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本名は坂本麗子(さかしたれいこ)。
”麗しい”に子供の”子”で、麗子だ。
坂本憲一は、父の名前だった。
幼い自分を年老いた両親に任せ、どこかに消えた父親。
母親の顔は知らない。
祖父母は知っているのだろうが、意地でも教えてくれなかった。
「男ならまだしも女を置いていくなんて!」
それが祖父の口癖だった。
「衣食住与えれば文句ないでしょ!」
祖母は二言目にはそう言った。
宣言通り最低限の衣食住を与えられ、最低限の愛情とはいえない義理をもらって生きてきた。
女友達はいたが、何が気に食わなかったのか、小学校の高学年から無視されるようになった。
そして中学に上がってすぐに、これまた何が気に食わなかったのか、女子の上級生たちに囲まれ、その中の一人が連れてきた制服の違う男たちにレイプされた。
破れた制服を見ても、祖父は何も言わなかった。
赤黒いシミがついた下着を見ても、祖母は何も聞かなかった。
一人で蹲りながら、深夜テレビを見ていたら、この間レスリング世界選手権で優勝したという女性が満面の笑みで笑っていた。
「女に見られたことはないですねー、昔から!」
もし私が女じゃなければ――――。
祖父母も可愛がってくれたんだろうか。
女友達とも仲良くできたんだろうか。
女子の先輩たちに目を付けられることもなく、
男たちにレイプもされなかったんだろうか。
その夜、身体中痛む身体を抱きしめながら、
坂本麗子は女を捨てた。
中学、高校を卒業した私は、文字通り祖父母に見捨てられた。
卒業式から帰ると家はもぬけの殻で、昨日まで確かにあったはずの洋服ダンスも炬燵も、昨日まで確かに動いていたはずの洗濯機も冷蔵庫も、何もなくなっていた。
近所の公園で一夜を明かし、どうやら祖父母は帰ってくるどころか自分に連絡さえ寄越さないつもりらしいことがわかると、私は高校の制服のまま、小銭しか入っていない財布を持って、街に出た。
いくら女子高生の格好をしていても、レスリングで6年間鍛えに鍛えた身体がそれを着ると、まるで厳つい男がコスプレをしているみたいで、ナンパや勧誘のおじさんたち、さらにはティッシュ配りやチラシ配りのおばさんたちまで、私を避けた。
Q ここに、男には相手にされず、女にも避けられる人間がいます。その人間は男でしょうか。女でしょうか。
A それは人間ではありません。化物です。
女を捨てきれず、それでも男になり切れない私は、ただただ制服の胸ポケットに、卒業記念のバラのコサージュをぶら下げながら、街の片隅で蹲った。
そうして過ごすうちに、ごみ捨て場を漁っていたホームレスが、おずおずと話しかけてきた。
よくは覚えていないが、どこからきた?とか、両親は?とかそんな内容だったと思う。
その日は二、三言葉を交わしただけで別れた。
次の日にも彼は現れた。
手には賞味期限を一週間も過ぎたアンパンが握られていた。
もらったそれは、少し酸っぱかった。
その次の日に彼は、公園に子供が忘れたという飲みかけのコーラをくれた。
まだ新しいのか、変な味はしなかった。
ゴクゴクと喉を鳴らして飲んでいると、彼は「ここよりはまだ便利だから」と、自分の家(段ボール)がある川原まで案内してくれた。
そこには彼の他に三人のホームレスがいて、皆一様に歯がなかった。
段ボールを恵んでもらって高速道路下に“家”を作った。
その中に寝転がり、もらったかび臭い毛布にくるまると、やっとぐっすりと眠ることができた。
ホームレスの三人は名前をそれぞれ、ゲンさん、チョウさん、ユキさんと名乗った。
ゲンさんが私を川原に連れてきてくれた男で、もっと老けて見えたが、歳は49歳だと言っていた。
30代のうちにリストラに合い、転職を繰り返したが会社に馴染めず、いつの間にかこんなに年を食ってしまったと彼は笑った。
チョウさんは、ゲンさんとほぼ同い年らしく、これまたリストラに合って職を失い、実は借金もあったということで、実家には怖くて帰れないと言った。
ユキさんは30代で太っていた。
ニートで家に籠っていたが、母親が病気で死に、父親に人生で初めて殴られて実家を飛び出してきたとのことだった。
「みんなそれぞれ辛い目にあってきたんだから、ここでは多少のことは許しあって、助けあって生きていこうや」
ゲンさんは真っ黒な口で微笑んだ。
彼らは服を調達してきてくれて、
食べ物も飲み物も分けてくれて、
さらには炊き出しの場所や、
洋服や靴の配布などに連れて行ってくれた。
ある日ーーー。
数日続いた大雨のおかげで水かさが増した川を眺めながら、私は「あ」と呟いた。
”衣”。
”食”。
そして”住”。
ーーー全てが揃っている。
ここでも生きていける。
生きていけるんだ。
そう思ったら急に気持ちが楽になった。
私は鼻唄を口ずさみながら、自分の“住”に這っていき、かび臭い毛布の間から出てきたゴキブリを払うと、そこに横になった。
その夜―――。
暗闇の中、私の“住“に一人の男が忍び込んできた。
口元を抑えられた。
目を開けた瞬間、身体に何かが覆いかぶさり、息ができなくなった。
「しー――!しーーー!いいこだから。ね?」
ゲンさんがくれたカーディガンがたくし上げられ、チョウさんがくれたジャージが膝まで引きずり落された。
「んーー!!」
両手を顔の横で押さえつけられ、丸出しになった乳房を嘗められ吸われた。
低い声の混じる荒い息。
風呂に入っていない者が発する特有の甘い匂い。
この人は―――。
「ーーーー!」
抑えつけられたまま腹筋の力を使って起き上がった。
男はその力によろけ、私を跨いだまま後ろにひっくり返った。
すかさず相手の身体を太腿で挟み返し、脇に転がる。
ガードポジションからのアンクルホールドだ。
相手をうつ伏せに抑え込むと、私は声の限り叫んだ。
「助けて――――!!!」
ゲンさんに聞こえるように。
「助けて――――!!!」
チョウさんに聞こえるように。
自分の脚の下で苦しそうに抑え込まれ、段ボールの床を叩いていたのは、
ユキさんだった。
チョウさんが、練炭とハンマーを持って段ボールの中に入ってきた。
ゲンさんが金槌を持って中に入ってきた。
しかし私の脚の下でうつ伏せに悶えているユキさんの姿を認めると、二人とも振り被っていた武器を静かに下ろした。
「―――なんだ、ユキさんか」
チョウさんが大きく息を吐きながら言った。
「若い男はこれだから」
ゲンさんが笑った。
二人は必死でユキさんを抑えている私を宥めて、脇に座らせた。
そしてユキさんのことも引き起こすと、
「双方、怪我はないかい?」
と微笑んだ。
―――何笑ってんの。
私は信じられない気持ちでゲンさんとチョウさんを交互に見つめた。
私、襲われたんだけど。
私、レイプされかけたんだけど。
まだ身体は恐怖でカタカタ震えていた。
「ちょっと今夜は、向こう岸のお仲間たちから日本酒なんてもらったもんだから、酔っぱらってしまって……」
ヘラヘラ笑っているユキさんには気づかれたくなくて、私は震える体を抱えるようにして座った。
「ーーいやあ、泥酔してしまった。悪かったよ」
謝るユキさんからは、確かに酒の匂いがした。
でもそんなにひどい匂いではない。
それにあの力は、泥酔なんてしている男の力ではない。
確かに意思があって、意志をもって、彼は私の“住”に入ってきたのだ。
「まあ、なんだ……」
目に涙をためて睨み続ける私に困ったように頭を掻きながらゲンさんが言った。
「この間も言ったけど、みんなそれぞれ辛い目に合ってきたんだから、ここでは多少のことは大目に見ようや」
――――大目に見る?
「そうそう」
チョウさんが同調する。
「助け合って生きていかねばいけねすけな」
どこの言葉かはわからなかったが、バカなことを言っていることだけはわかった。
―――え。こいつら………。
私は三人のニヤけた顔を交互に見つめた。
ーーーまさか、これで済まそうとしてるの?
ゲンさんは私の無言を肯定ととったらしく、ユキさんの肩を叩いた。
「コンドームでもあれば話は違うけどな」
ゲンさんが笑う。
「ねえべ、そだな」
チョウさんも笑う。
―――ふざけるな。
「向こう岸の奴らに今度聞いてみるよ」
ユキさんも笑った。
―――ふざけるな。
私は、ゲンさんの手からハンマーを奪い取ると、その頭にそれを落とした。
凹んだゲンさんの顔を見て、ユキさんが悲鳴を上げた。
その丸い顔の正面からハンマーを振り落とした。
潰れたユキさんの鼻を見て、チョウさんが逃げようとした。
そのトレーナーを掴んで引き落とし、脳天からハンマーを振り落とした。
◇
◇◇
◇◇◇
私はランタンの光で揺れる、三人の死体を見下ろした。
そしてそれぞれの胸ポケットから財布を抜き取ると、その“住”を後にした。
自分がしたことの重大さがわからなかった。
なぜなら、人のごみを啜り、住民票もなく、税金も払わず、
こんな橋の下でゴキブリのように生きているこいつらが、
社会で真っ当に生きている人たちと、
人間としての価値が平等であるとはとても思えなかった。
しかし、
また新しく、衣食住を探さなければならない。
それだけはわかった。
南へ行こう。
もうすぐ冬が来る。
私は歩き出した。
川の向こうに見える東の空が、うっすらと明るく光っていた。