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どこにでもある普通の家庭だった。父親は寡黙な優しい人で、母親は怒るとめちゃくちゃ怖かったけれど、ギルベルトもルートヴィッヒも母が作ってくれるホットケーキやクーヘンが大好きだった。犬を三匹飼っていた。郊外の一軒家で家族四人と犬たちと、平凡だけれど幸せな日々を送っていた。 そんな日々がずっと続くと思っていた。──十四年前の、あの日までは。
その日の朝もいつものように母親に見送られ、ルートヴィッヒはキンダーガルテンへ、ギルベルトは学校へ行った。いつものように勉強したり友達と遊んだりして、家に帰ってきてからは兄弟二人で犬たちとじゃれ合って。夜には父、母、ギルベルトとルートヴィッヒ、家族皆で食卓を囲んでその日の出来事など他愛ない話をして笑い合って。母がギルベルトの行儀の悪さを叱りルートヴィッヒも母の真似をして兄を嗜めると、少々拗ねてしまったギルベルトがルートヴィッヒの頬を抓ってまた母に叱られて。父は苦笑いして見ていたが、それもいつものことだった。そしてやはりいつものように、父と母におやすみの挨拶をして兄弟は床に就いた。
──家族誰もが、またいつもと変わらぬ朝が来ることを欠片も疑いはしなかった。
その夜更け、ルートヴィッヒはふと目を覚ました。兄が寝ているはずの隣のベッドはもぬけの殻だ。ルートヴィッヒはベッドを抜け出して子供部屋の隣にある両親の寝室を覗いてみたが、そこにも誰もいなかった。
そのとき、突如階下から大きな物音が聞こえた。
爆竹の爆ぜるような乾いた音。ガラスが割れたような耳障りな音。それに入り混じる誰かの怒鳴り声。
(皆、一階のリビングにいるのかな……)
そういえば以前、ルートヴィッヒが寝入った後に三人で映画を観ていたことがあった。たまたまトイレに起きたルートヴィッヒがそれを見つけて、自分だけ除け者にされたと駄々をこねて家族を困らせたのだ。今日もそうなのかもしれない。
だったら、とっちめてやらないと。あの物音は、そそっかしい兄さんがまた何か壊してしまった音なのかも──。
そう思ってルートヴィッヒは足音を忍ばせて階下への階段を下りていった。踊り場でそっと下を覗き見ると、リビングのドアの前に突っ立っている誰かの後ろ姿がある。あれは……
(兄さん……?)
照明が落とされた薄暗がりの中ではリビングのドアは閉まっているように見えたが、どうやら僅かに開いているらしく、兄はその隙間から中を覗き見ているようだった。
(兄さん、何してるんだろう……)
ルートヴィッヒは階段を下りきって兄へと近づき、その背中に声をかけようとした。
だが、それがそこにあるとは知っていたが何せ暗くてよく見えなかったのだ。ルートヴィッヒは小さな飾り棚に足をひっかけ、転んでしまった。その衝撃で棚の上の花瓶が床へ落ち──音を立てて砕け散った。
「──ルッツ、」
兄がこちらへ気づいたと同時に、リビングの扉の向こうからいくつもの足音や怒声が響いた。
「何だ今の音は!?」
「ガキじゃねえのか!?」
聞こえてきた声は、父のものでも母のものでもなかった。
ギルベルトはすぐさまルートヴィッヒの元に走り寄ると小さな身体を抱きかかえ、そのまま階段を駆け上がる。そして二階の一番奥にある両親の寝室に飛び込んで、ルートヴィッヒをクローゼットに押し込んだ。
「兄さん? 何なんだ?」
ルートヴィッヒは困惑し、兄の顔をじっと見つめた。唇をきゅっと引き結んでいる兄は僅かに震えているようだった。
「兄さん……?」
「……大丈夫だ。大丈夫だから……」
独り言のように、念じるように呟くと、ギルベルトはしゃがみこんでルートヴィッヒと目線の高さを合わせる。そして、にかりと笑って言った。
「ルッツ、怪我はしてねえな?」
一瞬、兄の言っている意味がわからずルートヴィッヒはきょとんとしたが、すぐにさっき割ってしまった花瓶のことだと理解した。思い出して、ルートヴィッヒはしゅんとうなだれた。
「怪我はしてない。でも、母さんが大事にしてたものなのに……」
「怪我してないならいいんだ」
「でも、叱られてしまう」
ルートヴィッヒが不安げにそう言うと、ほんの一瞬ギルベルトは顔を歪めた。だが、すぐに微笑を浮かべて弟の頭を優しく撫でる。
「叱られねえよ。……母さんは……父さんも、もう……」
「兄さん?」
「いいか、ルッツ。よく聞けよ」
ギルベルトは弟の頬を両の掌で包み込み、にやりと笑った。兄がこういう顔をするのは、悪戯や新しい遊び──大体、よからぬ企みであることがほとんどなのだが──を思いついたときなのだ。
この前は「庭に落とし穴を作って母さんを驚かそう」と言い出したんだったっけ──今度は何をする気だろう。母さんを怒らせるようなことじゃなきゃいいけど。この間の落とし穴はこっぴどく叱られたから。
だが実を言うと、ルートヴィッヒはこういう顔をした兄が何を言い出すのかとても楽しみにしているのだ。
兄さんはいつも、俺が絶対思いつかないような突拍子もないことを思いつくから。
期待に胸を膨らませ、ルートヴィッヒは兄をじっと仰ぎ見た。兄はにやりとした笑みを絶やさぬまま楽しげに言った。
「今からかくれんぼするぞ」
「かくれんぼ?」
期待に反してあまりに普通の提案で、ルートヴィッヒは拍子抜けした。それを見透かしたギルベルトは不満げに弟の額を指先で軽く小突く。
「今『つまんねー』って思っただろ。でも、夜中のかくれんぼは昼間のとはちょっと違うんだぞ。夜のかくれんぼの鬼は、本物のお化けなんだ」
「何を言ってるんだ。お化けなど本当はいないんだぞ」
「いるんだって。お前もさっき声とか足音とか聞いただろ」
ルートヴィッヒはわずかに怖気づいた。そんな弟の様子を見てとり、兄は少し意地悪く笑った。
「怖いのか?」
「……別に、怖くなど」
ギルベルトはぷはっと吹き出し、ルートヴィッヒの頭を優しく撫でた。
「だーいじょうぶだって、兄ちゃんがついてる。もうすぐあいつらが探しにくるから、お前はここでじっと隠れとくんだぞ」
やっぱりまだ少し怖かったけど、兄さんがとても楽しそうに笑うから。
だんだんと心が弾んできたルートヴィッヒは、目を輝かせて兄に尋ねた。
「兄さんはどこに隠れるんだ?」
ギルベルトはまたにやりと笑って、クローゼットの前にある大きなベッドを指差して言った。
「このベッドの下だ。ここから見張っといて、鬼がお前を見つけそうになったら俺がやっつけてやる」
「それじゃかくれんぼにならないだろう」
「いいんだよ。お前が見つからなきゃ、いいんだ。チーム戦なんだよ」
「そうなのか?」
ギルベルトは青の瞳を真っ直ぐに見つめて言い含めた。
「とにかく、何があっても絶対出てきちゃだめだぞ。鬼に見つかったら負け、見つからなかったら勝ちだ。お前、負けず嫌いだもんな。負けたくねえだろ?」
「Ja」
こくりと力強く頷くルートヴィッヒを見て満足げに微笑むと、ギルベルトは身につけていたクロスのペンダントを弟の首にかけてやった。
「これは兄さんのだろう? 俺は自分のをつけてるぞ」
「お前にやるよ。……きっと大丈夫だ。二人分だからな」
──と、そのとき。
「いたか?」
「いや。あとはこの部屋だけだ」
「外には出てねえはずだ、見張りの奴らが……」
部屋の外から聞こえる、いくつもの足音。話し声。
「……来たな」
ギルベルトはぽつりと呟き、弟の小さな身体をブランケットで包み隠すようにくるんだ。
「…………俺、お前の兄ちゃんになれて、よかった」
そう言って笑う兄の顔が、何だか泣いているように見えて────
「……兄さん……?」
その表情は気になったけれど、兄がかけてくれたブランケットはとてもふかふかで気持ちよくて──ふいに眠気に襲われて大きなあくびをするルートヴィッヒを見て、ギルベルトはいつものようにケセケセと笑った。
「何だよ、眠いのかよ。やっぱルッツはまだお子ちゃまだなー」
「……仕方ないだろう」
「寝てていいぞ。朝になったら鬼はいなくなってるからよ。──おやすみ、ルッツ。いい夢を」
ギルベルトはルートヴィッヒの髪にそっと口づけ、クローゼットをしっかりと閉じた。
ルートヴィッヒはそのまま眠りへと落ちていった。──どこかから、またあの爆竹のような音が聞こえた気がしたけれど──
────夢をみた。家族皆でピクニックに出かけた、とても楽しい夢だった。
「子供がいたぞ!」
突然差し込んできた眩しい光と誰かの叫び声でルートヴィッヒは目を覚ました。見上げた先にいたのは、スーツをかっちりと着こんだ見知らぬ男。ルートヴィッヒと似た色合いの碧眼、長い金髪、そして顔の左側にだけ一本の細い三つ編みを垂らしている。その人物は一般的な子供が見たら泣いてしまいそうな険しい顔つきをしていたが、ルートヴィッヒは不思議と恐れを感じなかった。
「……鬼さん?」
ルートヴィッヒが舌足らずに問うと、その男は困惑したようだった。寝ぼけ眼をこすって周囲をよく見ると、その男の肩越しに数人の人影がある。
(あの服……お巡りさん……?)
男はルートヴィッヒをしっかりと抱き上げると、穏やかな声音で問うた。
「坊や。鬼……とは何のことだ?」
ルートヴィッヒはまだ夢うつつの境界線上にいた。
昨夜のことは夢だったのだろうか。でも俺が寝てたのはクローゼットで……だからあれは夢じゃなくて……みんなでピクニックにいったのは……? 今は……今はまだ、夢をみているのだろうか……?
「……兄さんが……」
「君には十三歳のお兄さんがいるんだったね。お兄さんはどうしたんだ?」
「兄さんが、かくれんぼするって……」
「……坊や。昨日、何があったのか詳しく話してくれるか?」
ぼんやりとしながらも、ルートヴィッヒは促されるままにぽつぽつと話した。夜中に起きたら兄がベッドにいなかったこと。両親の寝室にも誰もいなかったこと。一階へ下りていったら兄がリビングを覗き見していたこと。花瓶を割ってしまったこと、お化けの声が聞こえたこと──
「それで、兄さんが俺をここに連れてきて……『鬼が探しにくるから隠れてろ』って……『見つかったら負け、見つからなかったら勝ちだ』って……。……あなたたちが、鬼なのか?」
「私たちは鬼じゃない。……そうか、では坊やは鬼に見つからなかったから勝ったんだな」
その言葉を聞いて、ルートヴィッヒは嬉しそうににこりと笑う。だが、すぐに不安げに表情を曇らせた。
「兄さんはどこなんだ? ベッドの下に隠れると言っていたが……」
男は、ルートヴィッヒには聞こえないような小声で近くにいた警官に問う。
「少年は見つかったのか」
「いえ……家の中には両親……しか……現在周辺を捜索中です」
男はルートヴィッヒに向き直ると、微笑を浮かべて静かに言った。
「お兄さんはまだどこかに隠れているみたいだな。──大丈夫だ、私たちが必ず見つけ出す」
「うん……」
男は、ふとルートヴィッヒの胸元に目をとめた。
「坊やは同じペンダントを二つもつけているんだな」
ルートヴィッヒは小さく頷く。
「チェーンが長い方は兄さんの……かくれんぼのときに兄さんがくれたんだ。俺と兄さんは誕生日が同じで、父さんと母さんが誕生日プレゼントにくれた……『神様がお守りくださるように』って……だから、これはだいじなものだから、兄さんに返さないと……」
「……そうだな。お兄さんが見つかったら返してあげよう。……坊や、まだ眠いんだろう? もう少し寝ているといい」
「うん……」
大きな腕の中で、ルートヴィッヒは安心してそのまますやすやと眠ってしまった。ルートヴィッヒが完全に眠りに落ちたのを見てとり、男は部下たちに厳しい口調で告げる。
「この子の話と現場の状況から考えて、強盗殺人である可能性が高い。少年の捜索と犯人逮捕に全力をあげる。いいな」
だが、警察の懸命の捜索にもかかわらず、ギルベルトが発見されることはなかった。
犯人たちの行方も杳として知れないままだった。
後に、身寄りのなかったルートヴィッヒはこの事件を担当していた刑事に養子として引き取られた。
「それからずっと……俺は、兄さんを……」
すべて話し終えると、ルートヴィッヒは祈るように手を組んで俯いてしまった。重苦しい沈黙が周囲を包み込んだ。
「……あいつは……ギルは、親御さんが撃たれるところを全部、見てたんだ」
ルートヴィッヒと入れかわるようにして、フランシスは伏し目がちにぼそぼそと話し始めた。
『そりゃ、怖いってのもあったけど』
昔、ぽつぽつと過去を打ち明けてくれた、今よりも少年臭さの残った顔がフランシスの脳裏をよぎる。
『それよかはパニクってたっつーか……信じられなかったな……目の前で何が起きてるのか。悪い夢をみてるみたいで、ただ呆然と突っ立ってることしかできなくて……けど、そんとき弟が起きてきて────奴らに気づかれて』
『ただ、必死だった。こいつだけは助けなきゃって』
かすかに潤んだルビーの瞳を思い出しながら、フランシスは静かに言った。
「あいつはお前をクローゼットに隠した後、すぐに部屋の外に……犯人たちの前に、出ていった」
「────え……?」
ルートヴィッヒは顔を上げてフランシスを呆然と見つめた。
『二人して隠れたってどうせすぐ見つかっちまうだろ。だからすぐ廊下出て、奴らに“通報したからすぐに警察がくる”って言ったんだ。もちろんハッタリだけどな、あの部屋電話なかったし。けど、そう言えば奴ら長居しねえでとっととずらかるんじゃねえかと思ってさ』
フランシスは膝の上で組んだ両手に僅かに力を込めた。
「そして……犯人たちはギルを拉致して、この街まで逃げてきた」
「な……」
言葉を失ってしまったルートヴィッヒの肩を、フェリシアーノはそっと抱いた。そのブラウンの瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。
フランシスは淡々と言葉を継いだ。
「あちこちで似たようなことやらかしてる奴らでね。ルーイたちの家が田舎町の一軒家でそいつらにとっては狙いやすかったから……ただ、それだけの理由で」
力なくうなだれるルートヴィッヒの顔をフェリシアーノは案じるように覗き込む。
「……ルート……」
ルートヴィッヒは一度だけブラウンの瞳をちらりと見上げたが、すぐに目を伏せてしまった。
「……すまないが……」
ルートヴィッヒは下向いたまま言葉を絞り出す。
「少し、一人にさせてもらえないだろうか……」
「……別室へ行きましょうか」
「すまない……」
エリザベータは、ふらつくルートヴィッヒを支えるように連れ立って部屋の外へと出ていった。その後ろ姿を見つめてフェリシアーノはぽつりと零す。
「ルート、大丈夫かな……」
「今はそっとしといてあげな」
「そう、だね……」
フランシスの言葉に頷くと、フェリシアーノはそれきり俯いて黙りこくった。
しばらくの間、部屋には重い沈黙が満ちていた。カチカチと、壁時計が時を刻む音だけがいやに大きく響いていた。
「殺される覚悟やったんやろな」
零れた呟きは静寂の中に溶けていく。
「何やねんな……あほちゃうか、あいつ」
アントーニョは苛立たしげに頭を掻きながら、座っていた書棚からひょいと下りるとすたすたと戸口へ向かった。
「トーニョ、どこ行くんだよ」
フランシスの問いには煙草を吸う仕草だけで答え、アントーニョは外へ出ていってしまった。
「何だあれ」
呆れた声で言ったのはアーサーだ。
「ま、トーニョの気持ちもわかるけど」
フランシスは頭の後ろで手を組んでソファにぐったりと身体を沈めた。
思い出すのは──
『覚悟はしてたさ。俺は殺されんだろうなって。だけど……』
『弟が助かるなら、それでいいかって』
そう言って、あいつは笑ってた。
こっちの気も知らないで。
「腹立つよな」
お前はそれでいいのかもしれないけど。
そうやって、大切なもののためなら簡単に命を投げ出してしまうお前が、俺には我慢ならないのに。
天井を見上げながら、フランシスはふっと笑む。
「十三かそこらのガキが何カッコつけてんだよってなあ。またあいつが『俺様超賢い』って得意気に話すから余計ムカついてさ」
「……けど、お前には話すんだな」
独り言のように言うアーサーを、フランシスはきょとんとして見やった。
「何のこと?」
「前にトマト野郎が、ギルベルトは昔のことは話したがらねえっつってたぜ」
「ああ……それは長年の信頼と実績があるから、かな?」
フランシスは悪戯っぽく笑ってウィンクしてみせる。
「何だそりゃ」
「単につきあいが長いってだけだよ。ギルが十四くらいから知ってるからね」
「それで『フラ兄』か」
「まぁ、ね。……でも、今はあんまり……かな」
フランシスは気を取り直すように小さく息を吐くと、フェリシアーノに視線を向けてくすりと笑んだ。
「けど、トーニョも苛ついてたみたいだけどさ。あいつだって、自分がギルの立場でルーイがお前ら兄弟なら、似たようなことしただろうになあ?」
フェリシアーノは「まったくだよ」と唇を尖らせた。
「ほんとバカなんだよ、ギルベルトもトーニョ兄ちゃんも、兄ちゃんも。特にトーニョ兄ちゃんはすぐ無茶するんだから。ギルのふり見て我がふり直したらいいんだ」
「初めて聞く諺だな」
くつくつと喉を鳴らすフランシス。
「お前にもやっと反抗期がきたってことかー?」
「ふふ、ずいぶん遅いけどね」
「まあいいんじゃねえの? でもちゃんと仲直りはしなよ」
「うん……」
気まずげに笑んだフェリシアーノだったが、その表情はすぐに曇ってしまう。
「……やっぱり、怖かったよね」
「ん?」
「ギルベルトだってまだ子供だったのに……ルートを怯えさせたくなくて頑張ったんだね」
フランシスはそっと目を伏せただけだった。
「ねえ、フラン兄ちゃん。ルートとギルベルト、何とかならないのかな」
フェリシアーノはためらいがちに言葉を紡いだ。
「ルートはギルベルトがここにいること自体許せないだろうけど……ギルベルトが簡単にはここから抜けられないってことは、俺にもわかる。俺だって一応この街の人間だしね」
フェリシアーノは力なく笑った。
「だから、一緒に暮らすとかは無理だとしてもさ。せめて、定期的に会えるとか、何か繋がってられる方法はないのかな……だって、そんな理不尽な理由で兄弟が離ればなれになるなんて……悲しすぎるよ」
「……それは、難しいと思う」
困ったように眉尻を下げ、フランシスは静かに言った。
「ギルはルーイと完全に関係を絶ちたいからあんなこと言ったんだろう。ルーイがギルと中途半端に関わり続けると、逆にギルの力の及ばないところでルーイに危険が及ぶ可能性も出てくる。それに……イヴァンが、ギルとルーイが接点をもつことを良く思わないだろうし」
「時々会うくらいでも?」
フランシスはこくりと頷いた。
「イヴァンは、ギルが自分から離れていくことを極端に恐れてるから……最後に一度会わせてやれればいい方じゃないかな」
「……そんな……」
フェリシアーノは掌で両目を覆って俯くと、静かに嗚咽を漏らし始めた。フランシスはフェリシアーノの隣に座り、ただ黙ってフェリシアーノの肩を抱いていた。
壁際にいたアーサーはそんな二人を見て物言いたげにしていたが、やがて視線を逸らして窓の向こうの夜の闇を見つめていた。
東の空が白み始めた頃。
礼拝堂の前の石階段に座り込んで煙草をふかしている背中に、フランシスは軽い調子で声をかけた。
「ずいぶん長い一服だな」
「んー……」
いつも朗らかな悪友にしては珍しい生返事にフランシスは目を瞬かせる。
「なーに、またアンニュイでメランコリックな気分ってか?」
「少なくともウルトラハッピーな気分やないな」
「そりゃ俺もそうだけどさ」
「……他の奴らは?」
隣に腰を下ろすフランシスには一瞥もくれずに、アントーニョは前方をぼんやりと眺めながら尋ねた。
「少し早い朝飯中。それでお前を呼びにきた」
「あー……俺はええわ」
「ルーイもそう言ってたけど、女神様が『俺の作った飯が食えねえってのか?』てお怒りになったもんで無理矢理詰め込んでるよ」
「何やそれ。怖」
「ちょっと脚色が過ぎたかな」
フランシスは苦笑いを浮かべた。
「『とにかく食べて寝て力蓄えないと何もできやしないわよ!』ってさ」
アントーニョは薄く笑む。
「それ、あいつがイヴァンに言うとったことと同じやないか。『まずちゃんと飯食って寝ろ、細けえことはそれからだ!』って」
「だな」
「あのイヴァンがぴすぴす泣いとるのもびびったけど、イヴァンに説教する奴とか初めて見たからなあ。めっちゃびびったわ」
くすくすと二人して肩を揺らしたがその笑い声はすぐに小さな吐息に取って代わった。
まだ微かに薄闇が広がる中、眼前の道路の向こうには朝の海がぼんやりと浮かび上がっている。波にたゆたう船の影もちらほらと見てとれた。
それを見るともなしに眺めながら、アントーニョはぽつりと言った。
「……大体、わかるやんか」
言いながら、アントーニョは吸い殻を傍らの空き缶に押し込む。
「十三のガキがこんな街に連れてこられて辿る顛末なんぞ似たり寄ったりや」
「…………」
「あいつ、男娼やったんやろ。……売られたんやな」
フランシスは何も言わず、アントーニョと同じように海を眺めていた。
アントーニョが言ったことは、この街の大半の者が知っていることだった。今はイヴァンを憚ってあまり話題にのぼらないだけだ。
「潔癖症っちゅうか、嫌悪か」
「……近いかな」
「そら押し倒されへんな」
アントーニョの残念そうな口調にフランシスは苦笑を浮かべた。
「何なの、させたいの?」
「おもろそうやん」
「面白半分でミンチにされてたまるかよ。てか傷つけるような真似したくないし。俺は『お兄さん』だからさ」
アントーニョはフランシスをちらりと見やったが、すぐに視線を前方に戻してつまらなそうに呟いた。
「難儀なやっちゃな。自分から動けんくなってもうてるやん」
「俺はこれでいいんだよ。……子供みたいに欲しがって、若気の至りじゃすまないことになるとか……もうたくさん、だからさ」
アントーニョはフランシスの顔をまじまじと見た。長いつきあいだが、いつも飄々としたこの悪友が例え曖昧にでも自身の過去にふれるような言葉を口にしたのは初めてのことだったのだ。
「昔、何かあったんか」
「何もない奴がこんな街いないって」
「……それもそうやな」
「……だからさ、イヴァンがちょっと羨ましくはあるんだ」
フランシスは微笑を浮かべ、淡々と言葉を紡いだ。
「傲慢なくらいに欲しがって手を伸ばすって……すごいエネルギーいるだろ。俺にはもうできないからさ」
「……俺にはようわからへんな」
「お前、恋愛には淡泊だもんねえ。てか何かとヒドイよね」
「無理矢理とかはしたことないで」
「そういう問題じゃないって」
顔を顰めるフランシスに、アントーニョは気だるげに返す。
「せやかて、ロヴィとフェリちゃん以外に大事なもんとかないやんか」
「うわ……親馬鹿……」
脱力するフランシスに、アントーニョは平然と「あの子らが可愛すぎるのがあかんねん」と言ってのけ、そして静かに言葉を継いだ。
「けどお前、そんなんでもまた惚れるんやな。ほんま難儀なやっちゃ」
「何回難儀って言うんだよ。てかマジでお前にだけは言われたくないんだけど」
口を尖らせるフランシスに、アントーニョはふっと小馬鹿にした笑みを返しただけだ。
どこか遠く、夜明けの静寂を切り裂くように微かな銃声が響いた。二人は黙って眼前に広がる景色を眺めていた。
短い沈黙を破ったのはアントーニョだった。
「あいつ、結構な売れっ子やったらしいな。うちにもあいつの客やったいう奴おんねん。……あんま、聞いとって気分ええ話やなかったけど」
アントーニョはつまらなそうな声音で話す。
「そいつが言うとったけど……ギルがブラギンスキ家入ったそもそものきっかけは、あいつが先代……イヴァンの親父に色目使つこうたからやっていうんはほんまか?」
フランシスは目を瞬かせ、やがてぷはっと吹き出した。
「やっぱ嘘か」
「ガセもいいとこだよ。逆だよ逆」
フランシスは苦笑を滲ませる。
「イヴァンの親父がギルを気に入って専属にしたっていうか……そんな感じ」
「ふーん。まあ、可愛がってくれる主人ならそれもありやろな」
「……まあ、ね。でも……」
『あいつ、大っ嫌いだ。すぐ殴るし。俺らのこと完全に玩具扱いだぞ』
「ギルはイヴァンの親父のこと嫌ってた。……それに……」
『やられっぱなしなのもムカつくだろ。でもやっぱ一応客だし、殴り返すのはやべえかなと思ったから、あいつが寝てる間に髪の毛ぶちぶちむしってやったんだよ! そしたらゆでダコみたいに真っ赤になってやがってよ、ありゃあ見ものだったぜ!』
ケセケセと得意気に言う少年に『おま、何やってんのおお!? 相手誰だかわかってんの!?』とドン引きしたことはフランシスの生涯でも一、二を争う強烈な記憶だ。
『そういうとこが気に入られんだろうなぁ……こっちは気が気じゃねえけどよぉ』とぼやいたのは、少年がいた男娼専門娼館の店長だ。
『ふぁ? あのおっさん、髪むしられんの好きなのか?』
『そうじゃねえよ、そういう物怖じしねえとこが、ってぇ意味だ』
『ふーん。よくわかんねーけど』
『世の中にゃあ、なかなか思い通りにならねえ相手の方が燃えるってぇ奴もいるってこったよ』
『それは少しわかるかな。私もどちらかというとそういうタイプかもしれない』
上品な物腰で少年と店長の雑談に加わる声。
『あんたも髪むしられて喜ぶのか?』
『そんな奇妙な性癖はないな』
『そうじゃねぇっつってんだろ、人の話聞いてんのかおめぇはよぉ!』
会話に割って入った声の主は微笑を浮かべて言った。
『まあ、Mr.ブラギンスキも子供の悪戯程度のことで騒ぎ立てるほど狭量ではないさ。ミスターも、わずかばかりの頭髪を強引に撫でつけるよりいっそスキンヘッドにすればいいと思うがな。その方がよほどお似合いだろうに』
『へぇ、こいつぁ驚いた。あんたも言うときゃ言いなさるねぇ』
『そうかー? この人、普段からこんなんだぞ。……あんた、わりと口悪ぃもんなあ?』
にやにや笑う少年の視線の先ですまし顔をしていたのは、髪を後ろで一つに結った壮年の男だった────
フランシスは目を伏せ、声を落として呟いた。
「あいつには、本気で惚れてる人がいた」
「あー……そらややこしなるわな」
アントーニョは再び煙草に火をつける。
「弟かばったあげく、自分は散々な目に合おうて。……やりきれへんな」
そう零したアントーニョを横目に一瞥し、フランシスはふっと笑んだ。
「でもフェリが言ってたよ? お前もギルのふり見て我がふり直せってさ」
アントーニョはフランシスを見やり目を瞬かせた。
「はは、かなんなあ」
ばつが悪そうに頭を掻きながら、アントーニョはへらりと笑う。
「俺、ギルと同類か」
「自覚ないのかよ」
「せやかてなぁ」
アントーニョは煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
「言うたやろ。自己満足やねん。……俺がヴァルガスに入った成り行きは知っとるやろ」
「爺さんが思いっきり言いふらしてまわってたからな」
「あれなあ……やめてほしかってんけど」
子供のようにむくれつつ、アントーニョは遠い記憶に思いを馳せた。
アントーニョが物心ついたときには母親はいなかった。父親という男には殴られた記憶しかない。そもそもその男が本当に父親だったのかもわからない。
金を盗んでこなければ殴られる、盗むのに失敗すれば取っ捕まって殴られる──そんな日々の繰り返しだった。
ただ、盗みたくなかった。殴られたくなかった。そんな生活から脱け出したかった。だから。
十くらいの頃だったろうか──誕生日を知らないため自分の正確な年齢はわからないが──アントーニョは、酔い潰れて眠る父親の頭に枕を押し当てた。そして震える手で銃を握り、その銃口を枕に当て────
けれど、それからも何も変わらなかった。確かに父親に盗みを強要されることはなくなり父親に殴られることもなくなったが、守ってくれる大人もいない、何の力も持たない子供が生きていくためにはやはり盗むしか手段はなかった。失敗すれば殴られることも変わらなかった。
だが大人に縋ったところで、いいようにこき使われるか玩具にされるのがオチだ。そんなことは御免だった。
──力を、手に入れるしかなかったのだ。
そうしてアントーニョは銃を手に取った。
盗んで殺して、悪いことは何でもやった。独りで生きていくために。面白くも何ともない話だ。
「でも、まさかヴァルガス邸に盗みに入るとはなあ」
フランシスはくつくつと喉を鳴らして笑う。
「……我ながら、とてつもない黒歴史や……」
「いいじゃん、そのおかげで今があるんだから。……当時は爆笑したけど」
思い出しているのか、笑いを堪えて肩を震わせるフランシスをアントーニョは不満げに睨んだ。
少年の首根っこを捕まえて連れ回しているヴァルガスのドンを通りで見かけ、フランシスはその奇妙な二人連れに声をかけた。
『何その子。またどっかで拾ったの?』
『あー、こいつか? こいつはうちに入ったコソ泥だ』
『はぁ? コソ泥? ヴァルガス家に?』
『そーなんだよ』
ぽかんとするフランシスに、ドンは上機嫌に喋り始めた。
『鉄砲玉はしょっちゅうだから慣れっこだけどよ、泥棒なんて入られたことなかったからなあ。家のもん皆、“泥棒だ”“泥棒だぞどーすりゃいいんだ”ってテンパっちまって思わず警察に通報しちまって、そしたら“んなもんてめえらで始末つけろ”って言われてよお、警察仕事しろよってなあ! “ヴァルガスにコソ泥入ったらしいぞ”って見物人は集まってくるし、ほーんと大騒動だったぜ! んで、今はうちの見習いってとこだな』
『あはは、マヌケな子もいたもんだ。俺、フランシス。よろしくなー、コソ泥くん?』
『……アントーニョや』
にやにやと意地悪く笑むフランシスをふくれっ面で睨みつけるアントーニョ──それが二人の出会いだった。
「……しゃーないやん……マフィアの家とか知らんかってんもん……」
アントーニョは拗ねたように顔を顰める。
「大きい家やし、ここでぎょうさん稼げたら当分困らんやろ思てやな……ちゅうか、あの家フッツーに入れるんやもん。爺さんに『防犯どうにかせえ』ゆうて説教したったわ」
「そりゃあドンも窃盗を想定した防犯はしてなかっただろうよ。マフィアの家に泥棒とかさあ。自殺志願者かっての」
未だ肩を揺らすフランシスにアントーニョは半目を向けるだけだった。
家の者に取り押さえられてこの家がかの有名なヴァルガス家だと知ったときは、さすがに運は尽きたと思ったものだ。マフィアという連中は顔に泥を塗られることを何より嫌う。殺されるか、売り飛ばされるか……腹を括るしかなかった。
後ろ手に拘束されながらも『殺すならさっさと殺せや!』と暴れるアントーニョに対面したドンは、何やらしばらく思案してから、アントーニョの頭をぐっと押さえつけた。
『甘ったれんなよ、クソガキ。お前なんざ殺やろうと思えばいつでも殺れんだ。けどよお、こんなイキのいい奴、簡単に殺っちまうのは勿体ねえよなあ? せいぜい役に立ってもらうぜ』
『……ゲスがっ……』
睨み上げるアントーニョの鋭い視線を受けてもドンはにやにやと楽しげに笑い、そして背後にいる手下に声をかけた。
『おい、こいつ洗ってやれ。臭くてかなわねえ』
風呂から出てきたアントーニョの前に立ったドンは、やはりにやにやと笑っていた。
『男前になったじゃねーか』
『……うっさいわ』
『そうピリピリすんなって。──こっちだ、ついてこい』
渋々、その言葉に従ってドンの後に続いたアントーニョが行き着いた先は。
マフィアの屋敷には不似合いなファンシーな壁紙に、床に散らばる玩具や絵本、色鉛筆、落書きされた画用紙。何やらごちゃごちゃと詰め込まれた箱から飛び出ている大きなぬいぐるみ。壁際には布団がぐちゃぐちゃなままの二段ベッド──そこにも、どこに寝るのかというくらい玩具が散乱している。
(こういうの……テレビで見たことある……)
そして、部屋中央にある低めのテーブルにかじりついて絵本を見ている二つの──くるん。
『二人とも俺の孫だ。どうよ、可愛いだろ! そーか、可愛すぎて声も出ねえか! そりゃそーだろうなあ!』
アントーニョが呆気にとられていると、くるんの一つはアントーニョたちに気づいてぴゃっとカーテンの陰に隠れてしまい、こちらをちらちらと覗き見ていた。
『あ、爺ちゃん!』
もう一つのくるんはとてとてとドンに駆け寄り、ドンはしっかりとその幼子を抱き上げた。
『フェリシアーノ、さっき爺ちゃんが話しただろ? こいつがその“親分”だ』
『ヴェー、やったあ!』
『ほら、ロヴィーノもこっち来い。……あー、やっぱり駄目か、人見知りだからなあ……』
話が見えないアントーニョがぽかんとしていると、ドンはアントーニョを振り返って言い放った。
『てことで、お前、今日からこいつらの子守やれ』
『…………はぁ?』
『どうせ行くとこねえんだろーが。心配しねえでも、こいつらに何かあったらお望み通りさっさと殺ってやっからよ』
ま、せいぜい頑張ってみろ。こいつらは手強いぞ? それだけ言うとドンは幼子を下ろしてさっさと行ってしまった。唖然としてその背中を見送るアントーニョの服の裾を、小さな手がちょいちょいと引っ張る。見下ろすと、アントーニョの腰ほどの背丈の幼子はアントーニョをまじまじと見上げてにっこりと笑った。
『おにいちゃん、俺たちとあそんでくれる親分だよね? おれ、フェリシアーノ! あっちで隠れてるのは兄ちゃんのロヴィーノだよー』
『ちぎっ』
『よろしくね! いっぱいあそぼうね!』
「……フェリちゃんが、俺の手、握ってくれてな」
そう言って、アントーニョは自分の掌をじっと見つめた。その口元は穏やかな笑みをかたちづくっていた。
「初めてやった。人の手ってあったかいねんな、って思ったんは……」
殴られたことしかなかった。手を握ってもらったことも、頭を撫でてもらったこともなかった。こんなに小さな手がこんなにもあたたかいなんて、初めて知った。
アントーニョがヴァルガス兄弟の世話をするようになってから数ヶ月後のある日。
『ヴェー、トーニョ兄ちゃん、自分の誕生日知らないの?』
『うん……教えてもろてないねん』
困り顔のアントーニョを見て、フェリシアーノは何か一生懸命考え込んでいた。そして。
『じゃあ、誕生日作ろうよ! そーだ、トーニョ兄ちゃんがうちにきた日にしよう? えーと、あれ、いつだっけ……』
フェリシアーノは再びうーん、えーと、と考え込んでしまう。アントーニョはあたふたして言った。
『ええよ、そんなの。俺もいつとか覚えとらんし』
『二月十二日』
『え?』
アントーニョとフェリシアーノの驚きの声が重なる。日付を告げた声の主は、二人の会話など素知らぬ顔でプラモデルで遊んでいたロヴィーノだった。
『バカトーニョがうちにきたのは二月十二日だぞこのやろー』
『……ロヴィ……覚えとったん?』
フェリシアーノはぽん、と手を叩いて得意気に言う。
『じゃあ、二月十二日がトーニョ兄ちゃんの誕生日だね! 年は、ゼロ歳!』
『な、何で? 俺、フェリちゃんたちよりだいぶ年上やんか』
フェリシアーノはきょとんとしてアントーニョを見上げた。
『だって、俺たちの“親分”が生まれたのはあの日でしょ? トーニョ兄ちゃんがうちにきてからまだ一年たってないもん』
『そうだな。お前は俺たちより四つも年下だ、まだ赤ん坊だな。ざまーみろちくしょーめ』
アントーニョは二人の言葉にただぽかんとしていたが。
『ヴェッ!?』
『ちぎっ!?』
『え? ……あ、あれ?』
兄弟は慌ててアントーニョに駆け寄った。──アントーニョが、突然ぽろぽろと涙を零し始めたからだ。
『トーニョ兄ちゃん、何で泣いてるの? 俺たちより年下なのいやだった? ごめん、ごめんね?』
『……あ……、ちゃ、うよ……』
ふるふると首を横に振るアントーニョだが、二人はおろおろしたり顔を見合わせたりして、ついにはしゅんとうなだれてしまった。アントーニョは慌てて涙を拭うが──
(何やこれ……止まらへん……)
『ちゃう……ちゃうねん、……嫌なんやのうて、めっちゃ、嬉しいねん』
流れる涙はそのままに、アントーニョは二人を抱き寄せた。
『……ごっつ、嬉しい。……ありがとな、フェリちゃん、ロヴィ。ほんま、ありがとな』
その翌日。アントーニョはドンの私室にいた。
『何だよ、話ってのは』
『俺のチャカ、返してくれへんか』
ドンは吟味する視線をアントーニョに向けた。
『……理由は?』
『あの子らを守れる力がほしい』
真剣な面持ちに、真っ直ぐなペリドットの眼差し。そんなアントーニョを見てドンは目を瞬かせ──そして、にやりと笑った。
『ガキがいっちょ前の口ききやがって。──けど、悪かねえな。そういうのは嫌いじゃねえ』
いいモンやるよ、とドンは部屋の隅の棚をごそごそと漁り、『ほらよ』とアントーニョに何か放って寄越した。それは、古びた一丁のリボルバーだった。
『俺が初めて持ったチャカだ。手入れはしてっからちゃんと使える。……はずだ。多分』
『何や頼りないなあ……』
眉を寄せるアントーニョには構わず、やはりドンはにやにやと笑みを浮かべていた。
『言っとくがな、俺はまだお前を認めたわけじゃねえ。ヘボい腕の奴に俺の大事な孫を任せるわけにゃいかねえからな』
『ああ。わかっとるわ』
『期待してるぜ? アントーニョ』
ドンがアントーニョの名前を呼んだのは、このときが初めてだった。
こうしてアントーニョは再び銃を手に取った。ただ生き延びるためだけにそうしたときとは違う想いを胸に。
後年、フランシスは「オルレアン」を訪れたドンに尋ねたことがある。
『けどさ、あんたもよくどこの馬の骨ともわかんないガキに大事な孫の面倒見させたよね。何されるかわかんないとか考えなかったの?』
ドンはけらけらと笑って答えた。
『そんなもん目ぇ見りゃわかるさ、根っから腐ってるかそうじゃねえかぐらいはな。長年この街でいろんな奴見てくりゃあ、な』
『……なるほどね』
『結果、期待以上になってくれたじゃねえか。俺の目に狂いはなかったってことだ。これで俺も安心して引退できるぜ』
『何言ってんだよ、百まで働きな』
『はは、無茶言うなよ』
フランシスは悪戯っぽく笑うとワイングラスを掲げた。
『ヴァルガス家の繁栄とあんたの生涯現役宣言に』
『んな宣言してねえって』
そう言いつつもドンも楽しげに乾杯に応じ、二人はグラスを合わせた。
それが、フランシスがドンと酒を酌み交わした最後の日となった。
『確かに生涯現役だったけどさあ……早すぎでしょ。百までっつったじゃん』
墓前に花を供えながら、フランシスは呟いた。
『トーニョがいるから何も心配いらないよ。ゆっくり眠って……て、あんたそんなタマじゃないか。そっちでも暴れて神様困らせないでよ?』
「……ほんまあの子ら、手強かったわ」
ややげんなりとした口調でアントーニョは言った。
「毎日振り回されてへとへとやったわー……盗みで食っとる頃よりしんどかったんちゃうかな。けど、何やろ……目に映るもん全部、違ちごうて見えた気がしてな」
初めて、自分のすべてを投げうってでも守りたいと思える存在に出会えた。生きる意味を、死ぬ意味を見つけた。
「あの子らが、俺の生きる意味やから……俺が勝手にそう思っとるだけやから。やから自己満足なんや」
アントーニョはひどくやわらかな笑みを浮かべる。
「あの子らがな、あったかいとこおれたら俺が嬉しいねん。安心すんねん。あの子らのためやない、俺のためや。やからフェリちゃんもロヴィも、何も気にせんでええねん」
「……お前、眉毛菌移った?」
「気色悪いこと言わんといて。俺のは言葉通りの意味やからな」
むくれるアントーニョに、フランシスは薄い笑みを向けて呟く。
「だから、フェリシアーノもロヴィーノも同じ気持ちなんじゃないの?」
「は?」
「お前があったかいとこいたら、あいつらも嬉しいんだよ。お前が凍えてたらあいつらも悲しいの。……愛されてんだよ、お前も」
アントーニョはぱちくりと目を瞬かせたが。
「あー……俺は……そういうの、ええわ」
力なく、アントーニョはへにゃりと笑って俯いた。
「生きるのに執着してまうと思いっきり戦われへんくなってまう。思いっきりあの子ら守れんくなってまうからな」
そう呟くアントーニョをフランシスは不満げに見やっていたが、やがて大きく息を吐いた。
「ほんと、面倒な奴」
「ほんま、お前にだけは言われたないな」
アントーニョは立ち上がると、ぐいっと伸びをする。
「別に命を粗末にはせえへんよ。爺さんにも言われたしな、どんなチンケな命かて使いどころ、捨てどころっちゅうもんがある、ってな。あの子らにもろた命や、あの子らのために使って捨てるだけや」
すたすたと室内へ戻ろうとする悪友の背中に向かってフランシスは声をかけた。
「飯はいらないんじゃなかったの?」
「女神様のメシ食べへんかったら罰当たるやろ」
チャカより怖いフライパンってありえへんよな、と悪友はひらひらと手をふって建物の陰へと消えていった。その方向を眺めながら、フランシスはぼんやりと物思いに耽る。
(……愛されることに慣れてないのか、臆病なのか……)
ああいう生き方しかできないのかもしれないけど……
──それは俺も、人のこと言えないかな。
「……でも、なーんで俺の悪友はあんなのばっかりかな……」
もう一人の悪友を思い浮かべつつ、フランシスは石階段に座ったままぼんやりと空を見上げた。
アントーニョが去ってずいぶん経ってからも、フランシスは礼拝堂前の石段に腰を下ろしたままでいた。
風が微かな潮の香を運んでくる。水平線上にあった太陽は、もう完全に姿を現していた。澄みきった冬の朝の空。遠く故郷で見たものと何一つ変わらない青。
『こんな街でも──』
それはもう、十年以上前の記憶だ。
『こんな街でも、空は変わんねえよな』
『ドイツの空と?』
『うん』
フランシスの問いに、少年は銀髪を揺らして頷いた。
『フランスの空も同じか?』
『空は空だもの。変わんないよ』
『そりゃそーだな。バカなこと聞いたな』
ケセセと妙な声をあげながら少年は笑った。だが、その表情には微かに切なげな色が滲んでいた。
『ドイツに、七つ下の弟がいるんだ。弟、空色の目してて。……だからかなー、空見てたら、まだ大丈夫だ、まだ頑張れるって気がしてさ。今の店来る前は、見てるのはいつも灰色の壁ばっかだったから』
『……弟君も、同じ空見てるといいね』
『そうだなあ』
やはりケセ、と笑ってくりくりとしたルビー色の瞳がフランシスを見上げた。
『こんな話したの、おにーさんが初めてだよ』
『それは光栄だ』
『あんた、他の奴らと違う感じするからさ。何か話しやすいな』
人懐っこい銀髪の少年男娼と出会って間もない日のことだった。
──それから、三年ほどの年月が流れたある日。
『俺、ブラギンスキのハゲのとこ行くことになった』
『──え……』
『多分もう、自由に出歩けなくなると思うから。顔、見にきた』
そう言って少年──と呼ぶには大人びた、だが青年と呼ぶにはまだ子供っぽさの残る彼は、酷く穏やかな笑顔を見せた。
『……てかさあ、今だって店長の目盗んで抜け出してきてるだけだろ』
何とか動揺を抑えて絞り出せた言葉は、そんなくだらないものだった。
『はは、まーな』
凪いだ表情、というのはこんな顔のことをいうのだろうか。そんなことをフランシスは思った。
──やめてよ。
そんな顔しないでよ。
全部受け入れたっていうような……これで最後、っていうような。
だって、お前には。
『……お前……本当に、それでいいの? ……だってお前、あのひとのこと』
『仕方ねえよ』
きっぱりとした口調で彼はフランシスの言葉を遮った。
『仕方ねえんだ。ここじゃマフィアにゃ逆らえねえ。……迷惑、かけるわけにもいかねえだろ。まあ、あのハゲに飽きられて捨てられりゃそのうち出てこれるかもしれねえし』
でも捨てられる玩具ってのは大抵ぶっ壊れてるもんだよな。そう言って自嘲気味に笑う彼を、フランシスはただ唇を噛みしめて見つめることしかできなかった。
もう会えないかもしれないと思っていたあの別れから数年。嫌悪すらしていた男の専属の男娼としてその邸宅に軟禁された彼が、少年から完全に青年へと成長するほどの時は流れた。その間に、彼が愛したひとは姿を消してしまっていた。
ブラギンスキ家はボスの死により、まだ十代の嫡子がその座を継いだ。それと時を同じくして、彼とも思わぬ再会を果たせたが──。
彼からは、快活に笑う少年の面影は消え失せてしまっていた。少なくとも自分には多くを語ってくれていた唇も、長い間重く閉ざされたままだった。
件の男は、生業上ブラギンスキ家とも接点があって度々屋敷を訪れていたという。
あの冷たく閉ざされた屋敷の中で、彼とブラギンスキ親子──あるいはあの男との間に何があったのか、フランシスには知る由もなかった。
それでも時が流れるにつれ、断片的にではあるが、彼は再び口を開いてくれるようになった。
『護衛? イヴァンの?』
『ああ。あいつに雇われるってかたちでな。もう昔の仕事はやってねえ』
酒を呷りながら、気だるげに彼は言った。
『あの家から出てくチャンスはあったけど……まだ、あいつの……イヴァンのそばを、離れちゃいけないような気がしてさ』
ぽつりぽつりと零れる言葉の欠片をかき集めて窺い知れたのは──憎悪や嫌悪、悲嘆、後悔、諦観、あるいは憐憫……そして埋めがたい喪失感と、名づけられない感情。
それらの絡み合った想いが少しずつ彼の内で整理されてきたのか、最近ではまた昔のようにケセケセとよく笑うようになった。再会したばかりの頃は、彼とその雇い主との関係はお互いの距離をはかりあぐねているようなぎくしゃくしたものだったが、そのぎこちなさが薄れてきたのもここ数年のことだ。
過酷な境遇にあるのに、それを感じさせない馬鹿みたいに底抜けに明るい笑顔に何度も救われた。
笑っていてほしい。どこにいても、誰の隣にいても構わないから。
少し胸が苦しくはあるけれど、恋い焦がれて欲しがることなどとうの昔に忘れてしまった。
『あの子らのためやない、俺のためや』
『あの子らがあったかいとこおれたら俺が嬉しい』
(そうだな……その通りだ)
お前が笑ってくれてたら、俺が嬉しいんだ。
(愛なんて、望まれない限りは所詮独りよがりなものだから)
だけど……お前が心から笑っていられるように力になりたいと望むくらいは……許されてもいいだろう?
だから「関係ない」なんて突き放すような悲しいことだけはしないでほしい。
(ギル……お前は、本当にこれでいいの?)
現実的に考えるなら、おそらく彼が選ぼうとしている道が穏当なのだろう。だが──。
『しょうがねえだろ、弟すっげえ可愛いんだもんよ。何でもしてやりたくなっちまうんだよ』
愛しげに弟のことを話す少年の横顔を覚えている。
『──イヴァンを、殺してやりたかった』
『だけど、やっぱり……もう一度あいつに、ちゃんと向き合わなきゃいけないんじゃないかって』
戸惑いつつも、「雇い主」と位置づけた男に対して吐露したのは、決して負の感情だけではなかった。
『……ただ、好きだった。一緒にいたかった』
『──俺の、せいだ──』
苦しげに吐き出された言葉の意味は──
(お前は、何を抱え込んでる……?)
「…………アンニュイだなあ…………」
ぼんやりと空を見上げたまま、フランシスは溜息を吐いた。
フランシスのスマホにイヴァン個人の番号から着信があったのは、それから間もなくのことだった。