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「!」
ヒザから下の足、そして肘から下の両腕。起きたらどれもが無くなっていた。
体にはひっかける程度の白い布があるだけマシだったが、まるで囚人のような恰好だ。
不幸中の幸いか、金丹はまだ体の中にある。どうにかこうにか、この状態でも特別痛みもなく生きていられていた。
「ここは…洞窟?」
洞窟の中に自分はいた。10ほど歩けば出口が見える。さほど狭くなく、大人が両手を広げられるぐらいはある。
「起きたか」
耿 仲明(コウ チュウメイ)の背中がゾクリと冷えた。ざ、ざ、という足音が近づくたび、仲明の心臓の音がバクバクと大きくなる。
顔を上げられない。目線は下を向けたまま、仲明は身を固くした。なぜなら目の前にいる男こそが、自分の体をこのような状態にした、張本人のハズだったからだ。彼の名前は潘岳。耿仲明の弟子だった男だ。
「無様だな、師尊(しずん)…いや、耿 仲明!」
はくはくと口が動かそうとする。悪かった、命だけは助けてくれ、そう言おうとしたが、恐怖で口が動かない。
「さあ、どんな拷問がいい?」
拷問と聞いて、サアっと仲明の顔が青くなる。生かしてほしいとは思ったが、いっそのこと、殺してくれと思った。
「そうだな。まずは舌を切ろうか」
「…ッ」
ボロリ、と涙が出た。
「今更泣いて乞うても遅い。俺はお前のせいで死にかけ、そして生き延びた。運が悪ければ死んでいたんだぞ」
「殺すつもりは…無かった」
そう。殺すつもりは無かったのだ。いつもそう。本当は、岳を大切にしたい思いは心のどこかで強くあるのだ。それなのに…自分が犯した所業を仲明は悔いた。
潘岳(バン ガク)に対して、なぜか頭の中で攻撃しろと誰かの声が仲明に命令するのだ。そして抗えず、岳を谷から落とした。
彼は死の挟間で霊力を最大限に使い、生き延び、そして復讐を遂げた。仲明の弟子をすべてなぎ倒し、仲明の大切な住処、修練場、もろもろの居場所を半分以上も焼き払ってしまったのだ。
「ふ、良い様だ。あいにく今から用事が入っている。一週間ほどで戻る。それまで、逃げるなよ」
そう言い、剣に乗って岳は空へと飛んでいった。
――殺されるのがわかっている。逃げるなと言われて逃げないやつはいない――
残念ながら洞窟には見えない力が働いていた。慣れない体で外へ出ようと試みるも、バン!と何かにぶつかり、尻餅を何度かつく。
岳は仲明よりも強くなってしまった。そのため仲明にこの術を破ることは難しい。
弟子に勝る力が無ければこの洞窟から出る事は不可能な状態になっていた。
できることはただ一つ。瞑想で霊力を上げること。しかし霊力を上げようにもたった一週間程度ではほとんど何も変わらないのに等しい。しかしやるしかないのだ。霊力、気力を底上げし、たまった気で術を解く。それしか道が残っていなかった。
飲むものも食うものもないが、金丹のおかげで特別苦しむことは無い。仲明は目をつぶり、自分の死を待つように瞑想を始めた。
6日目あたりから、体から黒いものが出た。妖魔だ。鬼が何か言っている。「どうして戻れないんだ…?!」と何度も言い、仲明を睨む。
鬼が必死に仲明のカラダに潜り込もうとするが、集中している今の仲明に入り込むスキなど無い。
仲明は警戒し、できるだけ後ろへ下がってその鬼との距離を保つ。
「まさか私の体内に妖魔が居たとは…気づかなかった」
「へん!そりゃそうさ。おれはお前の先祖だからな。相性が良かったのさ。潘の子孫…潘岳を殺すためにお前にとりついた!」
「お前のせいで‥‥!」
仲明は妖魔をキッと睨んだ。
「は!どうせお前は今から潘岳に殺される。できるだけ反撃したいだろ?手伝ってやるから、オレをお前の体の中に戻してくれ」
「断る!」
「おい妖魔」
居るはずのない男の声がした。妖魔だけでなく仲明も一緒にビクリと体を震わす。
「今の話は本当か」
逃げようとする妖魔の頭をガシリと握る。返事を待たず、真っ黒な塊をぐしゃりとつぶした。
「…岳、すまなかった、責任は取る。気のすむように拷問したのち、殺してくれてかまわない…」
瞑想をしているあいだ、これまでの岳が受けた仕打ちについて胸を痛めていた。逃げるための準備をしていたはずの仲明だったが、観念し、報いを受けることを選んだ。
また、これまでの岳への所業は自らが進んだことでなく、操られていたということに少しばかり安心を得られた。弟子として、岳を大切に思っていた気持ちは嘘ではなかったと思えたからだ。
しん…、と洞窟の中が沈黙に包まれる。仲明は目をつぶり、頭を床に付けた。岳は驚く。人に頭を下げるのが嫌いな仲明が、このように他人にひれ伏すような態度を取るのは初めてだった。
「ここは、精霊山と言って妖魔を取り除く力があるそうだ。知らなったが、ここに長くいたおかげで妖魔が体から吐き出された、というわけか」
ギリ、と岳は唇を噛んだ。
「何年も…何年もだ!いつもお前は俺を虐げた!上のお前が俺を痛めつけることを容認したおかげで他の弟子からもひどい仕打ちを受けた!俺は何もしていないのにだ!!」「っすまない…!」
妖魔のせいだとなすりつけ、弁明する事が出来ればどんなに良かったか。しかし今の岳にはそんなものただの言い訳に過ぎない。師である自らが早々に自らの体の異変に気づき、対処すべきだった。
「俺を拾ってくれた時のアンタはすごく優しかった…だから師尊の弟子になったのに!妖魔がとりついていた?ならこの数年の地獄のような日々を許せというのか!いいや無理だ!」
「岳、お前の気の済むように拷問をしてくれてかまわない。そののちに…」
「殺せと?!」
仲明は顔をゆっくりあげ、うなずいた。
岳は仲明を一度睨んだあと、そのまま洞窟から出ていってしまった。
仲明は空を見上げ、四肢の無い体を見下ろした。これからどうするのが正しいのか、頭が整理できない。ただただ、涙するしかなかった。
仲明が住んでいた場所は岳によって壊滅させられた。住処は焼かれ、元いた弟子たちは他の門派のところへ行ってしまっている。弟子からこのようなものが輩出してしまった以上、頼ることなどできない。弟子の不手際は師の責任だ。帰る場所はない。
残るこの命で役に立てることを考えたが、岳に殺されること以外、何も思いつかなかった。
せめて、岳にこの命を差し出すまでは生きていこうと仲明は考えることにした。
「寝床を…整えるか」
ワラをあつめることにした。そのためにも、山を下りて村で余っているワラをわけてもらうことにする。
術は解かれていて、洞窟を出ることができる。ヒザより下が無い。普通に歩く事は困難で、そのまま歩くと痛みが走った。霊力で地面と肌の間にスキマを作るように工夫して歩くと、痛みはなくなった。
なんとか前に進むことはできるが、普通なら数時間で行ける距離を二日かけて進むことになった。
残念ながら村へついた途端バケモノ扱いをされてしまい、まったく相手にされなかった。
「仕方がない、帰ろう」
帰り道、子犬と出会った。
「ふふ、私になついても何も無いよ」
子犬は自分で木の実や魚を上手に採取できる賢い犬で、特別面倒を見る必要は無かった。
しかし数週間後、土砂崩れで子犬は死んでしまった。
仲明の唯一の心のよりどころだった。
「う…っ」
雨の中、子犬の墓の前で泣いていた仲明の近くで足音がした。
潘岳だ。
「無様だな」
「私を‥殺しにきたのか?」
「…」
潘岳は答えなかった。
「っくしゅ…っ」
金丹を生成してしまえば、長寿を全うすることができる。しかしやっかいな病にかかってしまうと、簡単に死んでしまうこともある。
「洞窟で寝泊まりをしているのか」
「ああ…私には行く所が無いから」
「…」
「洞窟へ戻らないのか」
季節は冬に入ろうとしていた。薄い服を一枚着ているだけの仲明の姿が寒々しく見えたのだ。
「いい。ここで睡眠を取る」
雨が降り、土が濡れ始めている。とても寝られる環境ではない。それでも仲明は子犬の墓地を足りない両腕で包み込むように抱きしめ、目をつぶった。
翌朝、目を開けた時にはもう岳はその場にはいなかった。墓地に向かっておはようと仲明は挨拶した。いつもの「ワン」という返事は戻ってこない。ぽろ、と一つ涙をこぼし、ごしりと肩で涙をぬぐう。服はびしょびしょに濡れており、余計に顔に水滴が着いた。
この精霊山にはいくつもの泉と温泉がある。体を清めるため、浅い泉を探した。
見つけた泉で服と体の汚れを取るようにばしゃばしゃと体を動かす。体は霊力使い、清潔を保つことができる。しかし服はそうもいかず、物理的に汚れをこすり取る動きをしなければならない。
ある程度妥協し、汚れがついたままの服を脱いで近くの背の低い木に干した。
洞窟からしばらく歩いた先に点々と温泉がわかれて湧き出ている。仲明は温かい湯が好きだった。遠かったが、温泉で体を清める事を好んでいた。
この精霊山には鋭利な草が多い。できるだけケガをしないよう避けて通っているものの、この体だと何かと擦り傷が絶えなかった。ヒザより下の足が無い仲明はよく葉で肌が切れる。温かい湯がキズに染みた。
「痛…」
それから数年、一人で精霊山で生活をしていた。親切な商業に出合い、野菜の種をいくつかもらった。仲明は幼少の頃、農業をしていたこともあり、野菜はすくすくと育って多くの野菜を収穫できるようになった。
仲明は寂しかった。野菜で鍋や調味料と交換できるかもしれないとふと考える。まだまだ腕は戻らないが、そのうち両手のどちらかが完治すれば料理もできるし、村の人と交流を持てるかもしれないと考えた。
また化け物扱いをされるのではと少し怖い気持ちもありながら山を下りる。
やはり一部の人間からはモノを投げられたり、刺されかけたりした。しかし優しい人はいるもので、調味料や鍋を野菜と交換してくれる人もいた。
親切にそれらを籠につめ、仲明が移動しやすいように籠を背中に引っかけてくれたのだ。
仲明は両手両足が不自由なことから、ひとつの野菜を二日かけて持ってくるという事しかできなかったが、この籠のおかげで数個の野菜を村へ運ぶことができるようになった。
その様子を剣に乗って上から見下ろす男が居た。潘岳だ。
「みすぼらしい恰好だ」
数百人の弟子の頂点にいたかつての師は今、雑巾のような汚い身なりの服を申し訳程度に体にひっかけ、ヒザ立ちの状態で懸命に洞窟に向かって歩いていた。
「楽しそうだな」
「岳…」
数年ぶりに人と話し、そして親切にしてもらえたのがうれしくて、仲明はニコニコと笑顔で歩いていた。
そんな様子を元弟子に見られていたのが恥ずかしく、うつむいた。
そもそも、自分は潘岳の人生を狂わせてしまった。その責任を負うために生きているようなものだったのだと仲明は思い出す。
軽率に人生を楽しんではいけないのだと反省し、「すまない」と岳に言った。
その時、「えーん」と赤子が泣く声が聞こえた。仲明は引き寄せられるようにその声の元へ向かった。
「た、大変だ、岳、赤子がいる!草むらに…!」
「捨て子だな」
「そんな…何か事情があってここに置かれているのでは」
仲明は肘で赤子の頭を撫でた。
「置手紙がある。なになに…捨て子だ。間違いない」
手紙を読み終えた岳がぽいと捨てるように仲明に手紙を投げた。
仲明は投げられた手紙を読もうとするが、ひっくりかえっていて読めない。両肘で紙をすくうようにするがなかなか掴めないでいた。
ハア、と潘岳は溜息をして手紙を拾い、読んだ。
「この子を拾ってあげてください。この子の母より。と書いてある」
「そんな…この子を村の誰かに預けなければ」
「その腕でどうやって?背中の野菜をおろして籠にでも入れるのか?そのトゲトゲした籠の中に」
「それはだめだ…人を呼ぼう」
「ここまで来るのに二日かかっているんだぞ。その足じゃ…村へ戻るとしても二日はかかるだろう。赤子は飢えて死ぬぞ」
「そ、そうだな…どうしたものか」
岳が助けてくれるわけがない。途方に暮れると、岳が自ら申し出た。
「洞窟までなら俺が赤子を運んでやってもかまわないけど」
「そうか!頼めるか?すまない」
***************
洞窟へ戻った後、柔らかいワラの上に赤子をおろし、二人で話をした。泣いていた赤子はワラの上にいくつかまばらに落ちている花をつかみ、笑っていた。
このワラは初めて村に行って化け物扱いをされた時、道中で見つけたものだ。せっせと往復して、多くのワラを集めて寝床を作った。この拾ったワラは不思議な力を持っていて、何をどうしても汚れることもなく、そして千切れる事も無いものだった。
「赤子は何を飲むものだったかな」
「師尊、そんなことも知らないの?」
「私は修行と料理しかしてこなかったから」
「1歳…にはまだなってないぐらいだが、かゆぐらなら食えるだろ」
「そうか…米はうちにないし…どうしたものか」
テンポよく返事をしてくれていたのに、潘岳が押し黙ったので仲明は見上げた。顎に手を当てて、何か悩んでいるようだった。
「俺の家でしばらく預かってもいいが…」
「それはありがたい」
「いや、すぐ村の誰かに預けろ。俺は知らん」
「あ…」
踵を返して潘岳は洞窟から出ていっった。ぐす、ぐすと腹をすかせた赤子が泣き始める。
この場にはこれほど小さい子供が食べられるものが無いに等しい。どうすればいいか悩んでいたら、剣に乗って潘岳が戻ってきた。おかゆを持って。
「岳、その粥は」
「お前のためじゃない」
「うん、わかっているよ。ありがとう」
ふわりと笑った師を見て、岳は目を背けた。
ふぅふぅと冷ましながら赤子に粥をやる岳の姿を見て、根はやさしいままなのだと仲明は胸を熱くした。
「どうして…泣いてるんだ」
「え?」
知らないうちに涙が出ていたようで、ぐし、と肩で自分の涙をぬぐった。
「すまない、どうしてか、嬉しくてね」
「まだ会って数時間しか経ってない赤子にそこまで親切になれるもんかな」
過去に色々あり、潘岳の性格はねじ曲がってしまった。自分にたてつく人間は容赦なく殺す勢いで叩きのめすし、実際に自分は四肢を無くしている。残虐な性格に育ってしまった事を自分のせいにしていた仲明は心の底から安心したのだ。
夜が近づき、仲明はくしゃみを一つする。ヒヤリとした風が洞窟に入り、赤子は寒そうに岳の体にぎゅっとしがみつく。
寒くても岳や仲明などが持っている金丹があれば体温をある程度調節することができるが、普通の人間はそうはいかない。
「すまない、岳、今日だけ、お前の家に寝かせてやってくれないか…?こんなことを頼める立場では無いのは百も承知なのだが…」
「ずうずうしいことこの上ないですね」
「すまない…」
申し訳なく感じ、仲明は目を伏せた。しかしこの子の命を救うため、願わずにはいられないのだ。
「…明日までだ」「ありがとう!その、ついでになんだが、明日この子を村まで…」「わかってる」
「ありがとう、ありがとう…っ」
「年を取って涙腺ゆるんだんじゃないの」
「うん、そうかもしれないね」
昔に戻れたような会話が出来て、仲明はとてもうれしく感じた。
翌朝、少し疲れた顔をした潘岳が洞窟に現れた。片手に昨日拾った赤子がいる。
「どうした?村の娘の誰かに預ける事はできなかったか?」
「無理だと言われた」
「なぜだ?」
「この子の目だ」
「これは…目が…紺色じゃないか。珍しい」
「昨日は暗かったし、気のせいかと思っていたんだが」
「きれいな目だ。この目が駄目だと?」
「ああ。この子の目は気味が悪いと言われた。他の村にも訪ねたが、同じように断られた」
「そんな…」
「いっそのこと、師尊が育てればいい」
「できれば私もそうしたいが…その…」
仲明が自分の体を見下ろし、言い淀んだのを見て潘岳が言った。
「粥とか…果物をつぶしたものなら食わせてやれる。その他はその腕でもできるだろ」
少しずつだが、仲明の腕や足は回復してきている。金丹と高い霊力により、伸びるように腕や足が形成され始めていたのだ。赤子を腕に抱けるぐらいにはなっている。
「一緒に育ててくれるのか?」
仲明はうれしそうに潘岳を見上げた。
「一緒にとは言っていない。ただその赤子に飯を食わせてやると言っただけだ」
「ありがとう…!」
「また…泣いてる。ほら、赤子が見てるぞ。みっともない」
「うん、うん…すまない」
その涙が本当にきれいに見えて、潘岳はつい、と指で師の涙を拭きとった。
「岳…?」
潘岳の珍しい行動に仲明は首を傾けた。自分の行動にハッとした潘岳は慌てて赤子を仲明に渡し、剣に乗って空へ飛ぶ準備をする。
「そいつの朝飯を持ってくる…っ」
「ああ、すまないね、頼む!」
こうして、いつか殺されるのを待ちながら、子供を二人で育てるという奇妙な毎日が始まったのだ。
‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘
子供を二人で育て初めて数か月が経った。
「師尊!湯あみは俺の担当だろ。あぶないったらない」
「いや。前は問題なく入れられたぞ」
岳が留守中で、二日帰ってこられない日があった。その日は仲明が一人で温泉地まで赤子を抱えて連れていき、湯に浸かったのだ。
バサ、と仲明は自分の服を着る。脱ごうとしたが、潘岳が来たので再度着ることにした。
「うそだろ、そんな腕で湯に入れたのか」
「ああ。気持ちよさそうにしていたぞ。湯につかっている間はしっかり私につかまってくれるしな。これからは私が入れてもいいだろう?」
「うーん…どうやって湯に入ってるのか見せて。安全そうなら構わない」
「え…」
目線を下にして、もじもじと恥ずかしそうにする師を見て岳は方眉を上げた。岳が不思議そうにこちらを見るので、仲明は頭を少し横に振り、答える。
「いや、裸を見られるのは抵抗がある」
「はぁ?男同士だ」
「う…人に肌を見せるのに抵抗があるんだ」
「赤子はどうなる」
「あ、そうだ、まだこの子の名前決めてないだろう。いつ決めようか」
ずっと赤子と二人は呼んでいたが、そろそろ赤子という言葉が似合わないほど大きく育ってきた。
「話をずらすな。俺が見て大丈夫だと判断したら湯を任せることにする」
「ん…わかった」
仲明は一枚服を脱いだ。両腕の無い仲明の服はいつもその一枚だけだ。
赤子が「あー、うー」と温泉を見て楽しそうにしている。
「元璋(げんしょう)という名前はどうだろうか」
「なぜ」
「強い子に育ってほしいんだ」
元璋とは仲明の師の名だった。もちろん岳もその名が誰のものかは知っており、フン、と腕を組んだ。
「俺はなんでもいい。好きにつければ。…男同士なんだ。無駄に恥ずかしがるな、気持ち悪い」
「はは…そうだね。すまない」
ちゃぷん、と元璋を抱えて風呂につかる姿は少し遠目から見ると女性にしか見えない。無い乳房を確認するとそれは男だということがわかるのだが、いかんせん恥ずかしそうにしているので少しどこを見ればいいか潘岳は目を泳がせてしまった。
――ただの師で、男で、しかも両腕と両足が無い男になんでこんな気持ちにさせられるんだ…!――
仲明は美しい男だった。長い髪はつややかで、肌は白い。そこいらの娘よりも器量がいいのだ。
ちゃぷちゃぷと赤子の元璋が足をバタつかせる。賢いため、手はしっかり仲明の首に巻き付け、離さないようにしていた。
なるほど、これなら確かに大丈夫だと潘岳は判断した。しかしもしもの事がある。やはり風呂の担当は自分がしなければと考えた。
「問題ないだろう?これなら風呂に入れるのを交互に交代してもいいんじゃないか?」
「だめだ。前回みたいに俺が家にいないときはいいが、今後も風呂は俺が担当だ」
「そんな…」
はあ、と残念そうに息を吐く様子を見て潘岳は尋ねた。
「師尊、どうしてそんなに一緒に風呂に入れたいんだ?」
「わからないか?」
逆に聞かれて潘岳は黙った。風呂に入れている時、嬉しそうに風呂の中で遊ぶ赤子を見て幸せになる自分がいることを岳は思い出す。
「そうだな…なら、仕方ない。師尊が元璋と入るとき、俺も一緒に入る」
「え?!」
服を脱ぎ始める潘岳に仲明は焦りだし、仲明は眉を寄せる。
「何をそんなに焦るんだ?」
「裸で一緒に風呂など…淫らだ…」
この精霊山には点々といくつか温泉が湧きでいてる。岩を隔てたすぐ側にもういくつか温泉はあるのだ。それなのに、と仲明は目を伏せた。
見ると首筋までもが真っ赤になっていた。どうやらのぼせたのではなく、とても恥ずかしがっているように見えた。
「俺たちは男だ。問題ない」
気にせず風呂に入り、元璋を奪う。
「あ」
「元璋は風呂の中で首と背中をさすってやると、気持ちよくなって寝るんだ」
そういって、優しく赤子の背中を洗うようにさすると、うとうとと眠そうにあくびを始めた。
「本当だ。かわいいな」
ぷぅぷぅと花提灯でも出そうな眠りをする赤子の顔をじっと見つめるソレは母親の顔だった。その美しい顔に岳は見とれてしまった。視線に気づいた仲明が顔を上げる。
「なんだ?」
「なんでも…ありません」
「そうか」
仲明に対し不遜な態度を決め込んではいるものの長年敬語を使って話していたせいもあり、近頃の岳は無意識に敬語を使って話すようになっていた。特別仲明はそのことに気づいてはいたものの、何も言わないことにした。
しばらく湯に浸かったあと、仲明は少しヨレた服を着る。うとうとと眼をこする元璋にクスリと笑い、元璋を抱こうと腕を伸ばした。
岳が背後から話しかける。
「そんな薄汚れた服で元璋を抱く気か?」
「これは…できる限り服は体と板で布を挟んでこすって洗っているんだが、取れない汚れもあって…毎日違う服を着まわしているから大丈夫だ」
村の人たちからもらった服は合計で4着ある。どれも汚れたり着古したものだ。それらの服をちょうどいい長さに切ってもらい、着衣している。
汚れてはいるがあまり金を稼ぐことができない以上、肌を隠せるだけありがたいと思っていた。ただ、あらためてそれをかつて弟子だった岳に言われると、なんだか悲しい気持ちになる。小汚い恰好をしているのは自覚をしているが、それを面と言われて仲明は何も言えず下を向いた。
不自由な体でできるだけしっかり洗っているのを岳も知っていた。しかし元璋が成長し、あちこち動くようになってから、仲明の衣服に汚れが付着する機会がどうしても多くなってしまっている。
「べ、別に、師尊のことを汚いと言っているわけじゃない」
元璋を抱いても汚れを付けることはないが、元璋を抱こうと上げた手は下にだらんと降ろされている。
けなそうと思って言ったことではない。ただ、もう少しましな服は無いのかと聞こうと思っただけだ。
「新しい服を調達しないのか?」
「そう、だな…いらなくなった服と野菜とを交換してくれるか、村の人に聞いてみるよ」
にこ、と笑顔をつくり、元璋を抱き上げた。
長い間、弟子として仲明の側にいた岳だ。作る笑顔とそうでない笑顔の区別くらいわかる。今の事は間違いなく綺麗好きの仲明を傷つけたと後悔をした。岳はもってきた巾着のなかから服を一着取り出し、渡す。
「とりあえず、これを着ればいい」
「これは?」
「色合いが女物だが、その服よりはマシだろ。今日元璋を連れて買い物に行った帰りにもらったものだ」
たまたま、足元に迷子の子供がへばりついて岳の服を離さず泣いていた。まだ会話ができないようで、仕方なく岳は近くの呉服店に入ったのだ。まさしくその店の子供が一人で外に出て、迷子になっており、お礼に服を一着もらったのだ。
「まさか女物だとは思わなかったが」
野菜を買いに来ていたのだが、行きつけの新鮮な野菜を売ってる店はすぐに品切れになるため、急いでいた。あまり話もきかず、服だけもらって帰ってきたという経緯だ。
「確か、お母さんに、とか言ってた気がするな」
「はは、女房への土産物としてもらったんだな」
女房、という言葉に岳はピクりと反応した。未亡人のようなはかなげな美しさを持つ仲明には、なんとも女房という言葉がぴったりとあてはまる気がしたのだ。
「これは…確かに女性ものだが…とても触り心地が良い。気持ちよく寝れそうだよ。ありがとう、岳」
これは嘘の笑顔ではなかった。ふわりと嬉しそうに笑う仲明を見て、胸の奥がズシンと押されるよな、重くなるような感覚を岳は一瞬感じた。
「別に。たいしたことじゃない」
一体ソレがなんなのかがわからなくて、岳は「?」と首を傾げた。
女物だが、寝るときにだけ使おうと決めた仲明はさっそく着ることにした。
岳は目を見張る。美しいという言葉だけでは足りなかった。
「はは…あまり見ないでくれ、外で私が女物の衣服を着ていると言いふらさないように」
「言っても俺に得なんかない」
「それもそうだね」
温泉から洞窟までは距離がある。つい最近から、剣を飛ばし、仲明を洞窟に送り届けてくれるようになった。まだ少し肌寒い日が続いているため、元璋は岳の家の中で眠るという毎日を過ごしていた。
いつもの通り、岳が仲明を洞窟に送る時間になったその時。岳は口を開いた。
「今日はやけに冷えこむ。家で寝た方がいい」
「…いいのか?」
「嫌なら洞窟で寝ればいいけど」
「嫌だなんて!しかし、君の家の寝床はひとつだけじゃないか?」
「…3人で眠ればいい」
「いいのか?」
「それしか言えないのか、耿 仲明」
「私は嬉しい。元璋と眠れるんだから。しかし…君は私と一緒でも大丈夫なのか…?」
あれから幾日か経っているが、まだ自分の事を恨み、いつか殺すつもりでいるだろうと仲明は思っていた。もう仲明は岳に殺される事を受け入れている。今更逃げようとも思っていない。罪を償うために死ぬのだから致し方ないことだと考えている。
忌み嫌っている相手を寝床に誘うのは何故かと聞くのは至極当然だった。
岳は正直よくわからなかった。女性ものの衣服を着た仲明をワラの上に寝かせるのが忍びなかったのかもしれないし、単にいつも元璋と一緒に眠りたそうにしているその希望を叶えてやる気分になったのかもしれない。
最近、仲明が元璋と眠れたのはたったの数回だけ。岳が留守中の間だけだった。その間、金丹が無い元璋のため、洞窟内が温かくなる術を施してから岳は精霊山を離れた。
仲明は霊力が高いが、岳ほど緻密な術を使うことはできない。そのため今もなお、元璋は岳の家で眠る日が続いている。
温かい日は洞窟で元璋と眠る事が出来るが、寒い場合は岳が預かるのが暗黙の了解になっていた。
仲明は金丹がある。寒くても体内で熱を作ることができるので、そう簡単には風邪を引かないはずなのは知っていた。
どう答えたらいいものか思案したあと、一言だけ「俺はかまわない」と言った。
にこにこと嬉しそうに喜ぶ仲明の顔を見て、岳は心の奥が温まっていくのを感じた。
********
温泉から岳の家までは少し歩くが徒歩で行ける距離だ。剣に乗っていくこともあるが今日は歩いて帰る。
「岳、今日はとても気分がいい。歩いて家に向かうよ」
「…」
岳も合わせて歩いていた。3人で夜の散歩をする日が来るとは、なんて平和なんだろうと仲明は嬉しく感じた。
岳の家に入った仲明はコロンと寝床に横になる。
岳の家に入るのは初めてではない。普段寒くない日中は仲明が洞窟で元璋の世話をしているが、元璋が調子を崩した時などは仲明も岳の家に来て看病をすることがある。
一目散に横になった仲明にフっと岳は笑う。抱いていた元璋を仲明のすぐとなりに寝かせた。
「子供みたいだ」
岳が嫌味でなくただの感想で言ったのだと感じた仲明は嬉し気に答えた。
「ずっとこの寝床の感触を、横になって味わってみたかったんだ。ホラ、私は数年ワラの上でしか眠ってこなかったから」
「…」
気持ちよさそうに寝床に転がり、眠る元璋の頬に口づけを落とす幸せそうな仲明に、再度岳の胸がズクと動いた。
「?」
先ほどから、この胸にクるものがなんなのかわからず、また岳は首を傾げた。いつの間にか二人とも気持ちよさそうにそろってくーくーと寝息を立てている。起こさないように額も寝台に寝転んだ。元璋を胸に寄せて抱いて眠る様子を見ていると、やはり胸がきゅ、と締め付けられる。
自分は母を早くに亡くしている。もしかしたらそれが関係しているのかもしれないと岳は考えた。しばらく見ているうちに、仲明の穏やかな表情を見ると湧き上がる衝動の名前がわかってきた。この気持ちはおそらく「守りたい」という欲求からくるものだった。かつては殺したいほど憎み、そしてかつては母の次に慕った人だ。
幼いころ、なんとかして師である仲明を嫁にもらう方法はないかと考えた事が何度もある。妖魔にとりつかれてしまうまでの仲明は優しく、美しく、いつか嫁にでもできたらいいなとよく考えていた。
仲明がううん、と一瞬眉を寄せた。体を少し浮かせて腕を伸ばす。仲明の顔にかかった髪をソッと流してやり、また岳は横になった。
師に触れた指から甘い感覚が広がり、どうしてかもっと触れたいと思うようになった。ふと仲明の体を見る。この四肢が不ぞろいな体に欲を感じてしまった自分を罵る。いったい、誰が仲明のカラダをこのようにしたのかを改めてふりかえる。
岳は唇を噛んで目を閉じた。今更、仲明を自分のものにする資格など、ありはしないのだ。
その日の翌日から、岳はつきものが落ちたように仲明に優しく接した。不遜な態度は相変わらずだが、常に敬意を払って話すようになったのだ。
「師尊、今日は3人で出かけますよ」
「3人で?元璋も連れてか?」
「ええ」
「しかし、3人も連れて剣で飛べるか?」
温泉と家までの距離と違って、町へ行くとなると、とても長い間飛行しなければならない。
ジロと岳に横目で見られ、びくりと仲明は背中をまっすぐにさせる。
「へ、変なことを聞いたか?」
「鉄のナベで、以前飛ぶ練習をしているのを見ました」
「‥‥」
「そして問題なく飛べていたのも見ました」
「外で鍋に乗って飛べと?」
「何か問題でも?」
「大ありだ…恥ずかしいじゃないか。鍋になんて…」
いつ岳が子育てを放棄してしまってもいいように、移動手段をいろいろと試行錯誤していたのだ。
鉄でできた鍋ならもしかしてと思い、試しに乗って霊力を込めると、いとも簡単にふよふよと浮遊した。しかし、かつては複数の師として尽力していた自分が、鍋に乗って浮遊しているのを見られるのは恥ずかしいものがあった。
「さあ、行こう」
鍋を放り投げられ、さっさと元璋を抱いて空へと岳は飛んでいく。
仲明は拒否ができる立場ではない。いやなことは嫌だというが、岳には元璋の生活の半分以上の世話を焼いてもらっている。大人しく言う事を聞いた。
ついた町は義足や義手などが多く並んでおり、仲明はなぜ岳が自分をここへ連れてきたのかがやっと理解できた。
「もう話はつけてあります。あの店で義足をつけますよ」
「義足を?しかし…」
仲明が言うよりも早く岳は中でも一番大きな店に入っていった。
店の中には人が多く集まり、そしてどの商品も驚くほど高いものばかりだった。
「岳、こんなに高い店に入っても…」
きっと足や腕につけられるものを一緒に探しに来てくれたのだろうということはわかるが、買う金がない。見ていても買えないのだ。ならば帰ろうと岳に言おうとした。
「師尊、これを両腕につけてください」
従業員がこの手について説明を始めた。
「こちらの方が…ああ、本当に手も足もなくなってしまったですね。大変でしたね…でも安心してください!うちの商品は軽くて丈夫!何より動きやすいと評判ですから!」
「そうですか。あの、こちらお値段は」
やはり値段が気になってしまう。仲明の手持ちはせいぜいじゃがいもを二つ買える程度の額しかないのだ。
「もう払ってあります。店主、答えないでいい。無駄口をたたいてないでさっさと両足も持ってきてつけてくれ」
仲明がすきを見て店主に金額について探ろうとすると岳がなぜか邪魔をしてくる。どうしても価格をきかせたくない理由があるんだろうかと首をかしげ、仲明は何も言わずに義手と義足をつけてみた。
「すごい!店主、これは動きやすい。ありがとう」
「でしょう?だからうちはここら一体でも一番売れてるんですよ!」
そのあと、長時間長くはつけられないと聞いて仲明は少し残念に思った。時間がたつとネジが緩んできてしまうため、再度ネジをきつく締めなおさなければならないらしい。もって半日で、それ以降は歩行が難しくなるということだった。
帰りぎわ、仲明は岳に礼を言った。
「ありがとう、岳」
「別に…あなたを連れ去った時に奪った金で買ったものですから」
仲明の元いた宗派はだいだい強きも弟子からの挑戦を受け、相手がどういった相手だったとしても負けた場合は当主を譲るという決まりだ。
仲明に勝った事のある岳がどう使おうと自由なのに、その金を自分のために使っていることを知って仲明は心が温まった。
「それで…これらの義手は使えそうですか?」
「使いこなすには相当の練習が必要だと思う。今日つけても立っているのだが精一杯だ。けれど、義手の方はとても便利だったよ。包丁がついた手と、普通の手の二種類があるなんて、とても便利だ」
料理が大好きだった仲明にとって、義手は画期的なものだった。これで、元璋にも美味しいものを作ってやれると思うと、仲明は嬉しくてにこにこと笑ってしまう。
自分はすぐに笑顔になってしまう性質をしているので、ハッと今の自分の顔を引き締めた。恰好をつけているわけではない。
ただ、憎いとながらく思っていた相手がニコニコとしている姿を見るのは嫌だろうと仲明は岳に気を使ったのだ。
一方、長く仲明と共に過ごしたことのある岳は仲明の今の表情を見透かしていた。口をきゅっと結ぶ。どういえばいいか迷った。岳自身、もう仲明を殺そうとは思っていない上、ずっと守ってやりたい、償っていきたいという気持ちの方が大きい。様々な所以で性格がねじ曲がり、素直になれなくなっていた。
しかし、昨日自身の気持ちに気づいてしまった以上、口を閉じることはできなかった。
「もう自分といる時は笑顔を我慢しなくていいです」
「あ、気づいていたか」
はは、と困った顔も、岳の胸にクるものがあった。
帰って早速、元璋のために仲明がリンゴを義手で切り、すりおろす。
義手は角度により物を握ったり放したりすることができる。それ以上のことはできないが、子供に食事を作るには十分だった。
また、椀からすくってリンゴを元璋の口元に運ぶことができるという事にも大変仲明は喜び、何度も「岳、ありがとう」と言うのだ。
腕が半分まであったので、土を掘ったり両の不自由な腕で野菜の種を挟んで植える事が出来ていた。ただ、収穫が困難でいつも岳に手伝ってもらっている。それが、この義手のおかげで一人ですべて収穫できるようになった。全てがやりやすくなったのだ。
またありがとう、と岳に言いそうになるのを飲み込んだ。岳に「あり、」と言おうとしたところ「あなたをそんな体にしたのは俺だ。あなたからの今のありがとうは嫌味にしか聞こえない」と言われてしまった。
実際は、あまり感謝されて岳が照れただけではあるのだが。
元璋をゲップさせ、風呂に入らせようという時、仲明は一つ聞いた。
「岳、なぜここにずっと居てくれるんだ…?」
ずっと気になっていたことだ。両腕が無い状態では元璋に食事を食べさせてやることもできない。しかし今は義手があり、もし岳がいなくなってもなんとかなる。収穫した野菜で金銭面の生活もなんとかなる。
この質問は今までできないでいた。本当はこの場から離れて自由気ままに旅がしたいと言われても、行かないでほしいと頭をさげるしかなかったから。
しかし今は違う。岳が本当はこの場にいたくないと思っているとしたら、相応の言葉を伝えるつもりでいた。
「…元璋を気に入ったから」
「そうか…ふふ、そうだったか」
今日はたくさん良い気持ちになれていい日だなと仲明は口元で弧を描いた。
元璋が眠そうにしているので、いったん寝台に乗せて休ませた。「次は貴方の番だ。ほら、口を開けて」
「え?」
「あ」
岳の耳が少し赤くなる。仲明は岳の作る料理が好きだった。食事はいつも別々だ。食事の時間は岳が元璋を連れて家で何かを食べさせる。終われば洞窟にいる仲明に引き渡す。そういう生活を繰り返していた。ただ、こうして一緒にいる時は仲明の分も作ってくれることがある。
仲明は霊力が高いため、食べなくてもいい体をしているが、食事をするのが好きだった。そのため収穫した野菜や木の実を両腕で支えていつも食べている。そんな仲明を見かねて、岳は料理を少し多めに作り、仲明の口に食事を食べさせることがあるのだ。箸はもちろん使えなかったため、岳から食べさせてもらう。
「岳…その、義手で箸がつかめるから…」
正直言うと、食べさせてもらえるのはこれまで嬉しかった仲明だったが、いつも恥ずかしいと思っていた。
食べさせている側の岳も耳が毎度赤くなっていて、いつも申し訳ないと仲明は思っていた。
「そう…ですね」
岳は人に食べさせるクセがついてしまったのだ。二人とも気恥ずかしい気持ちでもくもくと食事を済ませた。
そして温泉に入る時間になっても、まだ二人の耳は赤い。
仲明たちのいる山には小さな形をした温泉が複数ある。二人は一緒にいても、必要最低限の会話は控えるようにしていた。なぜならいつか殺す側の人間と、殺されることを受け入れている人間同士だったからだ。不要な事を言ってはいけない、と仲明は思うようになっていた。
この時間は一緒に剣に乗って温泉地へ行き、それぞれ二手に分かれて温泉につかる。
三日に一度、仲明は洗濯をする。今日がその日だった。
仲明は洗濯の仕方が独特だ。温泉地に置いたままにしている板を岩に立て、服を着たまま板に体をこするようにして自分の衣服を洗う。
その姿を見られるのが嫌で、なるべく仲明は温泉では二手に分かれて行動していた。また、自分が裸になっているところを他人に見られるのも嫌だったという事もある。
元璋が来る前までは長い間、冷たい泉でソレをやっていたが、いつしか岳が剣に乗せてくれるようになったので温泉で洗濯をやるようにしている。
温泉地に行く前に、岳が言った。
「俺が一緒に洗濯しておいてあげますよ」と。
遠慮したが、その体は俺がやったことだから、と言った。それ以上は言えず、仲明はうなずいた。
すると、二手に分かれる理由も無い上、昨日元璋と一緒に3人で温泉につかった。暗黙の了解で、岳と仲明はおのずと一緒に温泉で浸かることになるのだ。
岳はまたもや恥ずかしそうに服を脱ぐ仲明に目がいってしまう。自分の下半身が反応しないように気を付けた。
ちゃぷん、と先に仲明が湯に浸かる。ちょうどいい石の上に座ったのを見て、元璋を手渡した。仲明がすり、と元璋の頬に自分の頬をくっつけた。
「ふふ、元璋、まだ寝ているな。いつも風呂のはじめのうちは楽しそうに騒いでいるのに」
「今日は騒がしい場所に連れて行ったから疲れたんでしょう」
「うん…そうみたいだな。…可愛い可愛い私の元璋。元気に育っておくれ」
岳は湯に浸かり、隣の仲明をジっと見ている。眠っている元璋の背中をとんとん優しく腕で撫でている様子はまた岳の胸を動かす。
守りたいと一心に持った。。どうしてこうも、自分の体なのに気持ちを抑えるとができないのだろうと歯がゆい気持ちになった。こんな気持ち、できるなら取り払ってしまいたかった。
仲明は今、岳に逆らえない状況にある。
もし万が一、岳が無理やりにでも仲明を押し倒してしまいたいと衝動にかられた時、自身で我慢ができるかどうか心配だった。
仲明のカラダは美しく、繊細だ。なめらかな布のような肌触りをしているのを岳は知っている。
両手を塞がないと、仲明に何をしてしまうかわからないと岳は怖くなった。
「師尊、元璋の体を洗います」
「うん。お願いするよ」
義手は木でできているため、あまり長時間水につけてはならない。なので湯の中には入れることはできないのだ。
元璋を洗っていると、だんだんと気持ちが落ち着いてきた岳は元璋を仲明に戻し、今度は自分の体をゴシゴシと洗った。
その様子を眠っている元璋を抱きながらホウ…と仲明はうっとりとした顔で見ていた。
そしてハっと我に返る。自分の性癖が女性ではなく男性に向いてしまう事には薄々気づいてはいた。しかしあまり恋愛については興味はなく、その点については考えないようにしていた。修行を何年も続け、いつしか多くの弟子を抱えることになることで、色恋沙汰から遠のくことが出来ていた。弟子は全員自分の子供のように育てていたため、もうずっと、男性をそのような目線で見た事が無かったのだ。
ただ、こうして精悍なカラダを目にして、何も感じないワケは無い。ふるふると頭を振って、仲明はきゅっと目を閉じた。
服を着て、岳に抱き上げてもらうのを待つときまで、仲明は胸の奥がトクトクと早く打つ音が聞こえて少し変な気持ちになっていた。
今日のように町まで行くほどの長距離でなく、温泉と家、そして洞窟を行き来するぐらいであれば剣で飛ぶのはたやすい。
そのためか、岳は鍋に乗って自分で飛べとは言わなかった。仲明もクセで鍋は使わず、岳に抱き上げられて飛んでもらっていた。
仲明は抱き上げられる時の感覚をひそかに楽しんでいた。どうしてかわからないが、岳の胸元にいると安心ができるのだ。
反対に、いつかこの腕に殺されるのにな、と一人考えることもある。
いつものように一人の子供と四肢の不ぞろいな大人を抱えて剣にのり、家へ向かった。
そしてソっと地面に仲明を着地させる。
以前は投げるように地面に着地させられていた頃を思うと変わったなぁとじみじみする仲明だった。
見上げると、少し前までの憎らしいという目元は消え、優し気な岳の表情が見えた。また仲明の胸からクトクと忙しなく音が大きく聞こえてきて、これは困ったと仲明は下を向いた。
「師尊?どうしましたか?」
「いや、なんでもないよ。今日も、私は寝台で寝ていいのかい?」
「当り前じゃないですか。一つしか眠るところがないんだから」
「…今日はたくさん君にこの言葉を言ってるけど…ほんとうに、ありがとう」
***************
義手と義足のおかげで、他人から気味が悪いと言われる機会が減った。そして野菜が売りやすくなり、金がたまるようになった。
元璋は8歳になっていた。
二人は相変わらず同じ家に住み、同じ寝台で寝て、同じものを食べて元璋を育てていた。
はたから見れば夫婦にしか見えないが、二人は元弟子と元師である関係を貫いていた。
お互い両想いであるにもかかわらずだ。
朝食を終え、岳が依頼されていた妖魔退治に出かけようとしていた時。仲明がもじもじと金の入った袋を持って何か言いたげにしていた。
「どうしましたか?師尊」
「その、そのだな、そろそろ…」
まさか告白だろうかと岳は一瞬期待をした。はっきりとは言えないが、そういった、恋仲のような雰囲気になることが多々あったのだ。それでも自分の勘違いだと岳は自分に言い聞かせていた。今もなお、「期待をするな自分!」と淡い期待を込めてしまう裏の本能に言い聞かせている。
「元璋を学び舎に通わせてやりたいんだ」
「…」
「岳?」
「あ、ハイ、そうですね…」
やはり違っただろう、と岳はひそかに肩を落とす。
「しかし、知については師尊が、戦いについては俺が教えてあげられます。行く必要はあるのでしょうか」
「子供というのは同じくらいの年の子と一緒にいてこそ、身も心も成長するものなんだよ」
何人もの弟子を育てた経験者だけあって、仲明の言葉には説得力がある。なるほどと岳は納得した。
「足はすべて元に戻ったし、剣に乗って空も飛べる。元璋を遠い学び舎まで送り迎えをすることもできるぞ。いいだろうか?」
金丹と霊力を調節し、体の修復に何年も務めた。手首はまだないが、両足は完全に元に戻った。まだ新しい足は見た目ほど丈夫ではなく、小鹿のようにもろくはあるが、畑を耕すには支障が無い。
「そんなの…師尊が決めていい事ですよ。あの子の親は貴方なんだから」
「そう…か。そうだな」
寂しそうにうなずいた仲明の反応に、しまったと岳は失言を訂正する。
「俺も、あの子の父親みたいなものではありますが、やはり拾ったのは貴方だから、あなたが決めるべきです」
仲明の顔はわかりやすく明るくなり、うん、とうなずいた。
「とうとうあの子も一人前の男として第一歩を踏みだすわけだな」
嬉しそうに仲明はわが子の背中を見て微笑む。元璋は素直で元気な子供に立ち、今は鼻歌を歌いながら鎌で畑を耕している。
「ふふふ、まったく、歌が好きなのは誰似なんだろうな?」
「さあ、あの子の性格なんでしょう。よく小鳥の前で歌ってますよ」
「そうなのか?それは知らなかったな」
「音楽の才があるようで、以前教えてもいないのに良い曲を作っていましたよ。ほら、この間もらった笛、覚えていますか?」
「ああ、あの魚屋の。ん?確かあれをもらったのは最近じゃなかったか?楽譜の読み方を教えてあげたのか?」
「いいえ。まったく。読んでいたらなんとなくわかったと言っていましたよ」
「それはすごい。将来が楽しみな子だ」
そう言って、元璋の元へ行こうとしたとき、仲明は何もないところで躓いて転げそうになった。
「また…気を付けてください」
咄嗟に腰を抱え、仲明を支えた。
「ハハ…、いつもすまないね」
「まったくです」
そういう岳の目元は優しく仲明を見ていた。仲明はその目がとても好きで、少しでも長く見ていたいと思った。
岳の方も、細い仲明の腰を手放したくなくて、いつまでも手を添えたままだ。
もしここに、関係の無い第3者がいれば、男同士が長い間見つめあっているとわかれば違和感を感じるものだろう。しかしその違和感を感じるものは誰一人としていないのだ。
しばらく二人は見つめあっていた。
そんな関係は二人にとっては至極当然のことで、恋仲のソレと同じ雰囲気であることにまったく気づいていない。たまに思い出し、まるで自分たちが恋仲で、まるで夫婦のようだと密かに思うことはあるが、男同士でもこの距離感は至極当然の事だと思っているためおかしいとは思わないのだ。
息子である元璋もまた、岳を父、そして仲明を母だという目線で見ている。
大量に本を読み漁っている元璋も、普通は女性と男性が恋仲になることを理解はしているものの、自分の父母が仲睦まじい様子は息子にとって至極当然な事になっていた。
なんとなく二人が気になり、家の方を向く。元璋はやれやれと8歳児ながら知能は高く、まるで大人のように肩をすくめて軽く笑った。
元璋は「また見つめあってるな~」と感想を吐き、畑仕事を続ける。
その後仲明があまり乗り気でない元璋を説得して学び屋へ向かわせることになった。元璋の紺色の目は成長するとだんだんとあまり目立たなくなり、今ではよく見ないと色が深い紺色であるとに気づけないほどだ。
目の事でいじめられるようなら、学び舎は初日でやめさせようと思っていた仲明だったが、杞憂に終わった。
迎えに行った時、元璋はニコニコと楽しそうにしていたのだ。しかし、元璋が学び舎へ行った初日の帰りには別の大きな事件が起こってしまった。
「おかえり!元璋、学び舎はどうだった?」
「師尊!ただいまっ。子供だましな授業で退屈な時間はあったけど、たくさん友達が出来て楽しかったよ!」
「ははは、それは良かった…」
元璋は頭がいいが多少口の悪さが目立つ。本を読ませているのだが、そこから色々吸収してしまったらしい。なるべく気品のある話し方をするように徹底して教えているがあまり効果は無い。
そういう傲慢な態度と受け取られるような言葉を口に出してはいけないとも、しっかり教育だけはしているが治らないのだ。簡単に言うと生意気な面が多く、偉そうに見える性格である。
それも個性だと受け止めて、今日は何も言わず仲明は元璋の頭を撫でた。嬉しそうに元璋は目を細める。
心配で見に来た岳も後ろからその様子を見て仲明と同じ気持ちになっていた。
「コラ、元璋。生意気なやつだ。口を慎めよ」
育て親らしく、岳はわざと眉を吊り上げて言ってみたが、冗談めかして言ったのが伝わったのか元璋は笑ったまま片手をあげて「はーい」と岳に返事をした。
その時、岳に向かって剣が飛んで来た。岳は飛び、その剣を避ける。仲明は元璋をうしろにし、剣が飛んできた方向を見た。
「お前…!よくものこのこと!」
剣を飛ばしてきた男は殺気を立てて岳を追いかける。岳は剣で飛び、その場を離れた。追いかけた男も剣を操ることができるようだ。殺気めいた顔つきのまま、剣を取り出し、霊力を送って岳を追いかける。
元璋が不安そうにお母さん…と仲明に呼びかける。本を読み始めた元璋は、親をお母さんと呼ぶ事を知った。お母さんと呼びたいと懇願されたことがあり、家では仲明のことをお母さんと呼んでもいいと許可をしているのだ。うっかり外で出てしまった元璋のその言葉にクスリと笑い、安心させる。
「問題ない。岳はおそらくこの世で上から3つ目ぐらいに強いから。家で帰りを待とう」
「…うん」
岳が荒れていた時代があった。誰の事も信じられず、唯一認めてもらいたい人に殺されかけたあの数年前。
力が強い相手を選び、全員に勝利した。そして同時に恨みつらみも背負うことになった。
そのため、まれにこうして突然襲われることがあるのだ。隠していてもいつかはバレる。自分の四肢を奪った事以外、すべて元璋に伝えた。
「師尊は岳兄をうらんでいないの?」
「いや。恨んでいないよ」
「ぼくだったら、うらむかもしれない」
「感じ方は人それぞれだからね。岳兄を嫌いになったかい?」
元璋はふるふると首を横に振った。
「それは良かった。さあ、一緒に夕飯を作ろう。さっき町で鶏を買ったんだ」
「とり料理?やった!」
とっぷり夜が更けても岳は帰ってこなかった。心配になった仲明は剣で飛んで岳を探す。
霊力を強く感じるところへ行くと、傷だらけの男と余裕そうにしている男がにらみ合っているのが見えた。
「どうして俺にとどめをささない!」
「殺しても徳が無い。早くあきらめろ。力の差を見せつけられたら普通はひくだろ。なぜ引かない」
「恨めしいからだ!俺の師尊をよくも…!」
「死んだお前の師の話をまたするのか?俺にどうしろというんだ」
「死んで詫びろ!」男が岳に攻撃をしようとしたその時、仲明は男の名を読んだ。この時、今聞いた声が誰のものか思い出したのだ。
「奕辰(イーチェン)!」
思い出し、男の名前を呼ぶ。
「その声は…師尊!」
奕辰と呼ばれた男が泣きそうな顔をして、仲明にかけよる。
「は?」
岳はあっけにとられて口を開ける。
奕辰は仲明の両腕を見て、ぼろぼろと涙を流す。日中、岳しか見えておらず、近くにいた師である仲明に気づくことができなかった。
「これは…この腕は岳が?!」
「えっ…あ~、なんと言ったらいいかな」
「この手の事はまた今度教えよう。奕辰、なぜこの村にいるんだ?」
仲明は返事に困った。
「俺は今日からあの村の学び屋の手伝いをすることになったんです。あそこは俺の父が教えているんです」
「そ、そうだったか…」
仲明は悩む。もし岳と一緒に子育てをしているなんて知ったら元弟子だった、しかも今も心から心配をしてくれているこの人間にどれだけの傷を負わせるだろうと、言葉に詰まる。
岳は黙ってこちらを見ている。
「私が預かっている子供を、君の学び屋で今日から通わせる事になったんだ。少々生意気な面があるが、よろしく頼むよ」
「なるほど…ハッ」
バッと後ろを振り返ると、岳はもういなかった。
「師尊、どこに住んでいるんですか?」
「山の方だよ、とても遠い。剣で行き来しているんだ」
「へえ!今度行かせて頂いても?」
「すまない、同居人が大層人嫌いで…」
口をモゴモゴさせる。仲明は嘘が苦手なのだ。
「失礼しました。なら、今度俺の家へ来てください、ごちそうします。…その、手の事も伺いたいですし」
「ん…ああ。また、その時に。ゆっくり話したいのはやまやまだが、家に8歳の子供を待たせているんだ。今日は強い霊力を感じて、気になって来てみただけで…失礼してもいいかな」
二人は別れ、剣で家へ帰る。岳が夕食を食べていて、仲明はほっとした。
「岳、傷は無いか?」
「大丈夫です」
岳はすこぶる機嫌が悪かった。
「その腕の事…」
「いや、話していないよ。奕辰はあの学び屋の先生をしている人だったんだ」
「俺も戦いながらあいつから聞きました」
「だから相手が疲れて消耗するまで付き合ってやってたのか」
「翌日に自分の先生が起き上がれないくらい傷つけられたら、元璋もつらいでしょうから」
「ふふ、優しいな」
「…」
幾分かマシになったようだが、岳はまだ機嫌が悪い。食事を終えた岳に仲明は言った。
「岳、外で星を見よう。今日は特にきれいだ」
外に連れ出した途端、岳は眉を寄せて言った。
「師尊…俺はこの家を出ます」
まさかこんなことを言われるなんて思ってもみなかった。
「な、なぜ?この生活が嫌になったか?」
嫌なんて思ったことは一度もない。しかし岳は出なければならないと思った。仲明とはおかしい関係なのはわかっていた。はたから見れば、軟禁していると思われるような状況だ。
「岳、元璋はお前を父だと思っている…その、引き留める立場でないのはわかっているんだが、その…」
どうしても岳と一緒に居たかった。
「私の四肢の責任を取るといつしか…岳、お前は言ったんだ。治らないうちに行くつもりか?」
確かに、一度どこかで仲明に言った記憶がある岳だった。しかし、今その話はしたくなかった。四肢がなくなった話については二人の暗黙の了解で避けていた話題だ。岳はせっかく二人の事を思って離れて暮らそうと考えたのに、変なところから話を持って来られて頭に来た。今日は心が穏やかではなかった。普段ならこんな簡単なことで頭にくるような男ではない。しかし岳は言い返してしまった。
「なら!俺の幸せはどうなる?いつまでもあなたの四肢に付き合わされなければならはいのか?俺の10代は泥沼だった。貴方のせいで!」
妖魔にとりつかれた仲明は岳だけには厳しくあたり、殺しかけたことがある。その記憶が思い出され、仲明はガクンとひざから崩れ落ちる。
「すまな…すまなかった…」
口がカラカラと乾いて、かすれた声で仲明は謝った。
岳の口は止まらない。奕辰に戦いながら罵倒され続けていた。どれも否定できなくて、岳は怒りの矛先をあろうことか仲明に向けてしまった。
「なぜ俺は他人の子供を育てているんだ?なぜ俺は男のお前と!全部かかえなければいけないのか!」
本来はそうじゃない。岳が二人を守りたいと願ったから今の生活があるのだ。しかし一度壊れた心を元に戻す事は難しい。岳はもとより優しい男だった。それなのに、妖魔にとりつかれた仲明により、怒りや憎しみが一度湧き上がると、何かきっかけがないと怒りが止まらないようになってしまっていた。
一度目は仲明の四肢を切り落とした。そして今回が二度目の怒りの爆発となる。
「岳…岳、すまなかった。私を殴りたいなら殴りなさい‥‥それでお前の気が済むなら」
その言葉で岳の力がフっと抜けた。
「俺の好きなようにしていい…のか?」
「ああ。かまわない」
「なら…」
岳は剣にのり、そのまま仲明を抱き上げて温泉地へ向かった。
「温泉…?岳、私はもう先ほど湯に浸かったよ…?」
岳が突然仲明に口づけをした。
「んっ‥‥?!」
ぱ、と唇を離された後、仲明の心臓がばくばくと大きな鼓動を打ち始める。
「岳、どうしたんだ」
「夜の相手になってほしい」
「よるの、あいて?」
岳の目はギラギラと興奮したような顔つきになっていた。
岩と温泉だらけの一角に、草花が生い茂る場所がある。
ソっと仲明をそこへ横たわらせた。仲明は緊張でなんと言ったらいいかわからなかった。
また岳が口づけをしようと顔を近づける。決して嫌というわけではなかった。ただ、突然過ぎて、恥ずかしくて仕方がなかったのだ。顔をそむけ、岳は仲明の左頬を口づけることになる。
仲明は目前にあった白い花の香をすう、と吸い込んだ。
ちら、と岳を伺うと、ジっとコチラを見つめている。その視線に射抜かれそうで、ぎゅっと仲明は目をつぶる。
耳元に口をつけて、岳が問う。
「相手になって、くれますか?」
ゾクリと体の芯が熱くなった気がして、どうにかなりそうな体を落ち着かせようと仲明は地面の草を掴んだ。
そこでふと、あることに気づく。
「岳!」
「はい」
「両手がある!」
「へぇ、急に回復して。なぜ?」
「この花の香を吸い込んだ…もしやこの花には…」
「師尊、今はこちらに集中して」
「あ‥‥、」
****************************
朝、起きたら仲明が食事を作っている後ろ姿があった。元璋も鼻歌をうたって手伝っている。
昨夜、己を抑制できず手荒く仲明に手を出してしまった。岳はサッと顔を青くする。
「元璋、岳兄を起こしてくれるかい、私は少し用事があるから、出てくる」
「一緒に食事をしないの?」
「うん、帰ってきたら食べるから。今日、岳兄は妖魔退治で早く出なきゃいけないんだ。起こしてやってくれ」
「うん、わかったよ。母上…あ、師尊はどこに行くの?」
岳がいない、ふたりきりの時だけ、母と呼んでもいい決まりをうっかり破り、取り繕うように言い直す元璋の頭を撫ぜた。
「君の先生のところにご挨拶に行くんだよ」
「あとで言えばいいじゃないか。あとで、ぼくといっしょに学び屋に行くんだから」
「うーん。細かい事はあとで言うよ、それより岳、先生には岳のこと内緒にするんだよ。私と、おじいさんと三人で暮らしてるってみんなには言うんだ」
「はーい」
二人の話を聞いてふっと笑ってしまった。自分はおじいさん役になったのかと。しかしその笑いも瞬時に消える。
「師尊、首元に赤い点々があるよ」
「えっ」
「ホラ、鏡見て」
サーッと岳の顔がさらに青くなる。
「うわ、本当だ。…虫さされだよ。元璋、包帯を取ってきてくれるかい?みっともないから隠してから行くよ」
「うん」
ふと、岳が起きた様子を見つけて仲明が声をかける。
「岳、起きたのかい?おはよう」
「…おはようございます」
謝りたい気持ちでいっぱいだった。昨夜、仲明を温泉地で押し倒した。仲明はとまどいながらも、岳の願いを拒否することなく受けいれたのだ。
包帯をくるくると巻く仲明を見て、まざまざと昨夜の色めかしい師の姿を思い出させた。
本当のところを言うと、怒りで爆発しそうな心は、仲明と口づけを交わすうちに早くに収まっていた。
仲明は昨夜のような行為が初めてで、「そんなところも触るのか?!」とやることなす事すべてに驚き、途中で岳は吹いてしまったほどだ。とても怒りを持続させることはできなかったというのが本来の真相である。
途中でやめても良かった。けれども、ずっと触りたかった師の体だ。そうやすやすと引くことはできなかった。
岳の視線に気づいた仲明の目線がふるりと震えたのがわかる。頬がほんのり朱色に染まっていくのが見えた。また、ドクンと岳の腹の底から、昨日のように襲ってしまいたいという衝動が湧いてくる。
岳は頭を振った。予測していた通り、仲明は拒まなかった。拒めないのをわかっていたにも関わらず、力づくで組み敷いた事を猛省する。しばし、目を閉じて戒めの言葉を自らにかけ続けた。
仲明は首元を隠した後、早々に家を出た。岳と元璋は仲良く食卓で食べ始める。岳が最後の一口を飲み込み、水を飲もうとした時だ。
「岳兄とおかあさ…師尊はなぜ夫婦ではないの?」
突然の子供の質問に岳はおもわず水をこぼしかけた。
「な、なにを…」
「だって、すごく仲良く口づけしてたから」
岳は耳が熱くなるのを感じた。眠っていたと思っていたが、どうやら起きていたらしい。
事が終わったあとの仲明は疲れきっていて、歩くこともままならなかった。そして半分眠りに落ちた状態で岳に抱えらえて家へ戻ったのだ。話しかけると眠たそうにフワリと返事をする仲明が愛しくて、家の中でも眠る前に何度も口づけを送っていたのだ。
すっかり元璋が起きているかどうか確認するのを忘れていたと内心冷や汗をかいた。
「い、いつから起きていた?」
「わからないけど、岳兄が師尊に大丈夫ですか?ってたくさん聞いてるあたりで起きたよ。あれ、口づけっていうんでしょう?本で読んだよ」
元璋は早くからの仲明による教育で、聡明な子供に育っていた。ヒマがあれば仲明がこの数年でかき集めた書を読んでいる。
仲明が集めた本は真面目な哲学に沿った内容ばかりのはずなのに、なぜ口づけという単語を知っているのか岳は頭を抱えた。
岳はハっとする。仲明は料理好きだ。もちろん集めた本の中には料理に関する本も混ざっている。その中には新婚に関する料理本が一冊あったのを思い出す。
(あれかーーーーー!)
確か新婚夫婦の書いた詩が恥ずかしくて、仲明はもっぱらその本を開くとき顔を赤くしていた。
岳はンン!と咳払いした。
「忘れなさい」
「どうして?」
「大人になればわかることだ。あと、見られていたのを知ると師尊はきっと恥ずかしくて家に入ってこれなくなるだろう。昨夜のことは知らないフリをしてくれ」
母親がいなくなるのには耐えられない、といった風に元璋は岳の言葉に強くうなずいた。
元璋は夜目が効く。どんなに暗くても、普通の人間よりも数倍。
昨夜まっくらな部屋で仲明が幸せそうに岳の口づけを受けていたので、まあ気にすることもないかと考えることにした。
二人が夫婦でなかったにしても、いったいどんな関係かわからなかったとしても、
自分の育て親の仲が良ければそれでいいのだから。
その後、仲明と岳がお互いの気持ちを確かめ会うにはさらに10年以上の月日が必要になるのだが、それはまた別の話‥‥。
fin.
*********************
【仲明の両手と両腕の真相】
火を放つ事に躊躇は無かった。心から信頼していた彼に殺されかけたのだ。憎しみは膨れ上がっていた。門下生は全員追い出し、耿仲明一人きりにさせた。これだけでは物足りない。さらなる苦しみを与えるべく、術で大量の火の玉を屋敷に数発放つ。
この建物もとろとも焼きつくすつもりだった。
この場所に今いるのはかつて師と呼んでいた彼だけ。きっと怒って飛び出してくるに違いない。
(来い、耿仲明。お前をこの場で切り刻んでやる!)
両手を組み、空から楽しみに待っていた。しかしいくら待っても耿仲明は現れない。
「…?」
岳は首を傾げた。人は火事による煙で意識を失う事がある。いや、まさか。己の師がこんなことで死するわけはない。
背中に冷や汗が流れた。
「師尊!」
矛盾していた。耿仲明を殺すつもりで来たというのに、いざ彼が死を迎えるのだと思うと背筋が凍った。
予想は的中した。両手両足が焼け焦げた男が横たわっている。師は意識が無いようだった。
「なぜっ…くそ!」
耿仲明を担ぎ、急いで信頼する医者の元へ向かった。
「これは‥手遅れだ。全て切断すればまだ…」「手段は選ばない…この人を生かしてほしい」
岳は掌の汗を握り、そう医者に告げた。
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