コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
其の男は自らを”天使”だと名乗った。
突然こんなことを言われれば、誰だって困惑するだろう。頭のおかしくなった人だとでも思うかもしれない。
見上げた男の頭に浮かぶ光輪と、人ひとり覆い隠せそうな巨大な羽に目を瞑れば。いや、今は目を瞑ることも許されない状況なのだが。
「初めまして!教祖さん」
にこやかに。そして心底楽しそうに。
「私のお話を聞いてくださいますか?」
そう言って、天使は美しく微笑んだ。
「本当にありがとうございました!!教祖様!!」
教徒が教祖に教えを乞うことが出来る、特別な一室。基本的に一対一の構図なため、部屋はさほど大きくない。大声を出さずとも此方には聞こえているというのに、興奮からか快活そうな青年は大きな声で何度も何度も感謝を伝えてきた。
胸元で、逆三角のネックレスが揺れる。
「……ええ。虚空は、全ての人間においての始まりであり、変わることの無い立ち位置です。それを忘れないでくださいね」
手元だけが四角く切り取られた衝立越しに、教祖は言った。衝立の向こうで青年の表情が明るくなっていくのが分かった。
「はい!では失礼しました!」
青年は元気よく返事をすると騒々しく部屋を出ていった。
完全に足音が聞こえなくなったのを確認して、教祖の男──というより少年に近い──は密かに嘆息した。先程までうっすらと笑んでいた表情はすっかり消え去り、つまらなそうな表情が現れる。ほっそりとした指が、首元からさげた逆三角のネックレスを軽く弄び始めた。
と、その時。
「もちさん、疲れちゃった?今日は人数多かったもんね」
「……叶くん」
穏やかな表情を浮かべた、叶と呼ばれた青年が、少年の背後に音もなく現れた。否、気配を殺していたと言った方が正確か。
教祖の少年はそれに驚くことも無く椅子から立ち上がり、猫の様に目を細めて青年を労った。
「叶くんこそ、周辺の警備ご苦労さま。いつもありがとう」
少年が軽く手を伸ばし叶の頭をぽんぽんと撫でる。叶は口元を緩ませ、それを享受した。
「もちさん、相変わらず人たらしだねぇ……。あ、今日明日はもう予定もないからゆっくり休んでね」
「それじゃあお言葉に甘えて」
少年はくすりと笑みを零すと、ローブを深くかぶり直す。目元まで下げられた白い布でもう少年の表情は伺い知れない。
彼は叶にひらりと手を振ると、カツリ、カツリと靴音を響かせながら懺悔室の様なそこを後にした。
念の為周囲を見回しつけられていないことを確認し、少年はドアノブに手をかける。素早く部屋に入り、大きな扉を音もなく閉じた。軽くつまみを捻るとかちゃりと軽い音がして鍵が閉まる。
完全に1人だけの空間。少年は少し肩の力を抜いて、ほうとため息をついた。教祖として人々の上に立つ彼も、所詮は人間である。一日中、代わる代わるやってくる教徒の相手をして疲れないはずがなかった。
「はぁ、疲れた……」
少年の小さな呟きは誰にも拾われず、静けさの中に溶けていった。窓から差し込む日差しはもうオレンジに色付いて、迫る夜の訪れを知らせている。
ぼやいていても仕方がない、まだやるべきことはある。少年は軽く頭を振ると、気持ちを切り替えて机に向かう。
軽く椅子を引き、そこに腰掛け大きな机と向かい合う。机上には整えられたいくつかの書類が小さなビル群のように折り重なっている。その中に無造作に置かれた小さな紙切れを拾い上げた。
『学生証 剣持刀也 ──高校普通科 上記のものは本校の学生であることを証明する』
その下に記された日付は随分と古く紙も薄汚れていたが、そこに貼り付けられた写真と少年の顔は全くと言っていいほど変わらない。
少年──剣持刀也は古びた学生証を優しく撫で、何かを懐かしむように柔らかく微笑んだ。
────と。
不意に視界が翳る。
ぞわりと背筋が粟立った。
誰かが居る。
今この部屋に入れる者はいないはずである。その上、全くと言っていいほど気配を感じなかった。
「……ッ」
血の気が引き、心臓の音が耳元で煩いほどにどくどくと響いている。体は硬直したように動かなかった。
脳の片隅で、振り向いてはいけないと本能が警鐘を鳴らしている。
するり、と。背後にいる何者かが剣持の顎を掬った。その手つきはひどく優しい。まるで、壊れ物を扱う様に。慈しむ様に。
左手で顎を掬われたまま、右手で頬を撫ぜられる。
無理やり上げられた視界に写ったのは。
「初めまして!教祖さん」
精悍な顔立ちの男。歳は30くらいだろうか。
頭の上でふわりと揺れる光輪。
自身を覆い隠せてしまいそうな巨大な羽。
(なん、で、この人が……)
それらには全くと言っていいほど見覚えがなかった。そもそも剣持は天国だ地獄だといったものを信じていない。あるのは、全てを包み込む虚空だけなのだから。
だが、その顔には、そのミルクティー色の髪色には、その琥珀の瞳には。嫌という程────
「私のお話を聞いてくださいますか?」
そう言って美しく微笑む彼は。
「加賀美、ハヤト……」
ぽつりと零せば、天使は妖しげに瞳を煌めかせて応えた。
ひとつ、疑問がある。
どうやって入って来たかとか、なんの用かとか、そんなものは今の剣持にとってはどうでも良かった。
─この男は今、はじめましてと言ったのか?
自分のことを忘れてしまっているのかと。此れは自分が知っている彼とは違うなにかなのか。そもそも彼は死んだはずだ。いや、だからこそ天使なのか。
剣持が熟考していれば、ふふ、と心底おかしそうな笑いが上から降ってくる。何を笑っているんだと問う前に、顎や頬に添えられていた手が離れ、剣持の頭を背後からそっと抱きしめた。結われた髪が幾筋か落ちてきて頬をくすぐる。
「冗談ですよ」
そう言ってまたくすりと笑う。
「お久しぶりですね、剣持さん。いえ、久しぶりと言うには──些か時間がかかってしまいましたが」
その声色は拗ねた子供をあやすようで。
堪らなくなった剣持は加賀美の手を両手できゅっと握った。
触れた手袋越しの手はひんやりとしていて、お世辞にもあたたかいとは言えなかった。
剣持刀也は永遠の16歳である。
何故そうなったのかは分からないし、分かるはずも無い。気がついた時にはそうなっていた。
終わることの無い高校生活。毎年のように入れ替わる担任やクラスメイト。
最初のうちはそれなりに楽しく過ごしていた。色々な人と友達になり、関わることで様々な知見を深められる。楽しいとまでは行かずとも飽きることなどなかった。
しかしいつしか剣持にとって、代わり映えしない世界を見せ続けられる退屈は何にも代えがたい苦痛となった。まるで、同じ映画のフィルムを延々と再生している様な。…その観客席には、自分ひとりだけがぽつりと座っているばかりである。
その退屈の中で出会ったのが、加賀美ハヤトその人だった。
剣持と彼だけでなく他の友人も何人かいての関わりではあったが、剣持は特に加賀美のことを好ましく思っていた。
彼の無邪気さに、優しさに触れるたび、剣持は自身の苦痛が少しだけ和らいでいくのがわかった。彼の隣では少しだけ呼吸をするのが楽な気さえした。
どこか兄のようにこちらを気遣ってくれることもあれば、子供のような好奇心が時折顔を覗かせる。
(嗚呼、この人は本当に──退屈しない)
いつしか友愛が違った何かに成り果て、それが恋情だと気がついたのは、桜が舞うような季節の足音が聞こえ始めた頃で。
ああ、もうこの男との道が交わることは無いのだろう、と。とうの昔に退屈という名の苦痛に塗りつぶされたはずの寂しさが不意に浮き上がってくるのを感じ、剣持は何も知らないふりをしてその感情に無理矢理蓋をした。
これも、何も変わらない繰り返しの中の1年に過ぎないのだ。4月になればまた、知らない顔に囲まれて、そして見知った顔になった彼らにまた別れを告げる。この気持ちを底からすくい上げたところでその感情の行き場などないのだから。それなら、いっそ────。
その年の卒業式が終わり、桜が芽吹き始める頃。
剣持は高校生をやめた。
彼の居ない高校生活にもう意味などないと思ったから。
街中で怪しい宗教の噂が流れ始めるのは、もう少し後の話である。
永遠を生きる中、風の噂で彼のことを聞いた。雷ゴリラなどと揶揄った彼も、寿命には勝てなかったと。
「…これでもう何も、気にせず生きていけると思ったのにな」
小さく呟いた少年の手には、彼と過ごしたあの頃の学生証が大切そうに握られていた。
「それで…天使ってのは何なんですか?」
「まあまずはそこからですよね…」
時は戻り現在、剣持の部屋。
先程まで座る剣持、背後に立ち抱きしめる加賀美というなんとも奇妙な光景だったが、今は二人でベッドの端に腰を落ち着けている。叶が「せっかくだから良いの買いなよ〜」と調達してきた大きなベッドのせいか、遠すぎずとも近すぎない、微妙な距離感である。
兎に角話をしない事には始まらないから、と切り出したのは剣持の方だ。昔話をして懐かしむ程の余裕は今の剣持には無い。死んだはずの人間が、天使を名乗って突然現れたのだから。
「天使というのはそのままの意味で捉えてくださって大丈夫です。羽が生えてて光の輪があるアレですね」
加賀美はそう言って少し羽を広げて見せ、光輪を指差した。加賀美が軽く指を振ると光輪は少しの間くるくると回ってからまた留まった。
「あとは経緯についてですが…少々話すのは恥ずかしいと言いますか…」
天使なるものになった経緯が恥ずかしい、とは。意味がわからないという風に眉をひそめた剣持を見て、ただの我儘だったのだと加賀美は苦笑する。
そうして暫く。加賀美は目を伏せて考え込んでいたが、「恥ずかしい経緯」を言う決心がついたのかようやく顔を上げた。
「天使となれば、また貴方に会いに行けると…共に居られると、そう思ったからです」
一息。
「私は剣持さんの事が好きです。あの頃も、大人になってからも。死して人ならざるものになってさえ、その想いは変わりません」
そう言って、加賀美は剣持の両の手をとって包み込んだ。綺麗な琥珀の眼差しが、蜂蜜の様な甘さを纏って剣持を見つめる。
「…は、え?」
突然の事に、何が何だか分からないといった表情で剣持は目を瞬かせた。
訳が分からなかった。
捨てることの出来なかった宛先のない想いが。いつになるか分からない自身の人生の幕引きのその時まで、大切に持っていこうとした想いが。通じ合ったものだったというのか。
「永遠を生きる剣持さんの終幕が、いつか訪れる時まで。私に、隣に居させていただけませんか?」
執着。そんな言葉が剣持の脳内でよぎった。勿論、自分も大概なのは分かっていた。何年、何十年、彼がこの世からいなくなってさえ想う自分だって人のことは言えない。
それにしたって目の前の男は、死んでなお、人間という肩書きを脱ぎ捨ててまで自分に会いに来たのかと。想いを伝えに来たのかと。そう思うと、剣持の胸はきゅっと締め付けられるのだ。
嬉しさと切なさが綯い交ぜになり、どう言葉を紡いだら良いのか分からなくて。
──気がつけば暖かい雫が剣持の頬を伝っていた。それは留まることを知らず、ぱたぱたとシーツに灰色の染みをつくった。
ギョッとした加賀美が慌てて手を離す。
「す、すみません、嫌でしたか…!?」
剣持は何も言わず、服の裾でぐしぐしと乱雑に目元を拭った。目元が僅かに赤く染まっている。
「僕はそう易々と死ぬつもりはありませんから。せいぜい途中で振り落とされないようにしてくださいよ!」
言って、笑う。昔のような、不敵な笑顔で。涙の跡は少しだけ不格好だったけれど。剣持は加賀美にYESという返事を叩きつけた。
加賀美は少しの間驚いた顔をして、剣持の言葉の意味を咀嚼する。剣持の笑みを見て、微かに赤く染った耳元を見て。そうしてようやく理解したらしかった。
「…ありがとうございます、剣持さん」
加賀美は剣持を抱き寄せると、喜びを噛み締めるように囁いた。
───とある少年と天使の話