅雨時期をどう過ごしてるのか分かりませんでした。お友達の恵ちゃんに尋ねたら、やっぱり調子が悪いのを必死に隠しているようで……」
言われて、確かに調子の悪い時期があったと気づいた。
時期的に五月病と呼ばれるもので皆グッタリしがちなので、朱里の元気がないのもその一環なのかと思っていた。
(……何を見ていたんだ、俺は)
溜め息をつくものの、朱里本人はこの事を忘れているだろうし、親友とはいえ中村さんはここまで聞かされていないだろう。
俺としても朱里については細かく知っている自負があったとはいえ、こればかりは知りようがない。
とはいえ、盲点中の盲点で溜め息しか出ない。
「……実際、梅雨時期になるとどのような症状が出るでしょうか」
対策を考えるために尋ねると、若菜さんは息を吐いてから言った。
「そう大きく取り乱す事はありません。ただ梅雨時期になると雨音を聞いて悪夢を見るらしく、眠れなくなる事があります。特に雨の降る夜は要注意です。ボーッとする事も多くなり、自分を責めるような言動も増えます。てるてる坊主を見た時は、目を逸らして見なかったふりをし、その場にあるものすべてから意識を逸らそうとします。……全体的に逃避行動が多いのだと思います」
「教えてくださり、ありがとうございます。その時期になったら雨音が届かない場所に誘ってみたり、楽しい事をするよう心がけてみます」
「ええ、ありがとうございます」
若菜さんは亡くなった夫の事を話し、随分疲労を滲ませている。
「……あの子、あまりSOSのサインを出さないんです。心配させないようにと思ってか、何があっても私に助けを求めません。……私は朱里にあまり友達がいない事を知りませんでした。あの子からはテストの点数や学校であった出来事、学校行事などの連絡を受け、……それで『問題なく過ごせている』と思い込んでしまったのですよね」
彼女は深い溜め息をつき、片手で額を押さえた。
「……私は『なんとか朱里を守って生活していかないと』という思いで必死でした。生活のために働き、娘の将来のために再婚相手を探すのは確かに必要な事です。けれど傷付いた娘を二の次にするなんて、あってはならなかったんです」
悔やむように言った若菜さんの肩を、貴志さんが抱く。
「君は充分、一生懸命やった。あまり自分を責めるんじゃない」
その様子を見て、俺も朱里に寄り添わないと、と思った。
「何かあったら必ずご報告します。夫になるのですから支えてみせます。……どうかご安心ください」
頭を下げると、若菜さんは安心したように息を吐いた。
「朱里さんは私が必ず守ります」
俺は続けて言い、もう一度深く頭を下げた。