「赤くなったり青くなったり、忙しいやつだな。本当に、お前のどこにあんな狂気が潜んでいるんだか」
「凶器?」
「狂った気の狂気だ」
意味が分からず次の言葉を待つ。
「合気道は最後、相手が怪我をする寸前で技を止めるんだろ」
急に振られた話に戸惑いながら答える。
「まあ、相手が屈服を余儀なくされる体勢で、降参を待つ感じです」
「つまりお前は、これ以上やれば怪我をする一線を知っている」
ますます何を言いたいのかわからない。
「派出所勤務時代に検挙した犯人、痴漢と窃盗だったか?お前が取り押さえたときに、一人は肩を捻挫、もう一人は手首を骨折している。昨日の青山純も腕を脱臼したんだったな」
その顔はもう笑っていない。
「どこまで意識的にやったかは知らないが、お前は故意と怪我をさせている」
「そんな…」
「昨日、青山を送りながら話を聞いた。
後ろに回り込まれた瞬間に見えたお前の顔は、恐ろしくて忘れられないと。
その話を聞いた際は、今まで喧嘩もしたことのないようなモヤシ男から見ると、警察の醸し出す一種の覇気もそのように見えるのかと、さほど気にも止めなかったが、今日、本間の顎めがけて机を踏みこもうとしたお前の顔は、狂気そのものだった」
否定したいが言葉がでない。
「お前はなぜ警察に入った。どうして刑事になった」
頭に浮かびそうな笑顔を、必死で記憶の奥に押し戻す。
「答えたくありません。楽しい話ではないので」
「では質問を変える。これは極論だが、もし、お前の知り合いが殺人を犯したらどうする」
そんなの決まっている。
「犯罪は犯罪です。当然逮捕します」
琴子の言葉を受け、何かを考え込んでいる。
じゃあ何か。壱道は、知り合いが犯罪を犯したら、見逃すのか。
逮捕されないように助言でもするつもりか。
それこそ警察の姿勢としてはまちがっているではないか。
少々じれったくなり、壱道の両手首を握る。
「何の真似だ」
「もしそれが壱道さんでも逮捕しますよ」
身体は細いが、こうして手首を握ると、やはりそれ相応に太い。
中を通っている骨と血管の太さが、女性のそれとは全く違う。
合気道で、男の腕は掴みなれているが、思いのほかしっかりとした触感に驚いて、つい確かめるように握ってしまう。
「ーーーつかぬことをきくが」
壱道が低い声を出した。
「酒が入っている男の手を握る意味を、お前はわかっているか」
慌てて離した手を今度は壱道が握る。
「お前、処女か」
「はっ?」
「酒の席で男に触れてくる女は、俗にいう魔性の女か、男好きなアバズレか、無意識無自覚な処女のいずれかだと思ってな。その三択なら処女かと」
なんという極端な三択・・・・。
「まあ、物心ついたときから、変なおっさんに憂き身をやつしていたら、ろくに恋愛経験もないか」
いささかバカにしたように言いながら手を離す。 「青柳、だったか」
唐突に飛び出した名前が、琴子の一番弱いところを容赦なく攻撃してくる。息が止まる。
「憧れてるんだろう」
琴子は目をそらした。
憧れ?そんな清々しい言葉で言い表せる感情なのだろうか。
そもそもなぜ知っているのだろう。
「面識、あるんですか?」
「一緒に仕事をしたことはない。俺が刑事課に配属されたときにはすでに退職していた」
軽く腕を組みながら椅子に身体を沈めている。
「あの男がなぜ警察を辞めたか知っているか」
「…いえ」
「そんなに好きなら調べる方法はいくらでもあるだろうに」
「いいんです。知りたくありません」
「そこまで興味が無いのか。それとも想い過ぎて知るのが怖いか」
「ほっといてください」
「会いたいとは思わないのか。離婚して独身らしいぞ」
「会いたくないです」
「なんで」
会ったら。今の琴子を見られたら。
「きっとがっかりされます」
気がつくと涙が頬を伝っていた。
自分でも驚きながら拭き取る。
「これは予想以上に重症だな」
だが、目の前の男は寸分も目を逸らさずに視線で刺してくる。
「現実を教えてやる。あの男が警察を辞めたのは、離婚して妻と一緒に出ていった息子が、傷害事件で逮捕されたからだ」
家庭の事情ってそういうことなのか。
「相手もまるきりの被害者というわけではなかったが、執行猶予がついたものの判決は有罪だった。それで責任をとって警察を辞めたんだ」
とっくに戦意喪失して何も答えない琴子に尚も攻撃を続ける。
「いいか。お前が焦がれ、尊敬していた男だって、完璧な人間じゃなく、我が子もろくに育てられずに家族を捨てた或いは捨てられるような男だった。
この世にガキの絵本に出てくる神や悪魔のようなはっきりとした善悪などないんだ。なぜかわかるか」
琴子は答えない。答えられない。
「人間だからだ。善い行いをするのも、悪事に手を染めるのも、弱い人間が葛藤の末選択しているからだ。
それを失念しては、今後、如何なる事件も解決できない」
身を起こし、前かがみに琴子を見つめる。
「もう一度聞く。もしお前の知り合いが犯罪を起こしたらどうする。
刑事としてではない。人間としてだ」
黙り込む琴子にとどめの一言を言い放った。
「それが答えられない限り、お前は銃を握るべきじゃない」
かっと顔が熱くなる。
「何が言いたいんですか」
「言いたいことはすべて言ったが」
「急にほめて有頂天にさせたと思ったら、警察に向いてないって全否定して、地獄まで突き落として。私をどうしたいんですかー」
鼻の奥がツンと痛み、一気に涙が溢れてきた。
「俺は警察に向いていないとは言っていない」
「同じじゃないですか!」
諦めた様子で壱道が笑う。
「泣き上戸か。まあ、どう見ても刑事だと見えないから好都合だが」
もう一つの手で、頬の涙をなぞる。
手首になにかコロンでもつけているのだろうか、大人の香りがする。
「琴子」
少し声が掠れている。ゾクッとするほど艶っぽい声だ。こめかみにピリピリと引きつり、頭がポーッと酔っていく。
「いいか。俺から目を反らさず、そのトロンとした表情を崩さず、よく聞け」
口が、頬の筋肉が、肌が、瞳が、刑事に戻った壱道が、感情を消した。
琴子は一瞬でアルコールが体の外に蒸発した。
「お前から見て右側にガラスケースがある。その中に数点、花のオブジェがあるだろう。
店に入ったときには気にも留めなかったのだが、蓮の花をかたどった樹脂製の置物があったんだ」
蓮の花?
「蓮と聞いてイメージできるか?水面近くに上を向いて咲く、多くはピンク色の花だ。
仏画などに描かれることも多い」
お釈迦様が座っている花か。琴子は頷く。
「バーに飾るオブジェとしては地味だと思って見ていたのだが。その前に今、江崎が立っているだろ。涙を拭うふりして、手で隠しながら確認できるか。
ガラス越しにこちらを見ているかもしれない。気づかれるなよ」
右手で右目を多いながら、指の隙間から盗み見る。さきほどの江崎が立ってなにやらごそごそしている。
と、
「ケースを少し開けました」
「何をしている?」
「体でよく見えません」
そこで、客の一人が江崎に話しかけた。
先程の背広の男だ。振り向いて談笑している。そして、
「扉を閉じました」
江崎はそのまま振り返らずに奥のスタッフルームへと消えていく。
「蓮の花は。二段目の一番左側だ。淡いピンク色で、ちょうど手のひらほどの大きさだ」
「ありません」どんなに目を凝らしてもそんなもの見えない。だが、それが何を意味するのかわからない。
「ーーー客じゃない。江崎だ」
言い終わると、壱道は右手をあげた。
「カウンターに移動してもいいかな」
ボーイが近づいてくる。
「もちろん構いませんよ。お飲み物運びましょうか?」
「いや、新しく頼むことにする」
壱道はもうこちらを見ない。
逃がすまいとするように江崎を睨んでいる。
カウンターに二人並んで座ると、先程の男女が一瞥した後、また雑談を始めた。今度はボーイに絡んでいる。
「同じものになさいますか」
肘をついて手を組んだ壱道が、正面の江崎を見据えて言った。
「そうだな。ビールも旨かったが、今度はワインもいいな」
「取り揃えてございますよ」
ワインのメニューを渡すのを遮り、壱道は上目遣いに言った。
「“まほろばの郷”、なんてあるかな。白で」
男の動きが一瞬止まり、その後ゆっくり静かな視線が送られる。
初めは壱道に、その後、琴子に。
「かしこまりました」
微笑した後、巨大なワインセラーから一本とりだし、壱道の前にグラスを置く。
大柄でゴツゴツした体とは対称的に、物腰はマスターらしく静かでしなやかだ。太い指が添えられたワイングラスのステムがひどく細く見える。
トクトクと小気味の良い音を立てて、透き通った液体が注がれると、酸味のあるブドウの良い香りが、こちらまで漂ってきた。
「マスター。これはどこの酒だったかな」
ラベルを見ながら聞く。
「山形県は宝畠町………」
目を伏せたまま続ける。
「咲楽先生の生まれ故郷と伺っています」
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