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「ここです」
新谷は助手席から乗り出すようにして、1軒の家を指さした。
車を停車させ、篠崎は住宅地図を後部座席から手繰り寄せた。
「住所、愛生町2-3-2」
言うと、新谷はそれをノートに書き写した。
「オッケーです。次行きましょう。まっすぐ進んで右に曲がってください」
言いながら、今度は前に乗り出すようにインパネに手をかけて浅く腰かけた。
言われる通りに右に曲がると、そこから5件目の家を指さして、「ここです」と新谷が言った。
このような作業を1時間前から繰り返している。
新谷が言った「俺の実家の近くに空き家が結構あって」という言葉通り、50年前に分譲されたこの地は、地盤の悪さと、交通の便の悪さから、最近空き家が目立ってきているようだった。
「今ので8軒目です」
新谷が篠崎を振り返る。
「それじゃあ、それぞれの所有者を調べに、法務局に行きますか!お願いします!」
篠崎は、鼻息荒く突っ走ろうとする新谷をため息交じりに見下ろした。
新谷の考えはこうだった。
あの祖母の希望通り、家はセゾンで建ててあげたい。しかしこれからそこに住む娘婿を入れた3人、そして子供が増えることを考えると、総面積坪はどんなに狭くても35坪は必要だ。
予算は3000万円。
セゾンの諸経費・外構込みの値段が坪80万円だとして、土地にあてられる金額は200万円。
相場の1/10しかない。
つまり新谷は、無謀にも“ただ同然で譲ってくれる土地”を探しているのだった。
「水を差すようで悪いんだけど。家の商談っつうのは、ゼロかイチか、だぞ」
篠崎は新谷の興奮を落ち着かせるように、あえて低い声をゆっくり発した。
「え?」
「断られた時点でゼロだ。そこから、0.1、0.2って上がってくようなもんじゃないんだよ」
「そうでしょうか。ネックが解消できれば人は前に進めると思うのですが……」
(そういうところが根っからの技術者なんだよな……)
篠崎は手で額を擦った。
そうでなくても、こういう引き際のさじ加減は、新人にはわからない。
客が営業に断る時点で、ネック以外のありとあらゆるテンションもゼロに下がっていることを、彼はまだ知らない。
それは魔法の解けたシンデレラの如く、素敵に見えた家の外観や、欲しいと思った充実した装備や、住みたいと思った性能まで、ただの「自分には縁のなかったメーカーの商品」というフォルダに分類され、急速に冷めていく。
そしていつしかそのフォルダは、ゴミ箱マークへとドラッグされていく。
あの母娘にとって、セゾンエスペースの家は、もう過去のことだ。そこから商談の土俵まで引き上げることは、おそらく奇跡に近い。
それに……。
「そんな簡単に土地の交渉がうまくいくと思うなよ」
新谷がきょとんと篠崎を見上げる。
「土地を早く手放したがっている人もいると、教えてくれたのは篠崎さんじゃないですか」
「いや、それはそうなんだけど」
言いながらハンドルから手を離し頭を掻く。
「それは一般的に、継いだ相手がお前みたいな若者だった場合で…」
こちらをまっすぐ見つめながら眉間に皺を寄せる部下を見る。
「……土地ってのはよ」
信心深い年寄りに聞こえるかもしれないが、しかしこう言うよりほかに言葉がない。
「神様が住んでんだよ」
「……………は?」
新谷は目を細めて胡散臭そうにこちらを見上げた。
「俺をからかおうとしていらっしゃるなら、いい加減にしていただきたいんですけど」
(なんだ、いい加減にって)
篠崎は新谷を軽く睨みながら話し始めた。
「お前みたいなガキにはわからないだろうけど、高齢者の中には土地神信仰が根強く残ってるんだよ」
「土地神……信仰?」
言いながら由樹は首を傾げた。
「その土地には、先祖様の魂と想いが詰まっているっつうこと。信心深い年寄りであればあるほど、利益目的でおいそれと応じられないっつうことだよ」
「土地神様……」
新谷がその空き家に向き直る。
篠崎も彼につられてそれを見た。
障子が破れて、ガラスは小学生にでもいたずらされたのか一部割れ、庭には草が生い茂り、玄関には大きな蜘蛛の巣が張っている。
「……こんな状態にしておく方が、土地神様も怒るような気がしますけどね」
ちょっとうまいことを言う後輩を睨むが、彼は大真面目でその空き家を眺めている。
「でもやれることはやってみたいな……」
呟くように言うと、彼は篠崎を振り返った。
「チャレンジしてみてもいいですか?それでダメなら諦めますから」
いつになく真剣な目で新谷が見つめる。
(こいつ、普段は俺のこと直視しないくせに……)
助言に従わず、素直に諦めようとしない若造に、だんだん腹が立ってきた。
「0か1かしかなくて、今が0なら、これ以上は下がんないですよね。なら足掻いてみてもいいですか?1になる努力をしてみてもいいですか?」
目がキラキラと光っている。
「馬鹿野郎……。お前の頭は小学校の算数で止まってんのか。いいか、中学校に上がって数学ってのを習うと、マイナスっつうもんがあるんだよ」
「マイナス?」
新谷がまた目を見開く。
「つまり営業の世界でいう、クレームってやつだ。一度あんなに丁寧に断られたのに、あんまりしつこくするとクレーム発生だぞ」
「……………」
途端にしゅんと身体から空気が抜けたように小さくなる。
篠崎はため息をついて、目の前の荒れ果てた空き家を見つめた。
(……たく。しゃーねぇな)
「……条件は、土地を探す了解をお客様にいただくこと。あとは、この8軒がダメなら、すっぱり諦めること。いいな」
言うとその体がむくむくと元の大きさに戻った。
「はいっ!」
自分より一回りも二回りも小さい手が胸の前で握られている。
(こいつ、なんでこんなにあの客に執着するんだろう…。たかが1棟なのに)
篠崎はそのまぶしい笑顔に目を細めつつハンドルを握った。
(ま、土地の勉強の機会と、断られるケースの経験にはいいかもしれないな)
それで彼が落ち込んだら、復活するまで自分が慰めてやればいいだけのことだ。
(……なんだそりゃ)
自分のいささかおかしい着地点に鼻で笑いながら、篠崎はギアをドライブに入れた。