視界は煌々と焼き付く、眠ることを知らない天井。後にこれを突き通り、願いを叶える赤き少女がその昔、新たな硝子を覗くほんの少し前に『予感』を得た。
「この硝子の向こうは、今まで見てきたどんな所より素敵に違いないわ!」
一層頬を染め、紅の恒星は激しく明滅し、自らの思考とまだ蒼白な硝子を見ることに耽った。とても満足気な笑みを浮かべる少女が、向こうに飛び込む。
空から、光差すことは無い。しかし、これは夜か。その姿はどこまで眺めても真っ暗闇で、少女を照らすのは足元から続く、控えめで小さな花達のまばらな集まりだった。不思議に飢える、瑞々しい瞳が地面に向けられる。小さく口を開く少女は、その場に座り込んで、この世界に薄明りを与える彼らを観察する。彼らは、数えきれないほどの花びらを重ねて持っていた。まるでそれは現れたり消えたり、絶えずその形が変わっていくようだった。
発光する花びらと快活な印象を与える緑に、少女は顔の方から寝そべる。土のにおいがしないが、心身を爽やかな空気が通り抜けていくのを感じた。頬を、一本の茎がくすぐった拍子に、胸の内が跳ね上がった。思わず、少女はそれを食んだ。唇に当たる芯の感覚に、一層表情が緩んだ。
やがて、柔らかな足音が、少女の後ろからやってくる。軽い動物のものと間違えるほどだった。少女は上体だけを起こし、すぐ目の前に迫っていた人の姿を捉えた。上部には光源の届かぬほど高い樹木を後ろに、しゃんと立っている。豪奢な青い紳士服を着こなす、顔の良く見えないその人が声をあげる。
「随分、楽しそうですね。」
そう笑う、少し高い男の声は、胸の内を暖かくした。男は少女がするように、草花に静かに体を下ろした。そういう少女はというと、その男より気になることがあった。黒い空に消えていく、植物である。前かがみに、豪快に立ち上がり、体を反らせる少女は、問いかけた。
「大きい木!どうしてあんなに大きくなっちゃったの?」
少女はもう、大木のある方に歩き出していた。顔の分からぬ男の方を気にも留めない。男は、ためらうような間を作って、言った。
「不思議なお人だ、何もかも忘れて子供のように。今日は、どうかなさったのか。ふふ、あの木は、なるべくして高くなったのです。」
少女が根元に到達する間に、男はこう続けた。
「万物を万物たらしめる、精神体と呼びますが、その力があの木に引き寄せられるように移動し、巡るのですよ。集まるその力を現世へ、もう一度循環へ連れていくのは、この木に多く住まう使いの鳥たちです。」
先ほどまでとは違い、全身にぶつかってくる風を感じた。木々をその圧力で揺らす、そこでは扇ぐような轟音を作り出し、少女はよろめいた。さらには腕が震えて、立ち尽くすことしかできなくなる。好奇心旺盛な子を、男は適切な距離へ、脇から腕をひっかけて誘導した。
さざめきが幾分か穏やかに感じられ、少女の体から鎖が解ける。ふうっと、焦燥感が息で表れてから、自らを救ったその人の方を見やる。しかし、間近にあるはずのその顔は、酷い靄がかかっているようだった。一つ一つの顔のパーツがどんな形をしているのか、まったく読み取れず、色すらあやふやに変わり続けていた。彼は、こちらを見ているのだろうか。また、少女は動かなくなってしまう。滑り落ち、零すように「ありがとう。」と口に出す他には。男が答えた。
「いえいえ。気を付けてくださいね。あの木に近づくほど、心も揺れやすくなりますから。」
二人は、木の葉の下で座り込んだ。大木の中心から離れてみれば、風も音も存在感もとても少女をリラックスさせるものに変わっていて、自然と瞼が落ちていく。少女は、男の膝を借りることにした。ゆっくりと体を横にして、自らの右の首元と男の左足を重ねる。靡く赤毛が、その足を覆った。とても楽に、意識を手放せそうだ。この世界の全てが、大変に心地よい。そんな、幸せそうな横顔を、男は眺めたのだろう。
やがて、懐から一枚の布を広げる。男は右手でつまむように持ち上げ、少女の左腕をさすった。ほとんど考えなくなった少女の頭でも、流石にこれは奇妙だと感じた。指先から胸の辺りまでを、丁寧にゆっくりと擦る。男が、先ほどより声を落として語りだす。
「羽音が、聞こえないのが分かりますか。木には、もう使いが残っていません。老い、また一人と木に還っていきました。世界は老いぼれ、果てに達する日が、明日か、それとも明日かと、待っています。こうして、終わりを感ずるとしても、まだしばらくは残り続けることでしょう。」
声が遠ざかると同時に、少女の瞳にある映像が映る。真っ白で、膨張を続ける神木。ありとあらゆる物を象った白い影たちが、渦を巻いて飲み込まれていく。そんな中、動かない影がある。羽を畳んだ、一羽の鳥だ。『力』を持ち上げる太い嘴に、どこまでも飛び続ける大翼、そして地を掴んで離しはしない鋭い脚部を持つ、優雅で生命力のある影だった。ビジョンに入り込んで響くような、男の声が伝わってきた。
「これを新たな門出と、そう信じて受け止めましょう。そして、あなたが奏でる調和の賛歌を、その日まで、来世まで響くように願って、聞き続けたいのです。役目を果たせぬとも、良いのです。仕方の無い、ことなのです。」
少女は腕と親指に、何やら揺れるような感覚を覚えた。まるで、ぴんと張られた糸が繋がっていて、微かに弾かれたようだった。
「起きたらまた、儚くも鮮やかなその音を、」
男の声は、何かを堪えるように、小さくなっていった。
赤々と、喧しい光が閉じた瞼にも分かった。少女は目を開いた瞬間「痛い!」と大声を上げて、急いで空に背を向けた。arcaea世界に帰ってきたのだ。つい数瞬前の、花の薄明りだけが光源だった場所が恋しくなる。
熱に焼かれた視界が元に戻ると、先程の硝子が消えていることを認めた。今までに体験した世界とは、あまりにもかけ離れていたそれを思い出し、少女は椅子を手繰り寄せて考え出した。特に頭の中を支配したのは、最後に感じた様々だ。思い立ったように自身の両腕を確かめてみるが、正常な人の手が映った。
不可解な出会いと別れが少女に刻まれたが、その実態が分からないままになってしまった。やがてそれは、新たな世界を巡り続ける少女の手の内から、コロンと落ちて、意識の水底へと沈んでいくのだった。
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