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春の終わり、東京の空はやけに澄んでいた。
本田菊は、縁側に座って静かに湯呑を傾ける。庭の桜は、もうほとんど散ってしまっていた。
「……昔は、もっと咲いていた気がしますね」
誰にともなくそう呟いたとき、背後の障子が静かに開いた。そこに立っていたのは、王耀だった。何年ぶりだろう。こうしてふたりきりで会うのは。
「お前の庭は、相変わらず静かあるな」
「それは貴方が黙っているからでは?」
「あいやっ、昔から口は減らないある」
言葉を交わすうちに、ふたりの間に流れる空気が、ほんの少しだけ和らいだ。けれど、積もった時間の厚みは、そう簡単にほどけるものではない。
「……なぜ、今になって?」
問いかけたのは、菊のほうだった。視線は庭に向けたまま。
王耀は少し笑って、縁側に腰を下ろす。
「桜が、見たくなった。……それだけある」
その言葉に嘘はなかった。けれど、それだけでもなかった。
「お前とは、長く一緒にいた気がするある。喧嘩も、笑いも、面倒も……全部あった。でも今は、隣にいても遠い感じがしてしまうある」
「……仕方ありません。国というのは、簡単に重ならないものです」
「でも、我は——」
ふと、王耀の言葉が途切れる。
手の中の湯呑が小さく震えていた。
「我は……お前ともっと話していたかった。もっと、笑っていたかったある」
菊は黙ったまま、それでも視線を王耀に向ける。
「我儘ですね」
「そうかもしれない。でも、それでも——」
その言葉は最後まで聞こえなかった。春風が、庭に残る最後の一枚の花びらを、ふたりの間にそっと落とした。
沈黙が満ちて、やがて菊が口を開く。
「……なら、もう少しだけ、いてください。今夜は……話をしましょう」
その声は微かに揺れていた。
けれど、王耀は確かにうなずいた。
ふたりの影が、ゆっくりと夕陽に溶けていった。
──夕陽が沈み、庭にやわらかな夜の帳が降りる。
虫の声もまだ遠く、ただ風の音だけが静かに流れていた。
ふたりは縁側に並んで座ったまま、しばらく言葉を交わさなかった。けれど、その沈黙は昼間のそれとは少し違っていた。どこか、温かい。
やがて、菊がゆっくりと立ち上がる。
「……温かいお茶を、淹れてきます。夜風が冷えるでしょう」
王耀は小さくうなずいた。
「ありがとうある。……やっぱり、お前の茶は落ち着くある」
菊が戻ってくると、ふたりは再び湯呑を手に、今度は向かい合った。
「……覚えていますか。昔、貴方が無理に餃子を食べさせようとして、私が……」
「むっ、言うなある、それはもう時効ある……!」
思わず吹き出す菊。その姿に、王耀もつられて笑った。
「でも、あの時は楽しかったあるな。騒がしくて、面倒で……でも、家族みたいだった」
「……ええ。そうですね」
ふたりの笑いはすぐに静かになったが、その余韻は消えずに残った。
「……菊」
王耀は、名前を呼んだ。それだけで、胸が少し痛むのを感じた。
「我は、お前を怒らせたことも、悲しませたことも……たくさんあるある。だから、こうしてまた話せることが、不思議で、少し怖くて、でも嬉しいある」
菊は黙って聞いていたが、ふと目を伏せた。
「……私も、貴方を遠ざけたことを悔いています。過去に縛られて、意地を張って。けれど、私もまた……本当は、ずっと……」
その先の言葉は、言えなかった。
だが、王耀は静かに頷いた。
「わかってるある。もう、無理に言わなくていい」
ふたりの間に、夜風がそっと吹き抜けた。
さっきの花びらは、まだ縁側の端に残っている。
王耀がそれに目をやりながら、ぽつりと呟く。
「……また、来年も見に来ていいあるか?」
菊は少しだけ目を見開き、そして頷いた。
「ええ。……約束ですよ」
それは、小さく、でも確かな約束だった。
桜の季節はまた巡る。何度でも。
今夜のふたりは、ようやく同じ時間の中にいた。
⸻
夜が深まるにつれて、庭はすっかり闇に沈んだ。
風に乗って、どこか遠くの町の鐘の音がかすかに聞こえてくる。
王耀は空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「……我の背中に、まだ傷があるある。古い、でも消えない傷」
その言葉に、菊の手が微かに震えた。
「……覚えています。……私の、刀でした」
空気が張り詰めた。
王耀はそれに気づいても、すぐには何も言わなかった。
「……あのときは、国として仕方なかったって、何度も言われました。私も、そう言い聞かせました。でも——」
菊はふっと目を閉じた。そして、静かに言葉を落とす。
「でも、貴方の背中に刃を向けたときの感触を、私は……一度も忘れたことがありません。兄のように思っていた人に……私が、自分の手で……」
その声は微かに震え、やがて途切れた。
王耀は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を菊のほうに向けた。
「……痛かったあるよ。体も、心も。でも……もっと痛かったのは、お前がその後、何も言わずに遠ざかっていったことある」
菊の指が、膝の上で強く握られた。
「……すみません」
王耀はそっと手を伸ばし、菊の湯呑に手を添えた。
その手はあたたかく、どこか懐かしかった。
「謝ることじゃないある。……我も、お前を守れなかった。我のほうこそ、謝るべきかもしれないある」
菊は驚いたように目を見開いたが、すぐに伏し目がちに微笑んだ。
「……耀さん」
ぽつりと、その名前を、呼んでしまった。
その言葉は、ふたりの間に積もった長い時を、一瞬だけ戻すようだった。
王耀は何も言わなかった。けれど、その目には確かに優しさがあった。
「来年もまた、桜を見に来てください。そして、もう少しだけ……昔のように話をしてください」
「……もちろんある」
ふたりの影は寄り添い、静かな夜に溶けていった。
花の音はもう聞こえない。けれど、春はまた来る。
傷は消えなくとも、和らげることはできると、そう信じた夜だった。