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にこにこ
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#キャラ崩壊注意
#投稿🐢
yozakura🌸
684
まだ熱が高くて、身体も節々痛くて。
辛いはずなのにタイキの冷たい手で撫でられてるだけでその辛さが少し和らいでいる気がした。
「タイキ……もう一個、甘えていい?」
天井を向いたまま、ルイが静かに目を開けた。
まだ熱のせいで焦点は少し甘い。
でも、声はさっきより少しだけはっきりしていた。
タイキはルイの髪を撫でていた手を止める。
「何?」
ルイは一拍置いて、少しだけ言いづらそうに息を吐いた。
「クローゼットから、着替え持ってきて欲しい……」
「あ」
そこでタイキも、ようやく気づいた。
ルイは昨日、スタジオから帰ってきたままの服だった。
ソファーで寝落ちして、そのあと熱が上がって、深夜にはうなされて。
額や首元は何度か拭いたけれど、服はずっとそのままだ。
汗もかいている。
このまま寝かせておく方が、たぶん気持ち悪い。
「……ごめん、気づかなかった」
「違う」
ルイは小さく首を振る。
「言う余裕なかっただけ」
その言い方が妙に素直で、タイキは胸の奥がまた少しきゅっとなった。
「分かった。持ってくる」
「ん」
タイキはそっとルイの頭を膝から下ろした。
「ごめん、ちょっとだけ」
ルイの後頭部を支えながら、ソファーのクッションへ戻す。
触れなくなる瞬間、ルイがほんの少しだけ眉を寄せたように見えた。
それに気づいてしまって、タイキは立ち上がる前にもう一度だけルイの髪を撫でる。
「すぐ戻る」
「……うん」
その返事を聞いて、タイキは寝室へ向かった。
⸻
ルイの寝室に入るのは、初めてではない。
前にも来たことはある。
泊まったことだってある。
だから、別に知らない場所ではない。
なのに。
今朝、こうして一人で入ると、妙に落ち着かなかった。
ベッドは整っている。
サイドテーブルには読みかけらしい本と、綺麗に巻かれたイヤホン。
床に物は落ちていない。
クローゼットの扉も、部屋全体の空気も、ルイらしく静かに整っている。
何でもない部屋。
なのに、妙に距離が近い。
ルイとは、子供の頃から知っている。
気心も知れている。
何度も一緒に練習して、一緒に飯を食って、くだらないことで笑って、ぶつかって、また隣に立ってきた。
それなのに。
すっかりお互いに大人になってしまってから、こうして男の一人暮らしの部屋の奥をちゃんと見るのは、やっぱり少し気恥ずかしい。
恋人だし。
なったばかりだけど。
でも、恋人ではある。
そう思っても、日常に触れるのはどこかくすぐったかった。
ライブやステージ上のルイでもなく、スタジオのルイでもなく、
自分の部屋で、具合が悪くて、着替えを頼んでくるルイ。
その生活の奥に、自分が入っている感じがする。
「……何照れてんだよ、俺」
小さく呟いて、タイキはクローゼットを開けた。
中は綺麗に整っていた。
色味ごとに並んだ服。
畳まれたスウェット。
ルームウェアらしい柔らかそうな上下。
タオルもきちんと重ねられている。
いかにもルイらしい。
タイキは迷った末に、肌触りの良さそうな薄手の長袖と、ゆったりしたパンツを取り出した。
それから、念のためタオルも一枚。
汗を拭くなら必要だろう。
着替えを腕に抱えて、寝室を出る。
「ルイ、これで――」
言いながらリビングに戻った瞬間、タイキの声が止まった。
ソファーの上で、ルイがすでに座っていた。
しかも。
昨日のTシャツの裾を掴んで、躊躇なく上へ引き上げている途中だった。
「っ、ちょ、待って!」
タイキはほとんど反射で声を上げて、その場で目元を手で大きく覆いながら背中を向けた。
着替えとタオルを抱えたまま、視線を壁に逃がす。
「お前、何普通に脱いでんだよ!」
背後で、ルイが小さく肩を揺らした気配がした。
「……今更」
少し掠れた声で笑う。
「今更じゃない」
タイキは即答する。
「そういう問題じゃない」
「見たことあるだろ」
「それもそういう問題じゃない!」
自分でも、何を言っているのか分からない。
見たことがある。
確かにある。
でもそれはそれ。
これはこれ。
具合が悪いルイの着替えを手伝うのと、平気な顔で目の前で脱がれるのは違う。
しかも朝方で、まだ膝枕の余韻も残っていて、ルイは熱で少しぼんやりしていて、さっきまであんなに素直に甘えてきた。
そんな状態で普通に脱がれたら、タイキの心臓がもたない。
「……タイキ」
「何」
「見ないでどうやって手伝うの」
「……それは」
正論すぎて詰まる。
背後から、ルイが小さく息を吐いた。
「しんどいから、変なこと考える余裕ない」
「俺にはあるんだよ」
言ってから、タイキは自分で固まった。
しまった。
ルイがまた、小さく笑った。
「あるんだ」
「……熱あるくせにそういうとこだけ拾うな」
「聞こえたから」
「寝てろ」
「着替えたい」
「分かってる」
タイキは深く息を吸った。
それから、背中を向けたままソファーへ近づく。
手探りみたいにタオルだけ後ろへ差し出した。
「これ、肩から掛けて」
「ん」
ルイが受け取る気配がする。
布が肌にかかる音。
それだけでタイキはなぜか余計に意識してしまい、眉間を押さえた。
「掛けた?」
「掛けた」
「ほんとに?」
「ほんと」
「嘘ついたら怒る」
「病人に厳しい」
「今日だけは厳しいって言っただろ」
タイキはゆっくり振り返った。
ルイはソファーに座ったまま、肩からタオルを掛けていた。
汗で少し湿った髪。
熱で赤い目元。
額の冷却シートは端が少し浮いている。
Tシャツは脱ぎかけで、片腕だけまだ通っている。
本人は平然としているつもりなのかもしれないけれど、明らかにしんどそうだった。
タイキはさっきまでの照れを、いったん奥へ押し込めた。
「……無理して自分でやんな」
「これくらい」
「その“これくらい”でふらついたらどうすんだよ」
ルイは黙った。
タイキは着替えをソファーの横へ置いて、ルイの前に膝をつく。
「腕、ゆっくり抜くよ」
「……うん」
返事が素直で、タイキの胸がまた変に痛む。
片方の袖をそっと外す。
汗で服が肌に少し張り付いていて、ルイが小さく息を詰めた。
「痛い?」
「痛くない」
「だるいだけ」
「だるいなら余計動くな」
「……はい」
その「はい」があまりに弱くて、タイキは視線を落とした。
怒りたいわけじゃない。
本当は、全部心配なだけだ。
Tシャツを完全に脱がせると、タイキはすぐにタオルを肩から胸元にかけ直した。
直視しすぎないように、でも体が冷えないように。
「寒くない?」
「……少し」
「寒いんじゃん」
「少し」
「少しも寒い」
タイキはタオルの端を整えながら、別のタオルで首筋を軽く押さえた。
汗を拭く。
こすらないように、そっと。
首。
鎖骨のあたり。
肩。
背中の上の方。
ルイが少しだけ身を縮める。
「冷たい?」
「……タイキの手の方が冷たい」
また、そんなことを言う。
タイキは手を止めた。
「……今そういうのやめろ」
「何が」
「素直に甘えるやつ」
ルイは目を伏せたまま、少しだけ笑った。
「じゃあ、言わない」
「いや、言っていいけど」
「どっち」
「俺が困るだけ」
「困らせたいわけじゃない」
「知ってる」
タイキは短く返して、また汗を拭いた。
本当に、知ってる。
ルイは困らせようとしているわけじゃない。
熱があって、余裕がなくて、ただ本音がそのまま出ているだけだ。
だから余計に困る。
いつものルイなら、ちゃんと整える。
言葉を選ぶ。
相手を揺らす時も、少し笑って逃げ道を作る。
でも今のルイは、逃げ道を作らない。
「腕、通すよ」
「ん」
タイキはルームウェアの上を広げて、ルイの腕をそっと通した。
まず片方。
それからもう片方。
ルイは言われるままに腕を上げようとしたが、途中で少しだけ顔をしかめる。
「上げなくていい。俺がやる」
「……ごめん」
「謝んなくていい」
何度目か分からないやり取り。
でも、言わずにはいられなかった。
シャツを肩にかけ、首元を通す。
生地が柔らかく落ちて、ルイの体を包む。
タイキは裾を整えながら、できるだけ事務的に見えるように手を動かした。
なのに、ルイがじっと見てくる。
「……何」
「タイキ、顔赤い」
「熱移ったかもな」
「それは困る」
「冗談だよ」
「冗談でも困る」
ルイの声が少しだけ真面目になった。
タイキは思わず顔を上げる。
ルイは、ぼんやりした目で、それでもちゃんとタイキを見ていた。
「お前まで、倒れたら嫌だ」
「……倒れない」
「ほんと?」
「ほんと」
「たぶん禁止」
タイキは一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「それ、俺のやつ」
「便利だから」
「真似すんな」
「お返し」
さっきの膝枕の会話を思い出して、タイキはまた胸がきゅっとなる。
「……はいはい」
タイキは立ち上がって、今度はパンツを手に取った。
そこで一瞬止まる。
「……下は、自分でいける?」
ルイはしばらく黙った。
その沈黙で、タイキは察した。
「……無理そうなら言えよ」
「無理ではない」
「じゃあ、俺あっち向いてるから。倒れそうなら言って」
「うん」
タイキは背中を向けた。
布が擦れる音。
ルイがゆっくり動く気配。
一度、ソファーの背に手をついたような音がして、タイキが反射的に振り返りかける。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「その間、怪しい」
「今、頑張ってる」
「頑張るなって言ってんだけど」
「これだけ」
「……ほんと無理すんなよ」
「うん」
しばらくして、ルイが小さく息を吐いた。
「……できた」
タイキが振り返ると、ルイは着替え終えてソファーに座っていた。
でも明らかに消耗している。
目元は赤いし、息も少し上がっている。
「ほら、疲れてんじゃん」
「……着替えって、こんなしんどかったっけ」
「熱あるからだよ」
タイキはすぐブランケットをかけ直した。
「横になる?」
「……少し座ってる」
「寝て」
「座ってたい」
「なんで」
ルイは少しだけ視線を逸らした。
「……寝たら、タイキが行く気がする」
その言葉が、静かに落ちた。
タイキは何も言えなくなった。
ルイは、しまった、という顔をした。
熱でぼんやりしていて、口に出すつもりのなかった本音がそのまま出てしまったみたいに。
「……今のは」
「いいよ」
タイキは低く言って、ソファーの前にしゃがんだ。
「行く時は言う」
「勝手に消えない」
「寝てる間にいなくなったりしない」
ルイの目が、ゆっくりタイキへ戻る。
「……うん」
「だから、寝ていい」
「……タイキ」
「何」
「お前……今日仕事は?」
ルイの声はまだ掠れている。
でも、そこだけはちゃんと気にしている声だった。
タイキは一度、スマホで時間を確認した。
朝方から、少し時間が経っている。
昼から仕事がある。
行かなきゃいけない。
本当は、行きたくない。
このままルイの様子を見ていたい。
熱が下がるまで隣にいたい。
水を飲ませて、薬の時間を見て、眠るたびに額に触れていたい。
でも、ルイがそれを望まないことも分かる。
「昼からあるから、行ってくるよ」
ルイの眉がわずかに動いた。
タイキはすぐに続ける。
「ルイの様子もみんなに伝えたいし」
「雛子さんにも言う」
「熱まだあること、昨日ちゃんと薬飲めてなかったことも」
「それは言わなくていい」
「言う」
「タイキ」
「言う」
ルイは少しだけ諦めたように目を閉じた。
「……怒られる」
「怒られろ」
「ひどい」
「今回ばかりは怒られていい」
タイキはそう言いながら、冷却シートを貼り替えた。
端をそっと押さえる。
ルイの額はまだ熱い。
「でも、行く前にやることやってく」
「やること?」
「水分取らせる。薬飲ませる。熱計る。簡単に食べられるやつ置く。あと、病院行くか決める」
「……スケジュール詰まってるな」
「病人のスケジュール管理って言っただろ」
「雛子さんみたい」
「二回目だぞ、それ」
ルイがほんの少し笑った。
その笑い方が弱くて、でも昨日より少しだけ力が抜けていて。
タイキは少しだけ安心する。
「仕事終わったら連絡する」
「……来なくていい」
「来るかどうかは連絡してから決める」
「来なくていい」
「ルイが電話出たら考える」
「……」
「出なかったら来る」
ルイは薄く目を開けた。
「強引」
「うん」
「タイキっぽい」
「それ昨日も言った」
「覚えてない」
「じゃあ、もう一回言っとく。強引でいくから」
ルイは小さく息を吐いた。
「……分かった」
その返事を聞いて、タイキは少しだけ笑う。
分かったと言った。
今度は、ちゃんと。
「じゃあ今、水」
「……ん」
タイキはペットボトルを手に取って、キャップを開けた。
ルイが受け取ろうとする手を見て、まだ少し心配になりながらも、今回は持たせた。
でもすぐ下から支える。
「子供扱い」
「病人扱い」
「便利だな、それ」
「便利だから使う」
ルイはまた少しだけ笑って、水を飲んだ。
一口。
もう一口。
その喉の動きを見ながら、タイキは思う。
まだ熱はある。
まだ心配だ。
仕事に行っても、たぶんずっと気になる。
でも。
ルイは今、ちゃんと甘えた。
着替えを頼んだ。
手伝わせた。
寂しいとも、ほとんど言った。
それだけで、昨日よりずっといい。
「ルイ」
「ん」
「俺、今日ちゃんと行くけど」
「ちゃんと戻ってくるから」
ルイはボトルから口を離し、タイキを見た。
熱で潤んだ目。
まだぼんやりしているのに、その奥が少しだけ揺れる。
「……仕事、ちゃんとやれよ」
また、それを言う。
タイキは困ったように笑った。
「病人が何言ってんだよ」
「言う」
「分かった。ちゃんとやる」
「うん」
「だからルイも、ちゃんと寝て、ちゃんと飲んで、ちゃんと食べて」
「……注文多い」
「多くていい」
タイキはブランケットを整え、ルイの髪を最後に一度だけ撫でた。
「俺が戻るまで、悪化させんなよ」
ルイは目を閉じたまま、小さく返す。
「……努力する」
「そこは約束しろ」
「……約束する」
その言葉に、タイキの胸がまた少しだけ熱くなる。
「よし」
タイキは立ち上がる。
けれど、すぐには離れられなかった。
ソファーに横たわるルイ。
柔らかいルームウェアに着替えて、額に冷却シートを貼って、まだ熱の残る顔で目を閉じている。
さっきまでの服より、ずっと楽そうだ。
それだけで、やってよかったと思った。
「……タイキ」
呼ばれて、タイキはすぐに振り返る。
「何?」
ルイは目を閉じたまま、少しだけ言いづらそうに唇を動かした。
「行く時……起こして」
タイキは一瞬、目を見開いた。
寝ている間にいなくならないで。
そう言っているように聞こえた。
胸が苦しくなる。
「……うん」
タイキは声を落として答える。
「起こす」
「ちゃんと言ってから行く」
ルイは、ほんの少しだけ頷いた。
それだけ確認すると、安心したみたいに肩の力が抜ける。
タイキはその様子を見て、静かに息を吐いた。
昨日の夜、玄関前で待っていてよかった。
電話に出ないからって、そのまま帰らなくてよかった。
ちゃんと、ここまで来てよかった。
ルイが自分に甘えるのを、見逃さずに済んだ。
「……寝てて」
タイキはもう一度、そっと髪を撫でる。
「まだ時間あるから、俺ここにいる」
ルイはもう返事をしなかった。
でも、その表情はさっきよりずっと穏やかだった。
熱はまだ下がっていない。
身体もしんどいまま。
それでも、ちゃんと安心している顔だった。
タイキはソファーのそばに座り直して、スマホで薬の時間を確認する。
仕事まで、もう少し。
その少しの間だけでも。
ルイが甘えられる場所でいられるように、タイキは静かにそばにいた。
時間は、残酷なくらいちゃんと進んだ。
スマホのアラームが小さく鳴る。
タイキは反射で画面を伏せた。
ソファーの上で、ルイが薄く目を開ける。
「……時間?」
声はまだ掠れていた。
さっきより少し眠れたはずなのに、熱は下がりきっていない。
額の冷却シートの端が浮いていて、目元は赤いままだった。
タイキは一瞬だけ返事に詰まる。
「……うん」
行かなきゃいけない。
昼から仕事がある。
ルイの様子をみんなに伝えたいとも言った。
雛子にもちゃんと報告しなきゃいけない。
分かっている。
でも、目の前のルイを見た瞬間、足が重くなる。
着替えは済んだ。
水も飲んだ。
ゼリーも少し食べた。
薬も飲ませた。
熱も測った。
まだ高い。
それなのにルイは、タイキが行く時間になったと分かった途端、何でもない顔をしようとしていた。
「……行っていいよ」
ルイが言う。
その言い方が、タイキにはだめだった。
行っていいよ。
大丈夫。
寝てるから。
ちゃんとするから。
言葉にしていないのに、全部聞こえる。
タイキはソファーの前にしゃがんだまま、ルイの顔を見た。
「……やっぱり、仕事のあと来る」
ルイの目が、ほんの少しだけ動いた。
「タイキ」
「元気ならそれでいいし」
遮るように言って、タイキは続けた。
「心配だから」
まっすぐだった。
言い訳じゃない。
遠慮でもない。
ルイの反応を見て決めるような言い方でもない。
来る。
もう決めている声だった。
ルイはしばらくタイキを見ていた。
熱でぼんやりしているはずなのに、その目だけは静かに揺れている。
何か言い返そうとして、でも喉の奥で止めたみたいに、小さく息を吐いた。
「……仕事終わるの、何時」
「夕方。押しても夜前には」
「終わったら、連絡」
「する」
「出なかったら?」
タイキが少しだけ眉を寄せる。
「来る」
即答だった。
ルイはその返事に、ほんの少しだけ目を伏せた。
困ったような、諦めたような。
でも、どこか安心したような顔。
それから、ゆっくり手を伸ばした。
テーブルの上。
水のボトルと、薬の袋と、体温計の横に置いてあったキーケース。
ルイの指先はまだ少し熱で鈍くて、キーケースを持ち上げる動きすら普段より遅い。
タイキは思わず手を出しかけた。
「取る?」
「いい」
ルイは自分でキーケースを引き寄せた。
金具が小さく鳴る。
その音だけが、静かな部屋の中で妙にはっきり響いた。
ルイはキーケースから一本の鍵を外す。
そして、それをタイキへ差し出した。
「……え」
タイキは固まった。
差し出された鍵を見る。
それからルイを見る。
「何」
「合鍵」
「いや、見れば分かるけど」
「じゃあ受け取れば」
「いやいやいや」
タイキは思わず声を抑えながらも、目を丸くする。
「え、待って。いいの?」
ルイはソファーに沈んだまま、少しだけ目を細めた。
「別に、タイキならいい」
その言い方が、あまりにも自然だった。
特別なことを言っているはずなのに。
鍵なんて、軽く渡すものじゃないはずなのに。
ルイは熱のある顔で、それでも静かに、当たり前みたいに言った。
「また外で待たせたくないし」
タイキの胸が、きゅっと締まる。
昨日の夜。
玄関前。
冷たい廊下。
コンビニの袋。
座ったままうとうとしていた自分。
それを、ルイはちゃんと見ていた。
熱でふらついていたのに。
自分の方が倒れそうだったのに。
それでも、タイキを外で待たせたことを気にしている。
「……ルイ」
「使わないなら持ってなくていい」
「使わないわけじゃない」
タイキはすぐに言った。
でも、手はまだ伸ばせなかった。
合鍵。
それは、ただの便利な道具じゃない。
ルイの生活の内側へ入る許可みたいなものだった。
昨日まで、玄関の外で悩んでいた。
インターホンを押しても出なくて、置いて帰るか迷って、壁に寄りかかって座った。
その扉を、次からは自分で開けられる。
その重さに、タイキは一瞬、息が詰まった。
ルイはそんなタイキを見て、小さく息を吐く。
「重く考えなくていい」
「無理だろ」
「ただの鍵」
「ただの鍵じゃないだろ」
タイキがそう返すと、ルイは一拍黙った。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……俺には、そうかも」
「え?」
「ただの鍵じゃないから」
掠れた声だった。
でも、ちゃんと届いた。
「タイキに渡してる」
その言葉で、タイキは完全に黙った。
熱のせいで余裕が削れている。
だからこそ、ルイの言葉には余計な飾りがなかった。
タイキに渡してる。
それだけで、全部だった。
タイキはゆっくり手を伸ばした。
ルイの指先から、鍵を受け取る。
小さな金属の重さが、掌に落ちた。
「……そしたら、今回は借りとく」
声が少しだけ低くなる。
「ちゃんと返すから」
ルイは薄く目を開けた。
「返す前提なんだ」
「借りてるだけだろ」
「……そう」
ルイはそれ以上言わなかった。
けれど、ほんの少しだけ口元が緩む。
疲れていて、熱もあって、笑う力もほとんどないくせに。
それでも、少し安心したみたいな顔だった。
タイキは鍵を自分のキーケースにつけるのではなく、いったん財布の内側のポケットへ入れた。
失くさないように。
今だけ、ちゃんと預かるみたいに。
「仕事終わったら連絡する」
「既読つかなくても来る」
「電話出なかったら、鍵使う」
「いい?」
ルイは目を閉じたまま、少しだけ頷く。
「うん」
「水、ここ」
タイキはテーブルを指差す。
「薬、次はこの時間。メモ書いた」
「ゼリーとスープは冷蔵庫」
「無理に食べなくていいけど、少しは食べて」
「熱また上がったら、電話。無理ならLINE一文字でもいい」
「……雛子さん?」
「うるさい」
ルイが少しだけ笑う。
その笑いに咳が混じりかけて、タイキはすぐ水を差し出した。
「ほら」
ルイは素直に飲む。
それだけで、タイキは少し安心する。
「じゃあ……行く」
口にした瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
ルイは目を開ける。
「……うん」
本当に行くんだ、という顔だった。
言葉にはしない。
引き止めもしない。
でも、さっき言った。
寝たら、タイキが行く気がする。
行く時は起こして。
だから今、ちゃんと言う。
タイキはソファーの横に膝をついて、ルイの髪にそっと触れた。
「ちゃんと戻ってくる」
「……仕事、ちゃんとやれよ」
またそれ。
タイキは困ったように笑う。
「病人が最後に言うことじゃないだろ」
「言う」
「分かった。ちゃんとやる」
「ルイも、ちゃんと寝て」
ルイはゆっくり頷いた。
タイキは立ち上がる。
バッグを手に取る。
最低限だけ。
スマホ、財布、仕事用のもの。
昨日持ってきたコンビニの袋は片付けた。
買い足したものは冷蔵庫とテーブルに分けて置いた。
そして、玄関へ向かおうとして、ふと上着を見る。
昨日の夜、急いで来た時に羽織っていたもの。
廊下で待っていた時には少し冷えたけれど、今日はもう日中の気温が高い。
スマホで天気を見た時も、昼は暑くなると出ていた。
タイキは一瞬だけ考えて、上着をソファーの端に畳んで置いた。
ルイがそれに気づく。
「……上着」
「今日暑いからいらない」
「持ってけよ」
「戻ってくるから」
言ったあと、タイキは少しだけ目を逸らした。
自分でも、わざとだと思った。
戻ってくる理由をひとつ、置いていく。
鍵を借りた。
それだけでも十分なのに。
上着まで置いていく。
でも、それでいいと思った。
ルイが目を伏せる。
「……そう」
その一言は短いのに、さっきより少しだけ柔らかかった。
タイキは玄関へ向かう。
靴を履く。
鍵を確認する。
ドアノブに手をかける前に、もう一度振り返った。
ルイはソファーに横になっていた。
額には冷却シート。
首元までブランケット。
着替えたルームウェアの柔らかい色が、朝の光の中で少しだけ穏やかに見える。
まだ熱はある。
まだ心配だ。
でも、昨日の夜よりは少しだけ違う。
ルイがちゃんと甘えた。
鍵を渡した。
戻ってくる前提を、拒まなかった。
「行ってくる」
タイキが言う。
ルイは目を閉じたまま、小さく返した。
「……行ってら」
その声が聞けただけで、タイキはようやくドアを開けた。
⸻
外に出ると、朝の空気は思ったよりあたたかかった。
昨日の夜、あんなに冷たく感じた廊下も、今はただ明るい。
エレベーターを待つ間、タイキは財布の内側に入れた鍵の存在を確かめる。
小さな硬さ。
それが妙に現実的だった。
合鍵。
借りただけ。
ちゃんと返す。
そう言った。
でも、ルイは「タイキならいい」と言った。
その言葉が、ずっと胸の奥で鳴っている。
エレベーターが来る。
乗り込む。
一階へ降りる。
マンションを出て、駅へ向かう道を歩きながら、タイキはスマホを開いた。
メンバーのグループには、まだ何も送らない。
スタジオに着いてから、ちゃんと話す。
雛子には、言う。
怒られるかもしれないけど、言う。
ルイが昨日、薬を飲んだと言って飲めていなかったこと。
熱がまだ高いこと。
でも水分は取れて、ゼリーも食べて、着替えも済ませたこと。
仕事後にもう一度様子を見に行くこと。
全部。
ルイは嫌がるだろうけど、今回は譲らない。
「……怒られろ」
小さく呟いて、タイキは少しだけ笑った。
でも、その笑いはすぐに消える。
心配は消えない。
昼から仕事。
集中しなきゃいけない。
自分がぼんやりしてたら、それこそルイに怒られる。
ちゃんとやれよ。
さっきのルイの声が蘇る。
「……分かってるって」
誰に言うでもなく返して、タイキは駅へ急いだ。
⸻
スタジオに着くと、いつもの空気があった。
受付の音。
廊下を歩くスタッフ。
遠くの部屋から聞こえる音楽。
誰かの笑い声。
それが、少しだけ別世界みたいに感じる。
数十分前まで、ルイの部屋にいた。
熱い額。
掠れた声。
冷却シート。
合鍵。
置いてきた上着。
その全部を胸の奥に抱えたまま、タイキはロッカーへ向かった。
ロッカールームには誰もいなかった。
タイキは扉を開ける。
中に置いてあった予備の服を取り出す。
昨日からそのままの服は、少しだけよれていた。
急いでルイの家に向かって、玄関前で座って、朝まで看病していたんだから当然だ。
でも、このまま仕事に出るわけにはいかない。
タイキは一度深く息を吐いた。
「……切り替えろ」
小さく言う。
ロッカーの鏡に映った自分は、少し寝不足の顔をしていた。
目の下にわずかに疲れがある。
髪も少し乱れている。
でも、顔つきは悪くない。
むしろ、妙に腹が決まっている。
予備のTシャツに着替える。
パーカーを羽織る。
髪を水で整える。
洗面台で顔を洗う。
タオルで拭いて、もう一度鏡を見る。
大丈夫。
仕事はする。
ちゃんとやる。
ルイが心配だからこそ、雑にはしない。
タイキはスマホを確認した。
ルイからの連絡はない。
寝てるなら、それでいい。
寝てろ。
ちゃんと寝てろ。
そう思いながら、画面を閉じる。
それから、財布の内側に入れた鍵の感触をもう一度だけ確かめた。
戻る。
仕事が終わったら、戻る。
それが決まっているだけで、少しだけ呼吸が整った。
ロッカーを閉める。
廊下へ出る。
向こうからカノンの声がした。
「タイキ?」
タイキは顔を上げる。
カノンが少し驚いた顔で立っていた。
その後ろにゴイチもいる。
アダムは壁際で水を飲みながら、すでに何かを察しているような目をしていた。
「お前、顔……」
カノンが言いかける。
タイキは先に口を開いた。
「ルイ、まだ熱ある」
「昨日、薬飲んだって送ってきたけど、飲めてなかった」
「水分は取らせた。ゼリーも少し。着替えもした」
「仕事終わったら、俺また行く」
一気に言った。
カノンは一拍黙る。
ゴイチも目を細める。
アダムは静かに視線を伏せた。
「……お前、泊まった?」
ゴイチが低く聞く。
タイキは少しだけ視線を逸らす。
「泊まったっていうか、看てた」
「同じだろ」
カノンがため息をつく。
「で、お前は寝たのか」
「ちょっと」
「それ絶対ちょっとじゃねぇやつ」
タイキは反論しようとして、やめた。
「でも、今日の仕事はやる」
その声は、はっきりしていた。
「ルイにも言われた」
「ちゃんとやれって」
カノンは、そこで少しだけ表情を緩めた。
「……あいつらしいな」
ゴイチも小さく笑う。
「じゃあ、ちゃんとやって早く帰れるようにしようぜ」
アダムが水のボトルを閉める。
「雛子さんには?」
「言う」
タイキは頷く。
「全部」
「怒られるね」
「うん」
「でも言う」
アダムはほんの少しだけ口元を緩めた。
「正解」
その一言で、タイキはようやく少し肩の力が抜けた。
でも、すぐに背筋を伸ばす。
ルイがいないスタジオ。
本当なら隣にいるはずの人がいない。
その空白は大きい。
けれど今日は、その空白を言い訳にしない。
ちゃんとやる。
早く終わらせる。
そして戻る。
タイキはもう一度スマホをポケットに入れ、スタジオのドアへ向かった。
その足取りは、少し疲れているのに、迷っていなかった。
休憩に入った瞬間、タイキは落ちた。
本当に、落ちた、という表現が一番近かった。
「一回、水飲んでくる」と言って、スタジオの隅に置いてあったベンチへ向かったはずだった。
荷物を置く。
スマホを見る。
たぶんルイから連絡が来ていないか確認する。
そこまでは、カノンも見ていた。
でも次に目を向けた時には、タイキは壁にもたれて座ったまま、完全に目を閉じていた。
「……寝てる」
カノンが小さく呟く。
ゴイチがタオルで汗を拭きながら振り返る。
「マジ?」
「マジ」
アダムも水を飲む手を止めて、静かにタイキを見る。
タイキは膝を軽く立てて、片腕をその上に乗せたまま、頭だけ壁に預けていた。
いつもなら休憩中でも誰かに話しかけたり、曲を聴いたり、スマホを見たりしている。
なのに今は、まるでスイッチを切られたみたいに眠っている。
それだけで、昨日からどれだけ気を張っていたのか分かった。
カノンは眉を寄せた。
「……あいつ、絶対ほとんど寝てねぇだろ」
「だろうな」
ゴイチが短く返す。
タイキの顔色は悪いというほどではない。
でも、目元に疲れが出ている。
普段の明るさの裏に、明らかに寝不足が乗っていた。
アダムが静かに言う。
「無理してるね」
「ルイのことになると、あいつ意外と周り見えなくなるからな」
カノンはそう言ってから、少しだけ自分で苦笑した。
周り見えなくなる。
それは、他人事じゃない。
自分もゴイチが怪我した時、似たような顔をしていたかもしれない。
ゴイチがそれに気づいたのか、何も言わず少しだけ目を細めた。
「休憩、あと何分?」
アダムが聞く。
ゴイチが壁の時計を見る。
「二十五分くらい」
「買ってくる?」
その一言に、カノンがすぐ顔を上げた。
「何を」
「タイキ用」
アダムはさらっと言った。
「寝不足で、朝から看病して、昼から仕事してる。ルイ用はたぶん自分で買ってるけど、自分のことは後回しにしてると思う」
あまりにも正確だった。
カノンは一瞬黙る。
「……ありそう」
ゴイチが頷く。
「めちゃくちゃありそう」
タイキはルイの水分や薬の時間は完璧に気にする。
でも自分の昼飯は適当に済ませる。
なんなら食べ忘れる。
そういうタイプだ。
カノンは小さく息を吐いて、立ち上がった。
「行くか」
「俺も行く」
ゴイチが財布を取る。
アダムも静かにスマホをポケットへ入れた。
「起こさない?」
「起こさねぇ」
カノンが即答する。
「今起こしたら逆にかわいそうだろ」
ゴイチが少し笑う。
「さりげなく置いとく?」
「それがいい」
アダムが言う。
「起きた時に、誰が買ったか分かるけど、言わなくていいやつ」
「お前、そういうの上手いな」
「タイキが気を遣わない形がいい」
カノンはタイキをもう一度見た。
眠っているタイキのスマホは、手の中で画面が暗くなっている。
たぶん、ルイからの連絡を待ちながら寝落ちした。
「……行くぞ」
三人は、できるだけ音を立てずにスタジオを出た。
⸻
近くのコンビニに着くと、三人はなぜか妙に真剣だった。
普段なら適当に買うだけのコンビニ飯なのに、今日は商品棚の前でそれぞれがかなり考え込む。
「タイキ、今重いの食えるかな」
ゴイチがサンドイッチ棚の前で悩む。
「食えるだろうけど、今がっつり食ったら眠くなるかもな」
カノンが横から言う。
「もう寝てるけど」
アダムが淡々と返す。
「それはそう」
カノンが少し笑った。
ゴイチは結局、具が軽めのサンドイッチを手に取る。
「これくらいならいけるだろ」
「甘いのもいる?」
アダムが聞く。
「いる」
カノンが即答した。
「タイキは疲れてる時、甘いの入れた方が復活する」
「詳しい」
「見てりゃ分かる」
言いながら、カノンはプリンと小さめのチョコを取った。
ゴイチはスポーツドリンクと水をカゴに入れる。
「カフェインは?」
アダムが栄養ドリンクの棚を見ながら言う。
カノンは少し考えた。
「今は強いやつより、普通のカフェラテとかでいいんじゃね」
「眠気飛ばしすぎても、後で反動くるだろ」
「じゃあ、これ」
アダムが甘すぎないカフェラテを取る。
それから、少し迷って、小さなホットアイマスクも取った。
ゴイチがそれを見る。
「それ、今使う?」
「今じゃなくてもいい」
アダムは普通に言う。
「ルイの家に戻った時、使えばいい」
カノンが一瞬、黙った。
それは、つまり。
今日タイキが仕事後にまたルイの家へ戻ることを、三人とも当然のように分かっているということだった。
ゴイチが静かに笑う。
「いいじゃん」
「あと、のど飴」
カノンが追加する。
「タイキ用?」
「たぶん今日、喋る量多いだろ。ルイのこと雛子さんに説明すんのも、現場の確認もあるし」
「じゃあ塩分系も」
ゴイチがタブレットタイプの塩分補給菓子を入れた。
アダムがカゴの中を見る。
「完全に差し入れ」
「でも本人に渡すと気遣うだろ」
カノンが言う。
「置いとく」
「さりげなく?」
ゴイチが聞く。
カノンは真顔で頷いた。
「さりげなく」
⸻
三人が戻ると、タイキはまだ寝ていた。
本当に、ほとんど体勢も変わっていない。
スタジオ内は他のスタッフも休憩していて、少しざわついている。
でもタイキの周りだけ、変な静けさがあった。
カノンは足音を抑えて近づく。
タイキのスマホが手から落ちそうになっていた。
「……危な」
カノンはそっと、スマホをタイキの手元から抜いて、膝の横に置いた。
画面は暗い。
通知はない。
カノンは一瞬だけその画面を見て、何も言わず伏せた。
ゴイチは買ってきた袋を、タイキのバッグの隣へ置く。
あからさまになりすぎないように、でも起きたら絶対気づく位置。
アダムは袋の中を少し整理した。
サンドイッチ。
プリン。
スポドリ。
水。
カフェラテ。
のど飴。
ホットアイマスク。
それぞれのラベルが見えすぎないように、でも取り出しやすいように。
「……お前、店員?」
カノンが小声で言う。
「取りやすい方がいい」
アダムは真顔だった。
ゴイチは笑いを堪えている。
「アダム、気遣い細けぇな」
「タイキ、寝起きでたぶんぼーっとしてるから」
「確かに」
カノンは少し考えて、ポケットからペンを出した。
近くにあったメモ用紙を一枚ちぎる。
何かを書こうとして、止まる。
「名前書く?」
ゴイチが聞く。
「書かない」
「じゃあ何書くんだよ」
カノンは少しだけ眉を寄せて、短く書いた。
食え。飲め。寝ろ。
それを袋の上に置く。
ゴイチが見て、吹き出しそうになった。
「カノンすぎる」
「うるさい」
アダムが首を傾げる。
「タイキ、これ見たら誰か分かるね」
「分かるだろうな」
カノンはメモを見下ろして、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……別にいいだろ」
ゴイチがその隣に、もう一枚小さなメモを足した。
午後もちゃんとやろうぜ。終わったら早く帰れ。
カノンがそれを見る。
「お前も書くんかい」
「流れで」
アダムはしばらく考えて、最後に袋の端にホットアイマスクをそっと乗せた。
メモは書かない。
でも、その置き方が妙にアダムだった。
「アダムは?」
ゴイチが聞く。
「書かない」
「でも、これは後で使って」
「それを本人に言わないんだな」
「言うと使わないかもしれないから」
カノンが小さく笑った。
「お前も大概だな」
三人はタイキを起こさないように、少し離れたところへ移動した。
でも、完全に目を離すわけではない。
カノンは壁にもたれながら、さりげなくタイキの方を見ている。
ゴイチはストレッチしながら、タイキが寒くないかちらっと確認している。
アダムは水を飲みながら、タイキのスマホが鳴らないかまで見ている。
誰も大げさにはしない。
「大丈夫か」と何度も言うわけでもない。
「無理するな」と囲むわけでもない。
ただ、必要そうなものを近くに置いた。
起きた時、手を伸ばせば届く場所に。
それが、この三人らしかった。
⸻
休憩終了の少し前。
タイキが、ふっと眉を動かした。
それから、ゆっくり目を開ける。
最初は何が起きたのか分かっていない顔だった。
一瞬、天井を見る。
次に、自分の手元を見る。
スマホが横に置いてある。
「あれ……」
掠れた声で呟く。
寝てた。
完全に寝てた。
タイキは慌ててスマホを取った。
画面を確認する。
ルイからの連絡はない。
それに少しだけ息を吐いた。
寝てるならいい。
たぶん、寝てる。
そう思って顔を上げた時、バッグの横に置かれたコンビニ袋に気づいた。
「……?」
こんなの持ってきたっけ。
いや、持ってきてない。
袋の上に、小さなメモがある。
食え。飲め。寝ろ。
タイキは数秒、それを見つめた。
それから、思わず笑った。
「……カノンじゃん」
声に出してしまう。
さらにもう一枚。
午後もちゃんとやろうぜ。終わったら早く帰れ。
「……ゴイチも」
袋の端には、ホットアイマスクが乗っている。
何も書かれていない。
でも、なぜかそれだけで誰か分かった。
「……アダム」
タイキは袋の中を見る。
サンドイッチ。
水。
スポドリ。
カフェラテ。
プリン。
のど飴。
塩分タブレット。
全部、今の自分に必要そうなものばかりだった。
「……」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
直接渡されていたら、きっと笑ってごまかした。
「大丈夫だって」と言ったかもしれない。
「俺よりルイの方が」と、話を逸らしたかもしれない。
でも、こうやって置かれていると逃げられない。
食べろ。
飲め。
寝ろ。
本当に、その通りだった。
タイキはサンドイッチを手に取る。
食欲は、正直あまりない。
でも、食べなきゃ午後もたない。
午後をちゃんとやらなきゃ、ルイの家に戻れない。
「……食うか」
小さく呟いて、包装を開けた。
一口。
思っていたより、ちゃんとお腹が空いていた。
それに気づいた瞬間、少しだけ苦笑する。
自分のこと、後回しにしていたんだな。
分かっていたつもりだったけど、こうして誰かに先回りされるまで気づかなかった。
少し離れた場所で、カノンがこちらを見ていないふりをしている。
ゴイチはストレッチしているふりをしている。
アダムはスマホを見ているふりをしている。
全員、絶妙に下手だった。
タイキはサンドイッチをもう一口食べてから、わざと何も言わずにスポドリを開けた。
飲む。
喉が潤う。
それから、メモを二枚とも丁寧に畳んで、バッグのポケットに入れた。
カノンが一瞬だけそれを見た。
すぐ視線を逸らす。
ゴイチが口元だけで笑う。
アダムは何も言わないけど、少しだけ目元がやわらかい。
タイキは小さく息を吐いた。
「……ありがと」
本当に小さな声だった。
誰に向けたのかも分からないくらい。
でも、三人にはたぶん聞こえた。
カノンが何でもない顔で言う。
「何が?」
「別に」
タイキも何でもない顔で返す。
ゴイチが笑う。
「午後、いけそう?」
タイキはサンドイッチを飲み込んで、スポドリのキャップを閉めた。
「いける」
声は、さっきよりちゃんとしていた。
「ちゃんとやる」
「終わったら、早く帰る」
カノンが鼻で笑う。
「分かってんじゃん」
アダムが静かに頷く。
「それでいい」
休憩終了の声がかかる。
タイキは立ち上がる前に、もう一度スマホを見る。
ルイからの連絡はまだない。
寝てる。
きっと、寝てる。
そう信じることにする。
タイキはスポドリをもう一口飲んで、立ち上がった。
足元はまだ少し重い。
眠気も残っている。
でも、さっきよりずっとマシだった。
近くに置かれた差し入れ。
雑だけど優しいメモ。
何も言わずに添えられたホットアイマスク。
全部が、さりげなく背中を押していた。
タイキはスタジオ中央へ歩き出す。
ちゃんとやる。
早く終わらせる。
そして、ルイのところへ戻る。
そのために今、立つ。
誰も大げさに送り出さない。
誰も「頑張れ」とは言わない。
でも、カノンとゴイチとアダムがそれぞれの場所から、ちゃんとタイキを見ていた。
それだけで十分だった。
ルイ宅は、タイキが出ていったあと、急に広くなった。
さっきまで同じ部屋にいたはずなのに。
水のボトルも、薬の袋も、冷却シートも、コンビニで買ってきたゼリーも、全部そのまま置いてあるのに。
音だけが、足りない。
タイキが動く音。
袋を開ける音。
「水飲め」って少し強めに言う声。
体温計の数字を見て、眉を寄せる気配。
ソファーの前に膝をついて、まっすぐこっちを見る目。
それがなくなっただけで、部屋はこんなに静かになる。
「……」
ルイはソファーで仰向けになったまま、天井を見ていた。
熱はまだある。
まぶたの裏が重い。
身体の芯がだるい。
起き上がろうと思えば起き上がれる気もするけれど、たぶん実際に動いたらまたふらつく。
さっきタイキに言われたことを思い出す。
ちゃんと寝て。
ちゃんと飲んで。
ちゃんと食べて。
悪化させんなよ。
最後だけ、少しだけ命令みたいで。
でも、そこにあったのは怒りじゃなかった。
心配。
真正面からの、逃げ道のない心配。
ルイはゆっくり息を吐いた。
「……こういう時…」
「本当真っ直ぐ…」
掠れた声で呟く。
返事はない。
当たり前だ。
タイキは仕事に行った。
ちゃんと行った。
ルイが言ったから。
ちゃんとやれよ、と言った。
タイキは「ちゃんとやる」と言った。
たぶん今頃、スタジオに向かっている。
もしかしたらもう着いて、ロッカーで着替えているかもしれない。
雛子に報告して、怒られる準備をしているかもしれない。
ルイは目を閉じる。
少しだけ、胸が痛い。
置いていかれたからじゃない。
タイキは戻ってくると言った。
行く時もちゃんと言った。
勝手に消えなかった。
それなのに、いなくなった部屋の静けさが、思ったより胸にくる。
昨日までなら、そんなことを考えなかった。
ひとりの部屋は、ひとりの部屋だった。
静かなのは当たり前で、むしろその静けさが楽だった。
仕事から帰って、音を落として、水を飲んで、服を整えて、明日のことを考える。
自分のペースで過ごす。
誰にも乱されない。
それが普通だった。
なのに、今は。
「……タイキのせいだろ」
そう呟いて、自分で少し笑いそうになる。
笑うと喉が痛い。
だから笑わない。
ふっと、頭をソファーの背の方へ向けた。
そこに、タイキの上着があった。
ソファーの端に、きちんと畳まれて置かれている。
朝、タイキが出ていく前に置いていったもの。
今日暑いからいらない。
戻ってくるから。
そう言っていた。
戻ってくる理由をひとつ、置いていったみたいに。
「……」
ルイはしばらく、それを見ていた。
ただの上着だ。
タイキが昨日の夜、急いでここへ来る時に羽織っていた上着。
玄関前で待っていた時にも着ていた。
朝、仕事へ行く時には置いていった。
ただ、それだけ。
そう思おうとした。
でも無理だった。
ルイはゆっくり手を伸ばす。
腕が少し重い。
指先にも熱がある。
それでも、ソファーの端へ伸ばして、上着の裾に触れた。
柔らかい布地。
タイキのもの。
それだけで、指先が一瞬止まる。
「………」
少し迷った。
自分が今何をしようとしているのか分かっている。
分かっているから、余計に恥ずかしい。
熱があるから。
しんどいから。
頭がぼんやりしているから。
そんな言い訳はいくらでもできる。
でも、たぶん違う。
ただ、タイキの気配が欲しかった。
さっきまでここにいた気配。
膝枕してくれた温度。
額に触れてくれた冷たい手。
「いるよ」と何度も言ってくれた声。
それを、もう少しだけ近くに置いておきたかった。
ルイは指先で、そっと上着の裾を摘んだ。
キュッと、ほんの少しだけ引き寄せる。
布がソファーの上を滑る音がした。
それだけで、なぜか心臓が少し速くなる。
「……何やってんだ…」
小さく呟く。
でも、手は離さなかった。
上着をもう少しだけ近づける。
顔の横まで持ってくる。
そのまま、ほんの少しだけ顔を寄せた。
タイキの香りがした。
強くはない。
柔軟剤の匂いと、外の空気と、少しだけスタジオの匂い。
それから、タイキ自身の体温みたいな、説明しづらい匂い。
昨日の夜、玄関前でルイを受け止めた時。
深夜、膝枕をして髪を撫でてくれた時。
朝方、冷たい手で額に触れてくれた時。
近くにいた時の、あの匂い。
「……っ」
胸の奥が、きゅっと痛くなった。
鼓動が少し速くなる。
熱のせいだけじゃない。
寂しい、とまでは言いたくない。
そんな言葉にしたら、自分でも持て余す。
でも、いないことが分かる。
さっきまでいたのに、今はいない。
その差が、身体に残っている。
ルイは上着を掴んだまま、目を閉じた。
タイキが戻ってくる。
仕事のあと来る、と言った。
心配だから、と言い切った。
合鍵も渡した。
タイキならいい。
そう言ったのは、自分だ。
また外で待たせたくない。
それも本当だった。
でも、それだけじゃない。
扉の向こうで待たせるんじゃなくて、入ってきてほしいと思った。
勝手に、とまでは言わない。
でも、必要な時に、躊躇わず入ってきてほしいと思った。
自分の部屋に。
自分の生活に。
自分が弱っている時間の中に。
(……タイキなら、いい)
朝、自分で言った言葉を思い出す。
今さら、その重さが戻ってくる。
鍵を渡した。
ただの合鍵じゃない。
ただの便利じゃない。
それを、タイキはちゃんと分かっていた。
分かった上で、「今回は借りとく」と言った。
ちゃんと返すから、とも。
あいつらしい。
重く受け取りすぎないようにしてくれた。
でも軽く扱うこともしなかった。
だから、渡せた。
ルイは上着をもう少し引き寄せる。
胸元にかけるように、ブランケットの上へ重ねた。
本当は、顔を埋めるほど引き寄せるつもりはなかった。
でも、気づけば上着の端を頬の近くに置いていた。
香りが近くなる。
また、胸が少し痛む。
「……戻ってくるって、言ったし」
誰に言い訳しているのか分からない。
タイキは戻ってくる。
分かっている。
でも、その前に眠ってしまったら。
起きた時、まだ部屋が静かだったら。
そう思うと、少しだけ落ち着かなかった。
だから、上着を近くに置く。
それだけ。
それだけのことなのに。
ルイは上着の裾を指先で軽く握った。
昨日の夜、タイキが自分の手を包んでくれた感覚を思い出す。
膝の上で、頭を撫でられた感覚。
「こういう時くらい、遠慮すんなよ」と言われた声。
遠慮してない。
今は、してない。
そう思ったら、少しだけ力が抜けた。
熱で重かった身体が、ソファーへ沈む。
天井を見るのもだんだん億劫になって、まぶたが落ちていく。
タイキの上着からする香りが、近くにある。
それだけで、部屋の静けさが少し違って聞こえた。
完全にひとりじゃないみたいだった。
「……仕事、ちゃんとやれよ」
眠りに落ちる直前、また同じことを呟いた。
届くはずもないのに。
でも、タイキならたぶん、どこかで言い返す。
分かってるって。
ちゃんとやるって。
終わったら戻るって。
その声を想像したら、ようやく胸の痛みが少しやわらいだ。
ルイは上着の裾を握ったまま、深く息を吐く。
タイキの香りが、熱い呼吸の中に混じる。
安心する。
悔しいくらい。
「……早く、帰ってこいよ」
声になったかどうか分からないくらい、小さく落とした。
それきり、ルイの意識はゆっくり沈んでいった。
ソファーの上。
ブランケットの上に重なった、タイキの上着。
その裾を指先で軽く掴んだまま。
ルイは、さっきよりずっと穏やかな顔で眠っていた。
仕事が終わった瞬間、タイキはまずスマホを見た。
通知はない。
ルイからも、雛子からも、メンバーのグループからも。
何もない。
「……寝てる、よな」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、タイキはロッカーの前で荷物をまとめた。
今日の仕事は、ちゃんとやった。
自分で言うのも変だけど、かなり集中していたと思う。
途中で何度もルイのことは頭をよぎった。
熱は下がったかな。
水飲んだかな。
薬の時間、気づいたかな。
電話、出られるかな。
それでも、崩れなかった。
ちゃんとやれよ。
朝、ルイに言われたその一言が、ずっと背中にあった。
仕事を終えて、スタジオを出ようとしたところで、廊下の壁際にアダムがいた。
片手に、栄養ドリンクを二本持っている。
「タイキ」
呼ばれて、タイキが足を止める。
「ん?」
アダムは無言で、そのうちの一本をタイキに差し出した。
もう一本は、紙袋に入っている。
「これ、ルイの分」
「……え」
「こっち、タイキ」
そう言って、もう一本をタイキの手元に置く。
タイキは一瞬、言葉に詰まった。
「いや、俺は……」
「飲んで」
アダムの声は静かだった。
でも、拒否を聞く気がない声だった。
タイキは栄養ドリンクを見下ろす。
今日、カノンたちが買ってきてくれたサンドイッチも食べた。
スポドリも飲んだ。
でも、正直、身体の奥にはまだ寝不足が残っている。
アダムはそれを見抜いている顔だった。
「免疫。大事」
そう言って、アダムはほんの少しだけ微笑んだ。
その笑い方が、あまりにもさりげなくて。
何でもないことみたいに差し出してくるから、タイキは逆に何も言えなくなった。
「……ありがと」
「うん」
「ルイにも飲ませる」
「飲まなかったら?」
「飲ませる」
アダムは満足そうに頷いた。
「それでいい」
タイキは栄養ドリンクをバッグに入れ、ルイ用の紙袋を片手に持った。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
その言葉が妙に自然で、タイキは少しだけ笑った。
「……なんか、アダムが言うと変な感じ」
「そう?」
「うん。でも、いい」
アダムはそれ以上何も言わなかった。
ただ、静かにタイキを見送った。
タイキはスタジオを出た。
向かう先は、もう決まっている。
ルイの家。
寄り道するつもりはなかった。
⸻
電車の中で、一応LINEを入れた。
今から行く。
寝てたら起こさないけど、様子だけ見る。
送信。
既読はつかない。
駅を降りてから、電話もした。
呼び出し音。
長い。
出ない。
「……寝てる」
そう思うことにする。
昨日みたいに、ソファーで倒れるように寝ているわけじゃない。
ちゃんと水も置いた。
薬の時間もメモした。
着替えも済ませた。
熱はまだ高かったけど、朝よりは少し落ち着いていた。
だから大丈夫。
大丈夫なはず。
でも、ポケットの中で指先が鍵に触れた瞬間、胸が少しだけ跳ねた。
合鍵。
ルイが渡してくれた鍵。
今回は借りとく。
ちゃんと返すから。
そう言った。
返すと分かっている。
これはあくまで、ルイが弱っている間のためのものだ。
連絡がつかなくて、外で待つことにならないように。
必要な時に入れるように。
分かってる。
それでも、いざ使うかもしれないとなると、やっぱり緊張した。
ルイの部屋に、自分で鍵を開けて入る。
その事実が、思ったより重い。
「……ただの鍵じゃないだろ」
朝、自分で言った言葉を思い出す。
ルイも言った。
ただの鍵じゃないから。
タイキに渡してる。
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
タイキは深く息を吐いた。
「……ちゃんと返すし」
誰に言い訳しているのか分からないまま、ルイのマンションへ急いだ。
⸻
ルイの家の前に着く。
昨日、自分が座っていた玄関前の壁が目に入る。
そこに立った瞬間、胸の奥が少しざわついた。
昨日の夜。
コンビニの袋を置いて。
LINEを送って。
帰れなくて、壁に寄りかかって座った。
あの時は、まさか翌日に合鍵を持って戻ってくるなんて思っていなかった。
タイキは玄関前で、もう一度スマホを確認した。
LINEは未読。
着信も折り返しなし。
「……開けるよ」
聞こえるはずもないのに、小さく呟いた。
ポケットから鍵を取り出す。
金属の先が少しだけ指に冷たい。
鍵穴に差し込む時、なぜか息を止めてしまった。
ゆっくり回す。
カチ、と音がした。
それだけで、心臓が一段大きく鳴る。
タイキはドアノブに手をかけ、できるだけ静かにドアを開けた。
「……ルイ?」
小さく呼ぶ。
返事はない。
部屋の中は、出た時とほとんど変わっていなかった。
玄関にはルイの靴。
リビングへ続く廊下の照明は落ちている。
テーブルには、水のボトル、薬の袋、体温計。
朝、自分が整えて置いたものが、そのままある。
大きく荒れた様子はない。
それに少しだけ安心する。
タイキは靴を脱いで、紙袋を持ったまま中へ入った。
リビングへ近づく。
ソファーの方を覗き込む。
そして、タイキは目を見開いた。
ルイは、ソファーで横になって眠っていた。
それだけなら、よかった。
問題は、その腕の中だった。
タイキが置いていった上着を、ルイが抱きかかえていた。
ブランケットの上に重ねる程度じゃない。
ちゃんと腕の中に引き寄せて、胸元に抱くようにしている。
上着の襟元で、ルイの口元はほとんど隠れていた。
それくらい近い。
額には冷却シート。
目元はまだ少し赤い。
熱が残っているせいか、呼吸は浅い。
でも、その顔は朝よりずっと穏やかだった。
タイキの上着を抱いたまま、安心したみたいに眠っている。
(……うわ……)
声にならない声が漏れた。
タイキはその場で、両手で顔を覆った。
無理だった。
これは無理だ。
破壊力が強すぎる。
朝、上着を置いてきた。
戻ってくる理由みたいに。
ちょっとした照れ隠しみたいに。
でも、まさか。
まさか、それをルイが抱いて寝ているとは思わなかった。
しかも、こんなに近く。
香りを確かめるみたいに。
いない間の代わりにするみたいに。
「……っ」
タイキは顔を覆ったまま、耳まで熱くなるのを感じた。
嬉しい。
苦しい。
可愛い。
いや、可愛いって言ったら怒られそうだけど、でもこれは可愛い。
というか、ずるい。
熱がある時のルイ、ずるい。
そう思った、その時だった。
ソファーの上で、ルイのまつ毛が小さく震えた。
タイキは顔を覆ったまま固まる。
ルイの瞼が、ゆっくり持ち上がる。
まだ寝ぼけた目。
焦点が合っていない。
最初に、ルイは自分の腕の中を見た。
抱きかかえている上着。
それから、ゆっくりタイキの方へ顔を向ける。
タイキは両手で顔を覆ったまま、指の隙間から見てしまっていた。
ルイの視線が、上着へ戻る。
もう一度、タイキへ。
その視線が一往復して。
ようやく、ルイの目がはっきり開いた。
「……っ」
ルイの喉が小さく鳴る。
一気に状況を理解した顔だった。
腕の中の上着。
目の前のタイキ。
開いた玄関。
合鍵。
つまり、タイキが帰ってきて、この状態を見た。
全部。
「……っ、ちが、これは……」
声が掠れている。
熱で弱っている声なのに、焦りだけははっきりしていて。
その必死さがまた、タイキにはだめだった。
タイキは顔を隠していた両手をゆっくり離した。
でも、完全には耐えきれなくて、片手だけ額に当てる。
参ったみたいに。
困ったみたいに。
それでも、どうしても笑ってしまう顔で。
「……何が違うの」
声が、少しだけ甘くなった。
ルイは上着を抱いたまま固まった。
「違う」
「だから、何が」
「……これは」
「うん」
「……その」
言葉が出てこない。
いつものルイなら、ここで何かしら整える。
冗談にするか、余裕のある顔で返すか、逆にタイキを揺らしてくる。
でも今は熱があって、寝起きで、完全に隙だらけで。
誤魔化す言葉が追いついていない。
タイキはその顔を見て、胸がぎゅっとなった。
からかいたい。
でも、それ以上に。
抱きしめたい。
「ルイ」
タイキは声を落とした。
「うん」
「それ、俺の上着」
「……知ってる」
「抱いてた」
「……」
「めっちゃ抱いてた」
「……言うな」
ルイが上着で口元を隠すみたいに、少しだけ引き寄せた。
それがまた、答えにしかなっていない。
タイキは額に当てていた手を下ろし、息を吐くように笑った。
「……ごめん。ちょっと無理」
「何が」
「嬉しすぎる」
ルイの目が揺れた。
その一言で、さっきまでの焦りとは別の色が浮かぶ。
「……嬉しい、の」
「嬉しいに決まってんだろ」
タイキはソファーのそばへゆっくり近づいた。
紙袋をテーブルに置く。
アダムがくれた栄養ドリンクが中で小さく鳴った。
「起こしてごめん」
「……鍵」
「使った」
「LINEも電話も出なかったから」
「……うん」
「勝手に入ってごめん」
ルイは少しだけ首を振った。
「渡したから」
それだけ言う。
タイキの胸が、また痛くなる。
渡したから。
だから入っていい。
ちゃんと、そう言ってくれている。
タイキはソファーの前にしゃがんだ。
ルイの額に手を伸ばす。
「熱、まだある?」
触れた瞬間、まだ熱い。
「……あるな」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「……出た」
ルイが少しだけ目を細める。
その目元が、まだ赤い。
熱っぽい。
でも、朝よりは少しだけ力が戻っているようにも見える。
タイキは冷却シートの端を直した。
「上着、あったかかった?」
聞いた瞬間、ルイが視線を逸らす。
「……別に」
「あ、出た。別に」
「うるさい」
「匂い、した?」
「……」
「ルイ?」
「……した」
小さな声。
タイキは一瞬、息を止めた。
ルイは上着を抱いたまま、目を逸らしている。
口元は上着で少し隠れていて、そのせいで余計に声がこもる。
「安心した?」
聞く声が、自分でも驚くくらい優しくなった。
ルイはしばらく黙っていた。
それから、本当に小さく頷く。
「……した」
タイキは片手で自分の顔を覆い直した。
「……っ、だから無理だって」
「何が」
「ルイが素直すぎて」
「熱あるから」
「熱のせいにすんな」
「……じゃあ、言わない」
「いや、言って」
ルイがゆっくりタイキを見る。
「どっち」
「俺が困るだけ」
「またそれ」
「困るけど、聞きたい」
言ってから、タイキは自分で少し恥ずかしくなった。
でも、もういい。
今さらだった。
ルイは合鍵を渡した。
タイキはその鍵を使って入ってきた。
ルイはタイキの上着を抱いて寝ていた。
今さら、変に格好つけても遅い。
ルイは熱の残る目で、しばらくタイキを見た。
それから、ぽつりと呟く。
「……タイキがいなくなったら、静かだった」
タイキの表情が変わる。
「うん」
「部屋が」
「……うん」
「上着、そこにあったから」
ルイの指が、上着の裾を少しだけ握る。
「……ちょっと、借りた」
その言い方に、タイキは完全にやられた。
ちょっと借りた。
鍵を借りると言った自分に返すみたいに。
タイキの上着を、少しだけ借りたと。
タイキはソファーの前に膝をついたまま、両手で顔を覆いたくなるのをこらえた。
「……いいよ」
声が少し掠れる。
「いくらでも借りて」
ルイが目を伏せる。
「……返す」
「別に返さなくてもいい」
「それは困る」
「何で」
「タイキが寒い」
「今日暑いって言っただろ」
「夜は分かんない」
「病人が人の上着の心配すんなよ」
ルイは少しだけ笑った。
その笑い方が、さっきより自然だった。
タイキはようやく少し安心して、テーブルの紙袋に手を伸ばした。
「アダムが栄養ドリンクくれた」
「……アダムが?」
「二本。俺とルイの分」
「免疫。大事、だって」
ルイが薄く笑う。
「言いそう」
「でしょ」
タイキはルイ用の一本を取り出す。
「飲めそう?」
「……あとで」
「今ちょっと」
「厳しい」
「仕事終わりの厳しいタイキです」
「増えた」
「うん。帰ってきたから」
ルイは上着を抱えたまま、諦めたように目を閉じた。
「……少しだけ」
「えらい」
「子供扱い」
「病人扱い」
「便利だな、それ」
「便利だからね」
タイキはボトルを開ける準備をしながら、ふとルイを見る。
上着はまだ、ルイの腕の中にある。
「……それ、持ったまま飲む?」
ルイは動きを止めた。
そして、ゆっくり上着を見た。
今さら手放すのも、逆に恥ずかしい。
でも持ったまま飲むのも、もっと恥ずかしい。
その迷いが顔に出ていて、タイキはまた笑いそうになる。
「いいよ、そのままで」
「……言うな」
「うん、言わない」
「もう言ってる」
「ごめん」
タイキは笑いを噛み殺しながら、ルイの背中に手を添えた。
「少し起きれる?」
「……ん」
ルイがゆっくり身体を起こす。
上着はなぜかまだ片腕で抱えている。
タイキはそれを見ないふりをした。
見ないふりをしながら、内心では完全に負けていた。
「ルイ」
「何」
「俺、戻ってきたよ」
ルイの動きが、ほんの少し止まる。
タイキは栄養ドリンクのキャップを開けながら続けた。
「ちゃんと仕事して」
「ちゃんと戻ってきた」
ルイは、目を伏せたまま小さく頷いた。
「……うん」
「だから、もう上着だけじゃなくていいよ」
ルイが顔を上げる。
その瞬間、タイキは少しだけ照れた。
でも、言い切った。
「俺いるから」
ルイは何も言わなかった。
ただ、抱えていた上着を少しだけ緩めた。
そして、その代わりみたいに、タイキの手首に指先でそっと触れた。
掴むほどではない。
でも、確かめるみたいに。
タイキはその指先を見て、胸が痛くなるくらい優しく笑った。
「いるよ」
昨日から、何度も言った言葉。
でも今、また必要だと思った。
「ちゃんと、ここにいる」
ルイは目を伏せたまま、今度は逃げなかった。
「……おかえり」
小さく、掠れた声で言う。
タイキは一瞬、息が止まった。
それから、困ったように笑って、ルイの手に自分の手を重ねた。
「ただいま」
部屋は、朝より少しだけ静かじゃなくなった。
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9話、10話過去一最高でした😭😭 ほんとに大好きな物語です😭 続き楽しみにしてます♪♪