コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
篠崎はアウディのキーを指で弄びながらため息をついた。
20時からスタートした打ち合わせは、予想以上に長くかかった。
客が急に外壁タイルを変更したいと言い出したためだ。
なんでも天賀谷に住む両親が、ラジオで光触媒タイルの光クリンについて聞いて、強く勧めてきたらしい。
セゾンエスペースのラインナップの中ではスマートハウスにしか標準仕様にしていない。他の種類の住宅であれば、オプション扱いになり、坪単価が上がってしまう。
「それならスマートハウスに変えちゃうか」
夫のその言葉で、設計士と篠崎は青くなった。
軸組み工法と2×6では工法が全く違うため、間取りも一からやり直しになってしまう。
見積もりも大幅に変わるだろうし、住設も選び直しだ。とても90日の打ち合わせ期限に間に合わない。
「光触媒ではありませんが、セゾンが昔から標準使用しているレンガタイルも質が高いですよ。経年劣化も“味”となるし、高級感がより増すようだと、お施主様からの評判も上々なんです」
篠崎の説明に、夫婦は渋々ながら最後には首を縦に振った。
(……今日の夫婦はなんとか丸め込めたけど、これからそういう客は増えてくるかもな…)
家というのは正解がない分、全ての技術と仕様にスポットを当ててしまうと、妥協ができなくなりかえってうまくいかない。
この客にはこの情報、あの客にはこの仕様、というように、営業マンが見極めて、開示する情報も制限する必要がある。
それがラジオやテレビなどのメディアになると、人と、タイミングと、要・不要を見極めないまま情報をシャワーのごとく流してくるから、たちが悪い。
(秋山さんに話して、ラジオ出演、ちょっと控えてもらわねぇと……)
マンションのエレベータを下り、自室まで欠伸を噛み殺しながら歩く。
腕時計を見る。
23:00だ。
新谷はもう眠っただろうか。
ドアを開けると、リビングの照明は消えていた
音を立てないように身体を滑り込ませ、施錠をする。
靴を脱いで上がると、そのままシャワーを浴びようと脱衣所に向かう。
「―――――?」
何かおかしな気配を感じ、篠崎はリビングのドアを開けた。
「――――お前。何をしてる」
常夜灯しかつけていない暗闇の中、新谷がソファの上で膝を抱えて座っていた。
「………岬さんは……知ってたんですよね」
急に名前で呼ばれ、篠崎は持っていた鞄を落とした。
「―――お前、どうしたんだよ」
「答えてください。岬さん」
「―――?」
照明をつけてソファの正面に回ると、そのローテーブルにはビールの空き缶が5本、つぶれた状態で転がっていた。
「おいおい……」
呆れながら傍らに転がっていたレジ袋にそれらを入れたところでガシッと手首を掴まれる。
「岬さん!どうして教えてくれなかったんですか?」
泣いていたのか、目の下が赤く腫れている。
「はあ?」
呆れて目を細める。
「林さんが辞めるって……!」
――ああ。そのことか。
篠崎は短く息を吐いた。
林の進退について、紫雨と篠崎が以前から話していたことを新谷は知らない。
林の中でも、紫雨の中でも、答えは決まっていた。
今回、彼らが一歩踏み出しただけだ。
その判断に、篠崎も新谷も関係ない。
「もしかしたら、俺にできたことがあったかもしれないのに……!」
言いながら拳で膝を殴っている恋人を見つめる。
なんて――――。
幼くて身勝手な優しさなんだか――。
「あのなあ。紫雨も林も悩みぬいての結果なんだから、お前がそれをどうこういう権利はないんだぞ?」
「でも……っ!」
「林のことを誰よりも近くで見ていた紫雨が、林はこの仕事に向いてないと言った。あいつのことを誰よりも大切に思っているあいつが下した判断に、他店の、しかも後輩のお前がどうのこうの言えるわけないだろ」
「―――じゃあ、岬さんは!」
ここぞとばかりに名前を連呼してくる新谷に目を細める。
「俺がもし、この仕事に向いてなかったら、同じ判断を下しますか?」
篠崎は腕を組んだ。
――どうだろう。
今現状、新谷は主任である渡辺に迫る成績をたたき出し、年間の優秀スタッフにも小さくはあるが顔写真が並ぶまでになっている。
向いていないわけはない。
しかしもし、こいつが向いてなかったら――。
どう指導しても伸びない奴だったとしたら――。
俺は――。
「……死ぬ気でアプローチ練習するかな」
「――――?」
「お前が成長するまで、何時間でも何ヶ月でも付き合う」
「――――岬さん…!」
新谷が足をもつれさせながら立ち上がる。
「お前は向き不向きの前にこの仕事が好きだろうし、好きだったらいずれ伸びるだろうし、何より―――」
「何より―――?」
まだふらついている体を抱き寄せる。
「お前、野放しにするとすぐ襲われるから」
「―――え」
「目のつくところにいないなんて、俺が許さない」
そのまま唇を奪う。
普段は酒を飲んでもアルコールの匂いはほとんどしないのに、今日はむせかえるほど酒臭い。
どうやら帰ってからずっと一人で飲んでいたらしく、体の芯までアルコールに浸っているようだ。
舌と唇の間から、艶を含んだ声が漏れる。
「岬……さん……!」
「お前な…」
篠崎は唇を離してため息をついた。
「酔っぱらった勢いで人の名前連呼しやがって」
「――――だって」
新谷はふらつく足で一歩退くと、篠崎を恨めしそうに見上げた。
「だって、恥ずかしくて呼べないんですもん。こんなときしか……」
「勘弁しろって」
篠崎はため息をついた。
「こっちは打ち合わせで疲れてんのに」
篠崎は新谷が倒れないように腕を引きつつ、自分のネクタイを緩めた。
「す、すみません……」
新谷がしゅんと項垂れる。
「―――覚悟しろ。煽ったのは、お前だからな」
「え」
新谷が見上げた瞬間、その身体は高々と担ぎ上げられた。