陽翔はデスクについたまま、文字通り頭を抱えていた。昼食を終えてスマホを開くと、百子から話したいことがあるというメッセージを確認して以来、喧嘩の後の後味の苦さだけが陽翔の胸中をぐるぐると巡る。メッセージの内容の通知を見た彼は、それに返事をしようと思ったのだが、上司に呼び出されたため、彼女に心の中で侘び、彼女への罪悪感を、仕事に打ち込むことで忘れようとした陽翔だったが、そうは問屋が卸さなかった。
(やっちまった……別に怒らなくても良かったのに)
上司から解放されてからというもの、今朝百子に威圧的な態度で詰め寄ってしまい、青ざめた顔をして怯えていた彼女のあの顔が始終ちらつき、陽翔の罪悪感をより色濃くしている。しかし上司に頼まれた仕事を最優先に片付けねばならず、終えたのは夕方近くになってからであり、ようやく陽翔は、彼女からのメッセージを開く。今朝怒ったことを謝罪すると共に、話をする日時を提案する旨のメッセージを送り、なるべく早く帰れるように、残りの仕事に取り掛かる。
(ん……?)
スマホ画面に着信の知らせが表示されたが、陽翔は見てみぬ振りをする。最近知らない番号から妙な電話が掛かってくることが多いので、この手のものを見飽きているのだ。
(……長いな)
スマホ画面が着信により、20秒程点灯を続けているのはどこか不自然だった。陽翔は不意に心臓の鼓動が早くなり、居ても立ってもいられず、電話番号を慌てて確認した。
(……百子?)
相手は何と百子だった。17時半を回っているこの時間は、彼女も仕事の筈だが、ひょっとしたら早く終わったのだろうか。それとも例の話を今するつもりなのだろうか。陽翔の頭に可能性色々と浮かんでは消えていき、応じようか否か迷っている間に電話が切れる。
(いや、百子は自分が仕事が終わったからってだけで俺に電話を掛けるような奴じゃない。なのに何故だ……?)
何とか冷静になろうとした陽翔だったが、胸騒ぎは小さくなるどころか、次第にヘヴィメタルよろしくガンガンと心を揺さぶりに掛かる。陽翔はかけ直そうとスマホを操作していたが、再び同じ番号からの着信があり、陽翔は大急ぎでそれに応じる。彼はその瞬間、酷く周りの景色が頼りなくなるような、奇妙な感覚に襲われた。
「……救急搬送……? 百子、が?」
百子ではなく、低い声の持ち主がもたらした情報に、陽翔は頭の中が真っ白に塗りつぶされてしまった。
陽翔は上司に事情を説明し、すぐさま搬送先の病院へと向かう。百子の代わりに電話を掛けてくれた救急隊員の声が頭の中でループ再生され、走って駅に向かう間も、電車を待っている間も、電車に乗っている間も、はやる気持ちを抑えることが不可能になっていた。
(百子、どうか無事でいてくれ……!)
救急隊員によると、彼女は熱中症になりかけた女児を助けるために道路に出て、車からその子を庇い、歩道の縁石に頭をぶつけて出血し、意識不明になったそうだ。傷は小さいが出血は酷く、そして意識は戻っておらず、搬送先の病院にて手術をして精密検査を受けることになっている。
女児の方は、救急車で体を冷やし、経口補水液を飲む処置を受けて回復しており、念の為搬送先の病院で検査を受けることになっているとのことで、陽翔は少しだけ胸の支えが取れた。百子が身を挺して守った相手が助からなかったら、意識を取り戻した百子はきっと泣くだろうと思ったからである。
(こうなるんだったら、今朝百子にあんな態度を取るんじゃなかった……! くそっ!)
陽翔は拳をつくり、自分の膝を目一杯殴る。乗客の視線が集まるがお構いなしだ。昼食後にメッセージが来て、その場で返さなかったことや、カッとなって百子に怒りをぶつけてしまったことを、本当の意味で悔やんだ。そして女児を庇って負傷した彼女に対して、自責の念が後から後から押し寄せた。
(何であの時俺は勝手にしろって言ったんだ! そんなことを言ったから百子は……!)
彼女の人柄は、嫌というほど陽翔が分かっている。自分のことを脇に追いやり、目の前の人間を助ける優しい性格の持ち主だ。彼女のことだから、きっと陽翔が今朝怒ったとしても、そうでなくても、それに関係なく困っている人間を助けてしまうのだろう。それを悪いとは思わないが、それがきっかけで彼女が怪我はもちろん、意識不明なのは受け入れ難かった。
(百子が目覚めたらまずは謝ろう。その後はゆっくり話をして、何を悩んでいたかをちゃんと聞こう)
搬送先の病院の最寄り駅に着いた陽翔は、日没後だというのに、暑さの名残の残る道を、ネクタイを緩め、シャツのボタンを3つほど外しながら全力疾走する。暑さと汗が全身の皮膚に纏わり付き、息も苦しくなるが、焦りで我を忘れている陽翔にとってはそよ風に等しい。病院が見えても陽翔は速度を緩めず、夜間の出入り口を蹴破る勢いで開け、息せき切って百子の婚約者であることを受付の人間に明かし、待合室で既に待っていた百子の母の千鶴と、処置室から医師が出て、説明を受けるのをひたすら待っていた。