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※三話目。続き。
手足が冷えていく感覚で、ふと我に返った。
無言で頭を振る。頰にできた、涙の乾いた跡がヒリヒリと痛んだ。顔を洗えば、この痛みは和らぐだろうか。
重たい身体を引きずるようにして洗面所に行き、顔を洗うなどして身繕いすると、ロシアはそのまま台所に直行した。弟達のために、朝ごはんを作らなければならない。
冷蔵庫を覗き込みながら思う。そういえば一人で朝ごはんを作るのは久しぶりだな──。もちろん、これまでにも一人で料理をしたことは幾度もあった。特に、WWⅡの時は父が不在のことがほとんどだったので、よく自分とウクライナが台所に立ったものだった。まあそれなりに楽しかったその時と、なんら状況は変わらない筈なのに。
どうしてこんなにも、苦しいのだろう。
気を抜いた途端、再び回想の世界に引き込まれた。
「ロシア、いいか?俺がいない時、もし食料が無かったら、お金を持って、今から俺が言う店に買いに行け。そうすれば上手くいくから」
思い出した父の顔は笑っていた。
「……どこにいけばいいの?」
幼い、年相応の声で聞いた自分の顔には、まだ、父親のつけていた眼帯に描かれたマークと同じ模様が入っている。父と同じマークが額にあることが、どれほど誇らしかったことか。
「そうだな、まずは……」
言いながら、一つ一つ食料を手に取りつつ教えてくれた。
「卵は……、肉は……、野菜は……、」
ロシアが言われた通りに繰り返すと、ソ連は目を細めながら頭を撫でてくれた……
「あぁ………」
そんなことを考えているうちに、現実に引き戻された。目の前の冷えた箱の中には、牛乳が無かった。ロシアたちにとって、牛乳ほど馴染み深い食材はない。牛乳を使わない料理を出されることの方が少ないくらいだ。無論、これから料理をするにあたって、ロシア自身もそれを使おうと決めていた。つまり、大至急、手に入れてこなければならないということだ。昨日のうちに確認しておかなかった自分を呪いたくなる。
「確か……ミルクは……」
近所のスーパーは日の出から数時間しないと開かない。しかも今は冬だ、日の出なんてこれから数時間後たたないとやってこない。となると、候補はもう一軒……大通りを真っ直ぐに行き、三番目の角を曲がって、少し行ったところの……
父親の声が頭の中で自動再生された。
『笑っちまうような話だが──ロシア、大通りのとこで買う牛乳だけは気をつけろよ』
『なんで?』
『あの店は、開くのは早いが閉まるのも早いんだ。しかも開くのはべらぼうに早い。朝の六時に開いて───』
ふと壁に掛けられた時計に目をやる。今は、7時半を回ったところだった。
「……行かなきゃ」
金を引っ掴むと、ロシアは分厚いコートを引っ掛け、マフラーを首にめちゃくちゃに巻きつけた。そのせいで吐き気が込み上げたが、構わずに、そのまま、脱兎の如く家を飛び出していく。
本当に太陽が昇る頃、牛乳売りの店員は店を閉めてしまう。その話を聞いた時は、幼いながらに感心したものだった。ものすごく早起きで、働き者なのだな、と。しかも、父がたまたま通りかかった時に開いていたその店で買ってきたものを飲んだ時、その美味さにひどく驚いたのを覚えている。
走りながらぼんやりとそんなことを考えていると、つんのめって転び掛けた。慌てて体勢を立て直す。その間にも、足は止めない。
「ハァっ、………ッ、………」
息が苦しい。だって、こんなにまだ雪が残る寒い中を走っているのだから。真っ白な息は瞬く間に後ろに流れていく。しかし、夜明けまであと一時間もない。急がない以外に選択肢など無い。
「っ…………‼︎ 」
……どれくらい走っただろうか。いつしか、店の前についていた。
膝に手をつき、貪るように空気を吸った。喉も、肺も、気管支も、呼吸をする度にまるで握り潰されているかのように痛んだ。当たり前だ、あんな凍えるような中を走ってきたのだから。肩で息をしつつ、ガクガクと痙攣する脚をなんとか奮い立たせて店頭まで歩いて行った。
よろよろと歩いてきたロシアに気づいた店主は、店をしまいかけていた手を止め、声をかけた。
「坊や?今日は一人かい。旦那は?」
旦那とは、無論、ソ連のことを指すのだが。
ロシアはせわしく呼吸しながら、思わず店主を睨みつけていた。ウシャンカを目深に被っていたので、おそらく店主には彼の表情は見えていない。
(お前なんかに何が分かる……こちらの気も知らないで、呑気に聞いてきやがって……‼︎ )
何も、知らないくせに。
「……、……今は…いません」
「そうかい」
震える低音でそう答えてしまったが、所詮はガキの声だ、ドスが効いていると言ったってたかが知れている。店主は気に留める様子もなく、いつもソ連が買っていたのと同じ品物をロシアに寄越した。そこでロシアが代金を渡そうとすると、
「あぁ、お代はいつもの半分でいいよ」
そう言われ、半分は返されてしまった。
ロシアは戸惑った顔をあげて店主を見た。
「え……でも」
「なに、一人で来たんだからそのご褒美さ。半分は何か好きなものでも買いな」
言いながら、店主は秘密だぞとでも言いたげに軽く片目をつぶった。苛立ちにより昂っていた感情はすぐに引っ込んでしまった。ロシアは小さく頭を下げた。
「ありがとう……」
そのまま残った金をポケットに無造作に突っ込むと、ロシアはくるりと背を向け、歩き出した。こんなに寒いのだから腐る心配もなさそうだし、行きのように走る必要はないだろう(夏はこうもいかないのだが)。大きな瓶を大事そうに抱えて歩く。大通りに出た時だった。
その日初めて太陽が顔を出し、道を照らしだした。暗かった道がスポットライトを当てられたかのように瞬く間に明るくなる。真っ白な積雪が光を反射して強く輝きだした。あまりのまばゆさに目を細めていた。日光に刺すように顔を照らされ、熱を感じたものの、吐息は真っ白なままだった。
誰もいない、閑静な街を歩く。雪を踏み締める音でさえ、周りの積雪に吸収されてしまうがため、あまり音が出ない。
「……あぁ…………」
悲しげな声と共に吐息が漏れ出た。
少し前まで、すぐ隣を歩く足音が聞こえたのに。その音だけは絶対に、雪に吸収されてしまう自分の足音のように弱々しいものではなかった。自分の隣を歩いていたソ連のことは、誰よりも鮮明に思い出せる。ロシアがよく荷物を持ちたいと駄々を捏ねてソ連を困らせ、実際持ってすぐ疲れてしまっては、ソ連が荷物を持ってくれたものだった。今はその時から比べれば身体は大きくなったし、力も強くなっていた。それなのに、その時に比べ、こんなにも心細い。
そんなことを考えながら、ぼうっとしていた。だから、後ろから近づいてきた“彼”に気づくことが、全くできなかった。
「………ロシア?」
心地よい低音が耳を打った。突然自分の名を呼ばれたロシアはびっくりして振り返った。
「………あ!」
そこには、よく見知った人物が立っていた。