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花の散る音

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花の散る音

1 - 花の散る音

♥

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2025年05月12日

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春の終わり、東京の空はやけに澄んでいた。

本田菊は、縁側に座って静かに湯呑を傾ける。庭の桜は、もうほとんど散ってしまっていた。


「……昔は、もっと咲いていた気がしますね」


誰にともなくそう呟いたとき、背後の障子が静かに開いた。そこに立っていたのは、王耀だった。何年ぶりだろう。こうしてふたりきりで会うのは。


「お前の庭は、相変わらず静かあるな」

「それは貴方が黙っているからでは?」

「あいやっ、昔から口は減らないある」


言葉を交わすうちに、ふたりの間に流れる空気が、ほんの少しだけ和らいだ。けれど、積もった時間の厚みは、そう簡単にほどけるものではない。


「……なぜ、今になって?」


問いかけたのは、菊のほうだった。視線は庭に向けたまま。


王耀は少し笑って、縁側に腰を下ろす。

「桜が、見たくなった。……それだけある」


その言葉に嘘はなかった。けれど、それだけでもなかった。


「お前とは、長く一緒にいた気がするある。喧嘩も、笑いも、面倒も……全部あった。でも今は、隣にいても遠い感じがしてしまうある」


「……仕方ありません。国というのは、簡単に重ならないものです」


「でも、我は——」


ふと、王耀の言葉が途切れる。

手の中の湯呑が小さく震えていた。


「我は……お前ともっと話していたかった。もっと、笑っていたかったある」


菊は黙ったまま、それでも視線を王耀に向ける。


「我儘ですね」

「そうかもしれない。でも、それでも——」


その言葉は最後まで聞こえなかった。春風が、庭に残る最後の一枚の花びらを、ふたりの間にそっと落とした。


沈黙が満ちて、やがて菊が口を開く。


「……なら、もう少しだけ、いてください。今夜は……話をしましょう」


その声は微かに揺れていた。

けれど、王耀は確かにうなずいた。


ふたりの影が、ゆっくりと夕陽に溶けていった。


──夕陽が沈み、庭にやわらかな夜の帳が降りる。

虫の声もまだ遠く、ただ風の音だけが静かに流れていた。


ふたりは縁側に並んで座ったまま、しばらく言葉を交わさなかった。けれど、その沈黙は昼間のそれとは少し違っていた。どこか、温かい。


やがて、菊がゆっくりと立ち上がる。


「……温かいお茶を、淹れてきます。夜風が冷えるでしょう」


王耀は小さくうなずいた。


「ありがとうある。……やっぱり、お前の茶は落ち着くある」


菊が戻ってくると、ふたりは再び湯呑を手に、今度は向かい合った。


「……覚えていますか。昔、貴方が無理に餃子を食べさせようとして、私が……」


「むっ、言うなある、それはもう時効ある……!」


思わず吹き出す菊。その姿に、王耀もつられて笑った。


「でも、あの時は楽しかったあるな。騒がしくて、面倒で……でも、家族みたいだった」


「……ええ。そうですね」


ふたりの笑いはすぐに静かになったが、その余韻は消えずに残った。


「……菊」

王耀は、名前を呼んだ。それだけで、胸が少し痛むのを感じた。


「我は、お前を怒らせたことも、悲しませたことも……たくさんあるある。だから、こうしてまた話せることが、不思議で、少し怖くて、でも嬉しいある」


菊は黙って聞いていたが、ふと目を伏せた。


「……私も、貴方を遠ざけたことを悔いています。過去に縛られて、意地を張って。けれど、私もまた……本当は、ずっと……」


その先の言葉は、言えなかった。


だが、王耀は静かに頷いた。


「わかってるある。もう、無理に言わなくていい」


ふたりの間に、夜風がそっと吹き抜けた。

さっきの花びらは、まだ縁側の端に残っている。


王耀がそれに目をやりながら、ぽつりと呟く。


「……また、来年も見に来ていいあるか?」


菊は少しだけ目を見開き、そして頷いた。


「ええ。……約束ですよ」


それは、小さく、でも確かな約束だった。

桜の季節はまた巡る。何度でも。


今夜のふたりは、ようやく同じ時間の中にいた。



夜が深まるにつれて、庭はすっかり闇に沈んだ。

風に乗って、どこか遠くの町の鐘の音がかすかに聞こえてくる。


王耀は空を見上げたまま、ぽつりと言った。


「……我の背中に、まだ傷があるある。古い、でも消えない傷」


その言葉に、菊の手が微かに震えた。


「……覚えています。……私の、刀でした」


空気が張り詰めた。

王耀はそれに気づいても、すぐには何も言わなかった。


「……あのときは、国として仕方なかったって、何度も言われました。私も、そう言い聞かせました。でも——」


菊はふっと目を閉じた。そして、静かに言葉を落とす。


「でも、貴方の背中に刃を向けたときの感触を、私は……一度も忘れたことがありません。兄のように思っていた人に……私が、自分の手で……」


その声は微かに震え、やがて途切れた。


王耀は、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと顔を菊のほうに向けた。


「……痛かったあるよ。体も、心も。でも……もっと痛かったのは、お前がその後、何も言わずに遠ざかっていったことある」


菊の指が、膝の上で強く握られた。


「……すみません」


王耀はそっと手を伸ばし、菊の湯呑に手を添えた。

その手はあたたかく、どこか懐かしかった。


「謝ることじゃないある。……我も、お前を守れなかった。我のほうこそ、謝るべきかもしれないある」


菊は驚いたように目を見開いたが、すぐに伏し目がちに微笑んだ。


「……耀さん」


ぽつりと、その名前を、呼んでしまった。

その言葉は、ふたりの間に積もった長い時を、一瞬だけ戻すようだった。


王耀は何も言わなかった。けれど、その目には確かに優しさがあった。


「来年もまた、桜を見に来てください。そして、もう少しだけ……昔のように話をしてください」


「……もちろんある」


ふたりの影は寄り添い、静かな夜に溶けていった。

花の音はもう聞こえない。けれど、春はまた来る。


傷は消えなくとも、和らげることはできると、そう信じた夜だった。

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コメント

3

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なにこの感動もの!?😭 最高ですッッ!

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