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「…………もしもし、もしもし……。いつもお世話になっております。ええ、ええ。……はい、熱はずいぶん下がりましたし、明日には行けると本人も話してるので。……分かりました、伝えておきます。……ええ、はい。フフ、優秀だなんて、そんな……。では、失礼します」
短いやり取りがいくつか続いたあと、まもなく受話器をおく音が壁越しに鮮明に聞こえる。真昼だというのに室内は薄暗く、ドレープカーテンのわずかな隙間からもれる一筋の線だけが唯一の明かりである。大量のエナジードリンクの空き缶やスナック菓子の包装紙が床を覆い、小綺麗に掃除されていたフローリングの床は今や見る影もない。多少冷房が効きすぎた部屋でぶ厚い布団にくるまり、端末の画面をひたすらにスクロールする。今季のアニメの評論だとか、可愛らしい動物の写真だとかの、なんてことのないSNSの投稿が押し流されて次々と消えていく。
ダボムがギョンジュンからの暴行を受けてからはや一週間が経過しようとしていた。二、三日前までは痛々しい傷跡が体中の至るところに散らばっていたが、今や立派な青痣としてその痕跡を残している。もっとも、ダボムはいじめられっ子を庇った時にできた怪我を治す、という名目のうえ休みを得たが、実のところはギョンジュンが恐ろしくて仕方がなかったためだ。無垢な彼の両親は「おまえは素晴らしい心の持ち主だ。立派なことを成し遂げたんだぞ。学校は行けるようになったらでいい」と心優しい言葉を彼にかけた。それも数年前、クラスメイトからのいじめによって自殺してしまった兄を救えなかった負い目を感じているのだろう。両親は出来た息子だ、と心からダボムの行動を称賛したが、ダボムの胸中は後ろめたい気持ちでいっぱいだった。それでも、いつまでも甘えているわけにはいかない。気軽に勉強を教えてもらえるような友人がいないダボムとっては、授業の遅れは深刻な問題だ。なにより次の定期試験も近いことだし、そろそろ日常生活に戻らなければならない。
────日常生活に戻ったら、またギョンジュンにいじめられるのか。 脳裏に焼き付いて離れないあの痛みを考えただけでも身震いしてしまう。ダボムは早々に携帯端末の電源を切り、ベッドのわきに押しやると枕に顔をおとした。
対人関係を築くことを不得手とするダボムにとって、ギョンジュンからのバスケの誘いはあまりにも魅力的だった。成績優秀、イケメンでカリスマ、もちろん運動や芸術なんかお手のもの……。そんな非の打ちどころがないようなギョンジュンに、僕のような無愛想で口下手な、下賎な人間がつり合うはずもない、とダボムは考えていた。実際、ギョンジュンがダボムに構うようになってからクラスメイト達は彼らの根も葉もない噂を囁き、ダボムは「なんであんなヤツが?」という視線を痛いほど浴びることになった。最も噂を流し始めたのはギョンジュンのパシリであるスンビンやジナだ。ふたりはやっとの思いで手に入れたハイブランドをそう簡単に手放したくはないようだった。とはいえギョンジュンはそれに全く応じず、よりいっそう不気味な程にダボムを甘やかした。たいていの場合ギョンジュンが適当な話題をふり、それに対してダボムが一言二言で返すというのがお決まりの流れである。
ダボムが言葉につまるたび、男はすぐさま助け舟を出した。ダボムがジナやスンビンに胸ぐらを掴まれるたび、間に入って制止した。ダボムがシュートを外せば「次は入る」と励ましてくれた。あれは欲しくないか。これは欲しくないか。俺が全部奢ってやる、とダボムをたいそう傅いた。────正直、異常だった。学校の人気者が全く関わりを持ったことのない、ましてや教室の隅でパソコンをいじっているような根暗な男にする対応ではない。むろんダボムは同性愛者ではないし、きっとギョンジュンもそうだ。それならば余計ギョンジュンがなにを目的としているか分からないが、高校生活で初めてできた友達にダボムは素直に喜んだ。放課後に公園に寄るのも、駅前でアイスを食べ歩きするのも初めての経験で、ダボムは学校に通う楽しみがまた一つ増えたのだった。ギョンジュンはまるで娘を溺愛する父親のように、ダボムになんでもかんでも買い与えようとした。貢ぎ物のように増える贈り物を前に、どうして僕に構ってくれるの……なんて言えるはずもなく、いつもすこし困ってから申し訳なさそうに首を振るのだ。
しかして、そんな奇妙な関係の終わりは突然やってきた。放課後、いつものように公園でシュート練習をしていた時だった。6時をまわる頃だろうか、グラウンドにはふたり分の影が落ちている。その日は特に調子が悪く、放ったボールがシュートを決めるどころか、ゴール枠の上をぐらつくことさえなかった。
ダボムがギョンジュンにバスケについて教えてもらってから一週間も経っているのに、シュートは一向に上手くなる気配が見えなかった。ボールが外れるたび、ダボムはなんだか急に自分が情けなくて、隣の友達に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ガコン、とボールが枠を大きく外れて床にバウンドし転がる。
ギョンジュンを失望させたくない。こんなにも良くしてくれているのだから、少しは恩返しもしたい。
外れて、バウンドして、転がる。その繰り返しだ。きっとギョンジュンもうんざりしてるんだろうとダボムは思った。
「あ……あのさ」
ボールがギョンジュンの足元に転がる。
「……もう、こんな風に誘ってくれなくていいよ」
一度拾い上げたボールがギョンジュンの手から滑り落ち、バウンドする。
─────言ってしまった。
ボールが転がって、転がって、ダボムの足の先で止まった。バクバク心臓がせわしなく鳴り、思わず拳を握る力が強くなる。はじめて、ギョンジュンからの好意を断った。これ以上はギョンジュンに手間をかけさせたくなかった。────いや、ダボムは期待していたのだ。ダボムが誘いを受けないと言ったとしても、彼がそれを拒むことを。
そのときのギョンジュンの顔はよく覚えていない。無表情だった気もするし、怒っていた気もする。
気がつくと頬が腫れていた。殴られたんだ理解するまで、そう時間はかからなかった。なぜならすぐさま2発目の拳が腹に命中したからだ。ぐらりと視界が歪む。なんで、という言葉は悲痛の叫びに掻き消され、目の前を火花が散った。
殴られて、蹴られて、次第に立っていられなくなり、地に這った。それでも蹴られ続けて、口内は血が滲み、額が割れて鮮血が視界を赤く染める。疼くような熱と激しい痛みが彼を襲った。
ダボムが倒れたはずみにボールはすでに遠くへ転がり、夜の闇に溶け込んでいた。
それから一週間。こうしてダボムはすっかり植え付けられたトラウマに震えて引きこもっているわけだ。
しかしダボムは知らない。これから彼に降りかかる悪夢が、今までの生暖かいものとは比べ物にならないことに。