ぎゅっと瞑っていた目を開ける。するとアンジェリカは見たことのない場所で流されていた。
光の濁流とでもいうのだろうか。どこが天なのか、どこが地なのかもわからない空間に、ただひとり巻き込まれ流されている。
周りを見回すと、ひときわ明るく光っている場所があった。
(あそこが出口なの?)
そちらに行こうと手を伸ばすが、意に反して身体は激しい濁流に押されて光から離れていく。
(遠のいていく! どうしたらいいの?)
光はどんどん遠くなり、アンジェリカは行く果ての見えない渦の中に沈んでいった。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
次にアンジェリカが目覚めた時、そこは夜だった。草木の匂いが混じった生ぬるい空気と、どこからか聞こえるフクロウの鳴き声に、アンジェリカは我に返ってあたりを見回す。
(ここは……どこかしら)
よろよろと覚束ない足取りで草むらをかき分け、アンジェリカは舗装された馬車道に出た。
どうやら城下の町らしい。そう認識した直後、ガラガラと馬車の引く音がして振り返ると、まぶしい光が目に入った。
「危ない!」
馬が大きく嘶き、前脚を持ちあげた。御者台のランタンに照らされたその姿は、まるで鎌を振り上げた死神のようで──。
(踏みつぶされる!)
静かな夜を切り裂くように、馬のいななき声が響き渡る。
踏みつぶされまいとアンジェリカがとっさに体を捻ると、長く美しい金色の髪がなびいて馬の前脚をかすめた。
そのはずみでアンジェリカは勢いよく地面に倒れ込む。
「はぁ、はぁっ……」
砂埃が舞い散る中、アンジェリカはへたりこんだまま荒い息を吐く。せっかく死から逃れられたというのに、その直後に死んでしまっては元も子もない。
「うう……」
馬車に轢かれそうになった衝撃でアンジェリカはなかなか起き上がれなかった。
「大丈夫ですか?」
「君! いったいどうしたんだ!」
侯爵家の長男アレフとその妹コートニーは慌てて馬車から降りると、倒れ込んだままのアンジェリカに近づいた。
「あなたは……」
「アンジェリカ皇女殿下?!」
すぐに、その女性がレガリア帝国の最も美しい花と謳われるアンジェリカ・レガリア第三皇女その人だと気がついた。
なぜ皇女がこんな時間に、こんな場所で? それも供の一人もつけずに? 思わず兄妹は顔を見合わせた。
しかしそこは、さすがに侯爵家の人間といえるだろう。湧き上がった疑問をすべて飲み込んで、代わりにアレフはアンジェリカに手を差し出す。
「どうぞ、私の手をお取りください」
アンジェリカは息を整えると、アレフの手を借りて立ち上がった。自分に向けられた敬意を受け入れることは、皇女であるアンジェリカにとって水が上から下へ流れることと同じくらい自然なことだからだ。
「エバンス侯爵家のアレフと申します。皇女殿下」
胸に手をあてて恭しくお辞儀をするアレフの横で、コートニーはドレスの裾をつまんで腰を下ろした。
困惑しながらも侯爵家の兄妹は最低限の礼を尽くした。しかし、それよりもっと困惑しているのは、アンジェリカだった。
「今日は……何日ですか?」
「は……?」
首を傾げるアレフとコートニーに、アンジェリカはもう一度問いかける。
「今日の日付です。何年の何月何日ですか?」
皇国の最も美しい花と讃えられた美しい双眸に見つめられ、アレフは思わず答える。
「新皇国歴年、七〇二年の六月一日……ですが」
七〇二年。アンジェリカが父皇を殺害したと疑われ、牢獄に捕らえられたのは七〇五年。
(三年前に戻っている……!)
エトガルの魔石は本物なのだ。あのどこか中性的な魅力をまとった魔導師が、黒いローブのフードの奥で不敵に微笑んだような気がした。
アンジェリカはドレスのポケットにそっと手を入れ、残りの魔石を指先で確認する。
(六月一日ということは……)
この国で暮らす人間で、その日付の意味するところがわからない者はいないだろう。
目の前で困惑を隠し切れずにいる侯爵家の兄妹が、華やかな服装に身を包んでいる理由にようやく合点がいった。
「今日は建国祭だわ」
「はい、我々も記念式典へ向かう途中です」
アンジェリカの後ろで、堂々たる王城を照らすように大きな花火があがる。
六月一日、この日はレガリア皇国の建国と末永い繁栄を願って王城主催の盛大なパーティが催されるのだ。
「おケガはございませんか?」
アレフにそう問われ、アンジェリカは今一度自分の格好を顧みた。
汚れてはいるが、三年前の建国祭用に仕立てたドレスを着用している。
アンジェリカは、時間戻りの意味を再認識した。
(時間戻りというのは、魔石を使ったわたくしだけが時間を遡るわけではないのね。この世の、すべてのものごとが戻るんだわ)
状況を理解できたら、少しだけ心に余裕が出てきた。
心配そうにアンジェリカをうかがう品のよい兄妹に向かって微笑を返す。
「ご心配おかけいたしました。助けていただき感謝いたします」
優雅にドレスをつまみ上げると、まるで早朝に咲いたばかりのバラが朝露で揺れるようなお辞儀をした。
本来は下の者が上の相手に対しするものだが、アンジェリカは彼らの親切に対し礼を尽くしたのである。
アンジェリカの清楚な美しさに、兄妹は目を奪われてしまう。
アレフは照れくさそうに空咳をし、コートニーは目を輝かせた。
「申し訳ございませんが、この件はご内密にお願いします」
アンジェリカが声低く告げると、兄妹は顔を見合わせた。
「わたくしの不名誉になります。追及もご遠慮くださいませ」
念を押すように再度告げると、ふたりは深く頷き、それ以上アンジェリカに何かを尋ねることはなかった。
(馬車でケガを負わせてしまいそうになったなどと、こちらも口が裂けてもいえないことだし構わないだろう)
賢い侯爵家の長男は、心中でそんな打算的なことを考え、アンジェリカの要求を受け入れた。
「エバンス侯爵家のアレフ卿と、コートニー嬢……でしたわね。このご恩は忘れません」
「まあ! 名前を覚えていただけて光栄ですわ」
アレフは黙って、アンジェリカとコートニーのやり取りに耳を傾けていた。
(アンジェリカ皇女殿下は、皇帝陛下の掌中の珠ともいわれている深窓の美姫。しかし……社交界にあまり姿を現さず、私も王室主催のパーティで数回拝顔しただけだ)
情報の少ない第三皇女と、こんなふうに出会うことになろうとは、嬉しいアクシデントである。
ただ、年齢の割に幼いという印象しかなかったアンジェリカが、思いのほか大人びていることにアレフは興味を惹かれていた。
アレフが王城まで馬車で送り届けることを申し出ると、アンジェリカは大人しく馬車に乗り込んだ。
アンジェリカは内心で親切兄妹に感謝しつつ、車窓から外に視線を向けた。馬車が向かう先──王城の上空に再び花火が上がって夜空を彩る。
戻ってこられたのだ。
父皇が生きている刻《とき》に。
アンジェリカの決意を込めた表情が、窓ガラスに映る。
人生をやり直すために────
王城の大広間は、着飾った紳士淑女とレガリアを讃える言葉で溢れかえっていた。
近年まれにみる大規模な建国祭は、現皇帝の治世がいかに優れているかを物語っている。
「皇帝陛下が王位に就いて以降、レガリア皇国は実に平和を保てているな」
「地方の争いごともすぐに制定されるし、内乱も小規模なものばかり。よい国ですよ」
アンジェリカの父──現レガリア皇帝は、建国七〇二年の歴史の中でも賢王として名高い偉大な皇帝である。
即位してすぐに周辺諸国を掌握した武人としての能力はもちろん、政治的手腕や国民から寄せられる人望、そのすべてが現在のレガリア皇国の繁栄を作ったと言っても過言ではない。
しかし、耳に飛び込んでくる父皇への賛辞もアンジェリカの不安をぬぐうことはできなかった。沈痛な面持ちでソファに座り込むアンジェリカの両脇には、心配そうにメイドが立っている。
(お父さまのお顔を見るまでは安心できない……)
たしかに時間を戻ることはできたようだ。それでも、愛する父が目の前で血を吐いて倒れた悪夢のような光景が、アンジェリカの瞳に焼き付いている。
(そして……)
祝いの場にはふさわしくない泥だらけのドレスに包まれたアンジェリカは、膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。
(ジーク……あなたに……)
冷たい瞳で剣を向けるジークハルトの姿を思い浮かべ、不安とも憂慮ともつかない思いに胸が締めつけられた────その時。
「アンジェ!」
勢いよく扉を開くバン! という音が大広間に響き渡り、皇帝がマントを翻して入ってくる。
その顔には、祝いの席にはふさわしくない心配が色濃く浮かんでいた。
その後から入ってきたグレイスとイザベラ──アンジェリカの異母姉たちは違う。覆った扇の下に不平不満の表情を浮かべていることは明らかだった。
「愛しいアンジェ。なぜ護衛もつけずに城外に出た?」
皇帝は、大広間を一直線に横切ってアンジェリカの前にやってきて詰問する。掴まれた肩が痛いくらいだったが、今のアンジェリカにとってはそれすらも喜ばしいことだった。
立ち上がると、小走りで父皇の元へ駆け寄る。
「ううっ……お父さま……!」
アンジェリカは、一度は失った父の存在を確かめるように、ぎゅっと抱き着いた。
その温かい胸にうずめたアンジェリカの瞳からは、美しい涙がぽろぽろと絶え間なく零れ落ちていく。
(生きている……!)
(大事なお父さまが生きている!)
いかに偉大な皇帝といえど、アンジェリカの前ではただ娘を愛するひとりの父親に過ぎない。愛娘の涙を前にしては、おろおろとうろたえることしかできないのだ。
「なにがあったのだ? 大事なアンジェ」
「そんなに泣いては、わしが困ってしまうではないか」
そんな微笑ましい父娘のやりとりに、フンと鼻を鳴らすのはグレイスとイザベラだ。
「人騒がせねえ」
「間もなく記念式典が始まるというのに」
彼女たちはアンジェリカの心配などいっさいしない。アンジェリカを単なるお騒がせな迷惑皇女だと思っているからだ。
皇帝と一緒にきたのは、皮肉や当てこすりをひとこと零したかったからだろう。
そのとき、ひとりの男が大広間に入ってきた。
長躯で筋肉質な肉体をストイックな軍服に包み込み、男らしさを秘めた端整な美貌の持ち主。
ジークハルト・テイラー────
皇室専属親衛隊、副隊長である。
ジークハルトが右手を胸にあて、恭しく頭を下げながら謝罪を口にする。
「申し訳ございません。私が目を離してしまったせいです」
アンジェリカは父皇に抱きつきながら、キュッと唇を噛みしめた。
(会いたかった。会いたかったわ。ともすれば、一番会いたかった)
(わたくしを裏切ったあなたに……!)
続話へ
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