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「本部に配属されました、金池陽子です。よろしくお願いします」
旧姓、金池陽子が総務部に配属されたのは、大学を卒業したばかりの春だった。
当時の総務部は、“総務”という読んで字のごとく、新車登録から、下取り車の所有権解除まで、全ての業務をやらされた。
さらに今のようにネットやメールも普及していなかったので、営業とのやり取りは直接か電話が主で、総務部の電話は一日中ひっきりなしになっていた。
「まずは電話を取ることから覚えてね」
今は実家がある福島に引っ越してしまった当時の総務課長は、新人である陽子に、ろくに指導もできないほど忙しそうにしていた。
「悪いけど、オンザジョブトレーニングって言うでしょう?やりながら覚えていこう」
(ーーーそんなこと言ったって…)
次の電話が鳴るのを憂鬱な気分で待っているとーーー。
「すいません」
背後に男が立っていた。
「希望ナンバーの申請用紙ください。3枚」
「あ。えっと…………」
(希望ナンバー?申請用紙?)
わからない単語に口をパクパクしていると、端正な顔をしたその男はフッと笑った。
「新人ってあんた?」
“背広”というよりは、“スーツ”と呼ぶのに相応しい、黒い細身のそれに身を包んだ彼は、若い見た目に反して、胸を張って堂々としていた。
全身にみなぎる不思議なオーラ。
陽子はその姿にしばし目を奪われた。
「ねえ、客、待ってるんだけど」
射るような鋭い目で見つめられる。
「ごめんなさい。まだ何もわからなくて」
男は陽子の反応に、少々めんどくさそうに目を逸らした。
そして、総務部の他のメンバーが全員電話中なのを確認してからため息をついた。
「こっち」
男は軽く手招きをして、奥の総務の倉庫に入っていった。
(え。そこ、総務部以外の人を入れてダメだって言われたんだけどな)
課長を振り返るが、電話に忙しくてこちらを見ていない。
他の本部の人間もそれぞれの業務で忙しそうだ。
陽子は戸惑いながらも、総務部の倉庫に入っていった。
「あ、あの……」
小さなコンビニぐらいの大きさの倉庫に、棚が並べられており、注文書の控えや、発注書、領収書、受注書に、見積もり用紙、カタログ、イベントポスターなど、全てがここに収められている。
その一角に新しい注文書、中古車の注文書、査定書、また新しい伝票、領収書などの備品も並べられている。
「ここだから。希望ナンバーの申請用紙」
言いながら男はハガキほどのサイズの紙を取り出した。
中に4つの大きな長方形が書いてある。
「ここに、4桁の数字を書く」
言いながらそれを3枚数え、手に取った。
「あの……希望ナンバーって何ですか?」
言うと、男は驚いたようにこちらを見下ろした。
「知らないの?」
「はい」
「————」
言うと、彼は黒々と太い髪をかき上げた。
「希望ナンバーつうのは、客が自分の好きなナンバーにすること。誕生日や記念日、ぞろ目や、好きな野球選手の背番号とか、な」
言いながらその長い指を先ほどの用紙に滑らせる。
「ここに希望のナンバーを書いて、警察に提出する。他に希望者がいない場合はそれで取れるけど、例えば“777”とか“8888”とか、人気のあるナンバーで、その週、偶然にも同じ希望者がいたら、抽選になる。通ればそのナンバー取得。通らなかったら、また次の週にでもチャレンジできる」
「へえ」
大きく頷いたところで、男は目を細めた。
「君、何歳?」
「え、えっと22歳ですけど…」
「じゃあ、大学出てるわけだ」
(あ…………)
不穏な空気に身構える。
「車の全てを覚えろとは言わないけど。総務部管理の備品の場所と、その備品の意味を学んでおくのは基本中の基本だと思うけど」
入社して2か月。
初めて先輩社員に怒られた瞬間だった。
「あれ、宮内くん」
総務課長が倉庫を覗く。
「どうしたの?」
「希望ナンバーの用紙貰ってました」
「あら、金池さん、よく場所わかったわね」
曖昧に笑う。
「でも、総務部以外の人を入れてはダメよ」
(勝手にこの人が入ってきたのに)
「すみませんでした」
また曖昧に笑う。
「じゃ、俺は店舗に戻りますんで」
陽子のフォローもせずに、男は課長の脇をすり抜けて、倉庫を出ていった。
「あの人、誰ですか?」
聞くと課長は、なぜかため息をつきながら言った。
「黒田支店の営業主任の宮内くん」
黒田支店の営業。あんなに若いのに、主任なのか。
「ね。金池さん?」
課長が陽子を見つめた。
「悪いことは言わないから、あの子に近づいちゃだめよ」
「え、それってどういう意味ですか?」
「危険な男だってこと!」
(危険な男?ーーーでも)
陽子は本部を出ようとしている彼の後ろ姿を見た。
(説明は分かりやすかったし、言ってることはーーー正しかった…)
倉庫を出て行こうとした課長の袖を捕まえる。
「わっ。何?」
「あ、あの、もしよければ―――」
陽子は思い切って言った。
「この倉庫に何があるのか、それをどんな時に使うのか、簡単にでいいので、教えてください!」
陽子、22歳。
27歳の宮内弘晃との出会いだった。
同じ建物内にいるのにも関わらず、彼とまた言葉を交わしたのは夏だった。
TOYODA夏祭りと、当時は珍しかったハイブリットカーのデビューを重ねて、メーカー協力のもと、県内で一番大きなイベント会場を貸し切っての大イベントが行われたのだ。
営業全100名のうち選ばれた30名の精鋭部隊の中に、当時若手の方だった宮内も入っていた。
本部は50名、全員参加で、試乗車や展示車の手配・管理、お茶出しや子供用イベントの運営など、2日間のイベントの間中、全ての業務を投げ出してのサポートを強いられた。
お茶出しの係を命じられた陽子は、談話スペースに座る客と営業に紙コップで茶を出した。
「年齢層見て、年配だったら、緑茶。中年までだったらコーヒー。子供や若い夫婦には、オレンジジュースが喜ばれるから」
課長の言う通り、見た目で判断して、盆に準備していく。
学生時代、ファミレスでアルバイトをしていたこともあるため、自信はあった。
数年に一度しかない大イベントをこういう形であれ、自分も参加し貢献できると思うと、たとえ休み返上でも嬉しかった。
しかしテーブルに到着し、「お飲み物いかがでしょうか」と笑いかけた瞬間、
「いやいや、ちょっと次予定があるもんで」
「気を使ってもらって悪いけど」
「結構ですから~」
客はことごとく席を立ってしまう。
営業の顔が焦るのがわかる。そしてその客の後ろ姿を見送りながら、陽子を振り返り舌打ちをする。
(なんで?)
自分の何が悪かったのかわからない。
印象は悪くないはずだ。
話の腰を折らないように、控えめにかつ和やかに、笑顔で茶を持って行っているだけなのに。
客に断られた緑茶を盆にのせたまま、呆然と立ちすくむ陽子の脇から、その紙コップをひょいととった人物がいた。
「あ、あなたは――――」
とっさのことで名前が出なかったが、胸にかかったネームプレートを見て、瞬時に思い出す。
「宮内さん!」
言うと、彼はそのコップを口に寄せ、音を立てながら一口飲んだ。
「良い茶葉を使ってるな」
言いながら笑う彼の胸には、金色の星バッチが2つ、光っていた。
今の時代、そういうことはパワハラに当たるということで廃止されたが、当時はそのように売れた営業マンと売れない営業マンを露骨に差別していたのだった。
驚いて大ホールの時計を見上げる。10時半。イベントが始まってから一時間半しか経っていない。
「すごい。宮内さん、もう2台も上げたんですか?」
「俺のことはどうでもいい」
宮内は、盆の上に3つ並んでいる緑茶の紙コップを見下ろした。
「何やら下らないところで躓いているみたいだな」
“下らない”と言われたことに、ほんの少し怒りが
湧く。
しかしーーーー確かにそうだ。
今、陽子は間違いなく躓いている。
「私がお茶を出すと、お客様はみんな席を立ってしまって―――」
「だろうな」
宮内が被せて言ってくる。
「どうしてですかね?」
ダメ元で聞いてみると、宮内の耳に入れたインカムが音を出す。
「入り口付近、試乗車を指さしている年配夫婦。行ける奴いるか」
営業企画部長の声だった。
「俺、行きます」
考えもせずに宮内が答える。
「よし、行け。奥さん、えんじ色のカットソーを着ている」
「了解しました」
宮内は盆の上に紙コップを置き、襟元を正し走りだした。
「いってらっしゃい」
その後ろ姿に返事を期待せずに言うと、宮内は意外にもこちらを振り返った。
「茶は進めるな」
「え……?だって………」
「置くだけでいい」
ボソッと呟くように吐き捨てた言葉に、陽子は目を見開いた。
彼は踵を返すと、出入り口に向かって歩き出し、今度は振り返らなかった。