日の光の下では紺よりも少し紫がかったように見える藍錆色のその髪が、形の良い耳の上で揺れている。
強い風が吹くこの場所の気候がそうさせている。普段は耳垂じすいが僅かに見えているだけで、そのすべてを目にする機会は滅多とない。血色などという言葉とは無縁の、陶器のような肌とはこういう肌だとサンプルとして差し出したくなるような白い頬や首筋と同じ持ち主のそれが、温かい日差しが透けているせいでその部分だけが濃い桜色になっている。ような、気がする。というのも、その耳が見えるのは風が髪を吹き上げる一瞬で、どうしてもきちんと見ることができない。
「なにさ、じろじろ見て」
こちらのあからさまな視線に、不愉快を通り越して呆れ果てているようで、少し眉根を寄せながらも笑っている。
自分の、こちらもほとんど髪に埋もれている耳の部分を指で差しつつ、なんと表現したものかと思案しながらこう言った。
「ん…、綺麗だな、と思って」
本当は可愛いと思っていた。
白い肌に、オレンジがかったピンク色のコントラストが、それ自体が精巧な造りの装飾品のようで、愛らしい。
例えるなら、シックな喫茶店の棚にずらりと並べられたコーヒーカップとソーサーの組み合わせ。完璧な造形美に、店の照明にただ晒さらされている普段は頑なに乳白色でしかないその器が、外からの強いキラキラと輝く光にあてられ、まるでそれ自体が中から発光しているかのようにぼんやりと淡く珊瑚色を宿しているのを発見した、あの思いがけない瞬間のような。
そんなことを言えば、今度こそ機嫌を損ねて、こんなところで棒立ちしている自分を貶しながら背中を向けてさっさと歩き出すにちがいないが。
しかし、相手はこちらが言った「綺麗」という言葉の底にある別の感情を嗅ぎ取ったようで、それがまさか可愛いだとは思っていないだろうが、あきらかに顔全体で「は?」と書いて示している。
「俺なんかを見て、そんな感想を抱くだなんて、酔狂だね」君のと大差ないだろ、と言って、頬にあたっていた髪をぐっと耳の後ろにかけてみせる。風に煽られてすぐに後ろの髪が耳の大部分を隠すので、ずっと髪を手で押さえていてもらわないかぎり、こちらの願望が叶うことはない。かといって、じっくり見たいから髪を手で押さえていてほしい、だなんて言えないし、それはそれでなんだか違う気もする。
「耳を観察したがる癖でもあるのか?」
「ないよ」また風が通り抜ける。近くの木がザアッと音を立てて、大きく揺れる。自分の横髪もかき混ぜられて、この目を覆い隠そうとする。
「ほしいならあげるよ」
いつから仕込んでいたのか懐から鞘付きのペティナイフを抜き出して、慣れた手つきで右耳に当てがうのをまるでスローモーションのように見送った、その数秒で、即座にそのあとの行動が頭をよぎった。
「だめっ!!!」
発した声よりも、自分の手が相手の手首を捻り上げる速度の方が速かった。するりと細い刃物が地面へ落下していく。自分の瞬発力があと少しでも鈍ければ、今頃その耳は切り落とされていただろう。
「ちょっと右側の聴力が馬鹿になるだけなのに」
まるで、そんなことは経験済みだとでもいうような軽い調子で言いつつ、しゃがんでナイフを拾い上げている。「耳なんか貰っても嬉しくないよ」
切り落とされた体の一部をありがたく受け取るような趣味はない。むしろ、ホラーだ。手の中にある耳を想像して、背筋がぶるりと震える。
「君の露骨な視線から逃れられるのならこっちは安い代償だけど?」
「ぜんぜん安いように思えない…」
「俺に遠慮することはない」
ペティナイフを鞘に収めて衣服の間に潜り込ませていた手が、こちらに向けて差し出される。その手のひらをただ訝しげに見つめていると、焦れたようにこちらの左手を掴んで、そのまま自分の右耳へと持っていく。
「こうしたかったんじゃないの?」
どうぞと言われて戸惑ってしまう。
「触りたかったわけじゃ、ないんだけど」
ただじっくり見たかっただけだと言ったら、また耳を切り離すような奇行に走られそうな予感がして口ごもってしまう。この指先よりも、白い。軟骨特有の、硬すぎない手触り。時折り揺さぶる風のせいか、そこはひんやりと冷たい。日向にずっと晒されていれば、人肌と同じ程度の温もりを持つのだろうか。親指と人差し指で、縁をそっとなぞる。
「ふふっ」
「くすぐったいの?」
指先をぱっと離しても、顔をやや俯うつむけてまだ笑っている。
「いや、君があんまり神妙な顔つきをしているから、おかしくて…ふふふ」
からかわれているのだと思うと急に恥ずかしくなった。それと同時に、さも可笑しげに笑っている目の前の相手は耳だけでなく、その造形全てが整っていたのだったと急激に思い至って、絶句した。
「君は無自覚だろうけど」
眩くらむほど純度の高い瑠璃のような瞳が、こちらをじっと見つめている。
「まるで、恋をしている人間の眼差しだったよ」
そんなわけがないと、咄嗟に言い返すことができなかった。熱を帯び始めた自分の頬がさらに赤く染まるのを止める手立てがない。
「教えてよ。君が好きなのは、この耳だけ?」
それとは裏腹にどうか鎮まっていてと強く願う。
こんなのは、耐えられない。
逃げるように目を閉じた。瞼の裏で淡い光がちらついている。
「君のほうが、よっぽど」
影が落ちた。
ふっと近づく気配に、あ、と思う暇もない。熱すぎるこの体温とは真逆の冷たさが、唇を塞ぐ。
遠慮がちに触れられた感覚を追うように目を開けると、変わらず真正面からこちらの瞳を見つめる視線とぶつかった。ふっと花が綻ほころぶような笑みが目の前で咲く。
「君のほうが、よっぽど綺麗だ」
離された唇からこぼれ落ちるようにつぶやかれた言葉は、もう一度言ってと頼むには烏滸おこがましすぎて、どうしようもない照れを誤魔化すためにぶつかるように相手の体に抱きついた。
淡い盲目、 それは恋 。