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第5節 千崎雄二『断てない想い』―2―
今までは近づいても来なかった野良猫が、差し伸べた手を恐る恐るにおってくれるようになった……。その程度の微々たる変化だが、まあこの生活を始めて一週間ちょっとしか経っていない。おいおい慣れてくれれば御の字だ。
夕暮れ前の、静かな時間。
その静寂を破るみたいに、雄二が胸ポケットへ忍ばせた携帯が、短く震える。
――業務用の着信だ。
雄二は一瞬だけ指を止め、雪絵には見えない角度で画面を確認した。
『外周モニター確認
門前滞在者:桐生百合香(識別済)
すぐに離れへ来い』
今までだって、異常があれば離れに呼び出されることはあった。だが、百合香の名を見た瞬間、雄二の思考は秒で凍りついた。
胸の奥に、鈍い衝撃。
だが、雪絵が小首を傾げてこちらを見ている。表情を崩すわけにはいかない。
「……すみません、お嬢さん。少し、席を外します」
雪絵は顔を上げ、雄二を見る。
「すぐ、戻られますか?」
その問いに含まれた遠慮と戸惑いが、雄二の胸を締め付ける。
(この女は、オヤジから俺のこと、なんて言われてるんだ?)
自分と同じように〝伴侶となる相手として意識しろ〟などと吹き込まれているんだとしたら、なんとも申し訳ない気持ちになる。
いくら上から強要されようとも、今みたいに百合香の名を見ただけで、自分の心はこんなにも掻き乱されてしまうのだ。
(百合香……)
なんと言われようと、心の底から愛しいと思える女は百合香以外にいないと、雄二は痛感させられていた。
「……なるべく早めに戻れるよう善処します」
言いながら、「ですが――」と付け加えずにはいられない。
「……?」
「三〇分経っても私が戻らないようでしたら、先にお一人で夕飯を召し上がられてください」
「千崎さんは?」
「あとでいただきます」
結婚をしているわけでも婚約をしているわけでもない若い娘の家に、自分のような男が一緒に住み、――寝室は別々とはいえ寝食をともにさせられている。
なんとも背徳的な状態だ。
百合香とですら、同棲なんてしたことがなかったのに……とまた百合香のことを思ってしまって、雄二はグシャリと髪を掻き上げると、小さく吐息を落とした。
廊下を進む足取りは……おそらく乱れたりはしていないはずだ。
けれど心臓の音だけが、やけに大きく響いて……それが雪絵に聞かれていなかったかどうかだけが妙に気になった。
***
離れの扉を開けた瞬間、空気が変わった。
外光を遮断した室内には、複数のモニターが並び、淡い光が壁を照らしている。
中央の画面に映っていたのは――門前に立つ、女の姿。
雄二はモニター前に立つと、画面をじっと見つめた。
街灯に照らされた横顔。
少しだけ俯いたまま、動かずに立っている。
……百合香だ。
その所在無げで儚げな立ち姿に、胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
リアルタイムの映像だ。
塀一枚隔てたすぐそこに、百合香がいると思うだけで、喉が渇いた。
今すぐにでも門の所へ走って、百合香を腕の中へ抱きしめてやりたい。
無意識のうちに、両の拳に力がこもっていた。
「……あれは……お前が捨てた女――桐生百合香で間違いねぇよな?」
隣に立つ監視役の男が、吐き捨てるように言った。
「ああ……」
彼が唾棄するみたいに口にした、〝捨てた〟という言葉が、雄二の胸の奥をえぐるように響く。
「どうする? 二度とここに近づけねぇよう、俺が脅して来てやろうか? ああいう聞き分けのねぇ女にはちぃーと痛い目見せて立場を分からせりゃ――」
「……やめろ」
考えるより先に、声が出ていた。
監視役が、品定めでもするみたいにちらりと雄二を見遣る。
「……あの女は、他人に危害を加えるようなタイプじゃない」
そう言い切りながら、百合香のことを〝あの女〟などと呼んだことに、胸の内側が軋む。
本当は名前を呼びたい。
それを飲み込むみたいに、雄二は視線をモニターから外した。
「頼む。あいつを……これ以上傷つけないでやってくれ」
雄二のセリフに、監視役はあからさまに吐息を落とした。
「……分かった。今回だけは大目に見てやるよ」
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言いながらも、監視役は肩をすくめる。
「だがな。このことはオヤジには報告する」
分かっている。
逃げられない。
雄二は、何も言えずに黙って頷いた。
モニターの中で、百合香がゆっくりと踵を返す。
その背中が画面から消えるまで、雄二は目を逸らせなかった。
そんな雄二の様子を、監視役の男がどうしようもない者を見るみたいに冷めた目で、冷ややかに見つめていた――。
***
翌日――。
雄二は、早速了道から呼び出しを受けた。
動きの早さから、了道が百合香と自分、そして雪絵との行末についてピリピリとしている様子が窺えるようで、雄二はハンドルを握ったまま小さく吐息を落とさずにはいられない。
そんな雄二の様子に、後部シートから恐る恐るといった具合に声が掛かった。
「あの……」
急な召集に、雪絵を一人にしておくわけにはいかず、連れてきたのだが、正直今は一人の方が気が楽だ。
表向きは「里帰り」という名目で、彼女を連れて葛西の屋敷へ向かっている。
コメント
2件
切ない。 どう考えても強く惹かれ合ってる2人なのになんとかならないの?😭
ああもう、雄二の心情が痛すぎて胸がぎゅーってなったよ…😭💔 百合香が門の前に立ってるのを知りながら、名前も呼べず「あの女」って呼ばなきゃいけないのも、監視役に「これ以上傷つけないで」って頭下げるのも、全部全部切なすぎる…。お互い想い合ってるのに会えない距離、雪絵さんへの誠実さと百合香への想いの間で揺れる雄二の葛藤がリアルで、次の展開が気になって仕方ないです!