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どうにかこうにかユカリが羊小屋まで戻ってきた頃、地上の諍いに飽きた星々は瞬くのをやめ、東の空は白み、新たな朝が喜ばし気に輝いていた。
ぼやけた頭の中で、まるで祝福されているようだ、とユカリは思った。
勝利の喇叭は天高く響き渡り、民衆は喜びと共に英雄の凱旋を歓迎する。悪鬼から奪還した財宝に目を輝かせ、勇士を讃える歌を何度も繰り返す。偉業は聞き分けのない子供たちを眠らせるために物語られ、子から孫へと伝わっていく。迷い仔を保護する者。羊毛に包まれる者。大河の先導者。魔法少女ユカリを呼び表す異名がグリシアンの各地へ広がっていった。ついには各地に碑が建てられ、世界が永久の眠りに就くその日まで、風化を免れることが出来るならば受け継がれていく。
「ありがとうございます。ユカリさん」というフロウの言葉にユカリは呼び戻される。フロウは朝日に輝く黄金色の斜面に座ってユカリを待っていた。「羊を全て取り戻してくれたんですね」
取り戻したのは羊だけだ、と泣き言を言うのをユカリは堪えた。
「うん。かの英雄切り拓く者の剣もかくやって大活躍だったね」
ユカリはエピッカたち三頭の馬の鞍を外して解き放ってやると、フロウの隣に座った。麓の村は昨夜の出来事など全て夢であったかのように、祝福の如き黄金の陽光に照らされて、ごく平凡な朝の営みと変わらない気配を漂わせている。
馬たちがどこかへ去った後、エピッカにお腹いっぱい食べさせるという約束を果たしていないことをユカリは思い出した。エピッカは思い出さなかった。
北向きの斜面から見える空は、境界にあるものの習わしに従って、赤から紫、青、紺へと取りどりに彩られている。
「でも羊を取り戻しただけ」とユカリは小さく呟く。
「盗人やフェンダーさんを懲らしめもしたのでは?」
「そうだけど、何で分かるの?」ユカリはフロウの顔を覗き込み、その小さな鼻を見つめる。「まさか臭いで分かるなんて言わないよね」
「まさか、ですよ」
臭いで分かるようだ。
「たぶんだけど」とユカリは喉に引っかかっている言葉を無理やりに出す。「他の村人もこのことを知っている。全てかどうかは分からないけど」
「そうでしょうね」と言ったフロウの言葉はあまり悲しげでもない。「村人から預かって面倒を見ている羊も何匹かいるんですけど。残っていたのはその羊たちでした。偶然かもしれませんが」
そんな偶然があろうか、と眠たい頭でユカリは考える。あからさまな所業だが、子供なら騙しおおせるとでも思ったのだろう。
ユカリは何も言わずに朝焼けに染まった雲の流れを見つめていた。
フロウは平坦な心で呟く。「何か目を付けられる隙があったのでしょうか。僕は上手く羊飼いをやれていると思ったのですが」
「うーん」とユカリは考えるそぶりを見せる。「あえて言うなら若さなのかな。他人のことを言えるような立場じゃないかもしれないけど。私たちみたいな子供なんて、騙しやすいし、騙せなかったとしても泣き寝入りを強いることができるって考えたんだと思う。もちろんフロウが悪いってわけじゃないよ」
「なるほど」と言うフロウはそれについて深く検討する価値がある、とでも言いそうな様子だった。「参考にします。ところでユカリさん。これをどうぞ」
差し出されたのはフロウが所持していた羊皮紙の魔導書だった。
「貰ってもいいの?」と言いつつユカリは受け取る。譲り受けない選択肢はない。
「もちろんです。これを手に入れるために旅をしているんでしょう?」
「うん」と言ってユカリは気づく。「そこまで言ったっけ?」
フロウは快活に笑う。
「ピックに聞きました。それに僕にはもう必要ないですし」
「でも、狼たちは……え? ピックに?」ユカリの口から出かかった言葉が引っ込んでしまう。
眼前でフロウの姿が変わっていく。ユカリは心の中で驚きおののきつつ、少しも身じろぎすらできなかった。
フロウは再び巨大で偉大な狼の姿に変わった。相変わらず豊かな土地のように鼠や蛇のような小動物を体表に住まわせて、どこかから飛んできた小鳥を長い鼻先に止まらせるに任せる。巨大狼は一つ一つが英雄の剣のように鋭い牙の並ぶ口を大きく開けると、ぱくりと一口で羊を一頭丸のみにしてしまった。哀れ羊は悲鳴をあげる間もなく胃の中に放り込まれる。
「何で!?」と言ってユカリは立ち上がる。「何で魔導書無しに変身出来るの?」
狼は心底可笑しそうに笑う。フロウとは違う低くしゃがれた威厳たっぷりの声で。
「魔導書無しに変身することは出来ませんよ。だけど魔導書無しでも変身を解くことは出来るんです」
いつの間にか狼たちがユカリと羊たちの周りを囲んでいた。
「羊飼いでも狼使いでもなくて、狼の羊飼いだったんだね」とユカリは感心した様子で言った。
「人間の真似事ですが、一族の繁栄の為にと思いましてね。こんなことにはなりましたが、とても勉強になりました。ピックのことだけは残念ですが」
とても畏ろしく、それでいて親しみ深い存在のように、ユカリは感じた。
「あー、えーっと、私よりずっと年上なのに、生意気言ってしまいました」とユカリは言葉遣いを改めた。
フロウが可笑しそうに笑う。それだけで卑しき存在を気絶させてしまいそうなほどの威厳を感じた。
フロウは鼻先をユカリに近づける。「お別れです。狐の臭いのユカリさん」
そうして良いのか分からなかったが、ユカリはフロウの鼻を撫でた。湿っていて、きちんと鞣した革のように柔らかかった。
「え? 狐? あ! 嘘!? そんな匂いがするの?」そう言ってユカリは肩の辺りを嗅ぐが、やはり何の匂いも感じない。
「狼ですので」
ユカリが狩人として生きてきた年月は、その術を磨くに足らない些細なものだったが、その業を身に染み込ませるには十分だったらしい。
「それにしたって、変なあだ名をつけないでよ」
フロウは心から楽し気に、それでいて威厳を損なわせることなく笑う。
「それでは、心ばかりのお礼ですがお役立てください」
「ありがとう」とユカリは貰った魔導書を掲げて言った。「フロウたちも元気でね」
狼たちと狼たちに追い立てられた羊たちと共に巨大狼フロウは朝日の方向へと走り去る。
しかしユカリが助け出し、連れ帰った羊の半分が取り残されている。
「フロウ!?」と巨大狼の豊かな大地の如き背中に呼びかける。「羊が! まだ残ってるよ!」
返ってきたのは遠吠えだけだった。呼びかけるユカリの顔に風が吹きつける。
「ユカリ! まだ綺麗な羽根貰ってない!」とグリュエーが非難がましく言う。
羊と風の声がうるさい。