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|霜花《そうか》のように白い絹が、仄暗い灯の中で揺れる。
薫るのは、沈香と微かな|麝香《じゃこう》の香り。
後宮の奥深く、|宝華宮《ほうかきゅう》の一室――かつて璃月が暮らしていた貴妃の殿。
煌星は、そこで鏡台に向かいながら、深いため息をついた。
(なんで、こんなことになったんだ……)
鏡に映るのは、白粉を薄くのせられ、紅を引かれた唇。
璃月を知る者が見れば、驚くほどそっくりに仕上がっている。
それもそのはず。
双子の兄妹――璃月と煌星。
「貴妃様、お疲れでしょう。お茶をお淹れしましょうか」
背後で柳蘭が静かに声をかけた。
「……そうだね」
立ち上がろうとした瞬間、柳香が泣きそうな声を漏らした。
「貴妃様ぁ……っ、どうして、こんなことになってしまったんでしょう……!」
煌星は返答に詰まる。むしろ自分が問いたいくらいだ。
視線が机の上へ向かう。
そこには、「蘇貴妃」と記された札。
瞬間、封じ込めていた記憶が、鮮やかによみがえった。
※
「……璃月が、消えた?」
その話を聞いたのは今より十日ほど前のことだ。
父の言葉に、煌星は一瞬、耳を疑った。
だが、目の前の|蘇天祐《そ・てんゆう》は冗談を言うような顔をしていない。
これまでどんな問題にも動じなかった父が、今はひどく硬い表情をしている。
「璃月は貴妃として後宮にいるはずですよね? それが、どうして……」
「……わからん。だが、確かに姿を消した」
低い声には、妙な緊張が滲んでいた。
まるで、誰かに聞かれることを恐れているかのように。
「後宮で騒ぎになっていないのは、ある方のご厚意によるものだ」
「……ある方?」
思わず聞き返すと、父はゆっくりと頷いた。
「その名は、お前には言えない」
煌星の喉がひくりと動く。
(……誰だ?)
璃月が忽然と姿を消した。
それなのに、後宮は平穏を保っている。
そして、その事実を握っているのは 「ある方」。
その瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。
この話には、裏がある――そう確信するには十分すぎるほどの違和感だった。
「璃月の失踪が公になれば、後宮は混乱する。それだけではない。蘇家の立場も危うくなる」
父の言葉に、煌星は奥歯を噛む。
(……そりゃ、そうだろうな)
璃月は、皇帝に最も寵愛されている貴妃。
蘇家にとって、後宮での彼女の存在は、一族の権威を確立する要だった。
そんな彼女が消えたと知れれば、蘇家の影響力は一気に揺らぐ。
だが、それだけではないはずだ。
「“ある方”って誰ですか? 皇帝陛下の指示ではないのですか?」
「だから、お前にはまだ言えんのだ、煌星よ」
もしも、璃月を隠したのが皇帝本人なら、父はそう言うだろう。
だが、明言を避けたということは――
(……まさか)
ある可能性が頭をよぎる。
(璃月は、意図的に隠されたのか?)
そう考えると、妙に納得がいく。
誰かの意図によって、後宮から姿を消さなければならなかった。
だとすれば、理由は?
「父上は、どうなさるおつもりで?」
そう尋ねた瞬間、天祐の眼差しが鋭く煌星を貫いた。
「――お前が後宮へ行け」
「…………は?」
時が止まったような錯覚を覚えた。
「ちょっと待ってくれ。僕が後宮へ? 何で? どう考えてもおかしいでしょう⁈」
「璃月の代わりを務めるのだ」
低く、静かな声。
だが、その言葉の意味は、あまりにも重かった。
「そんな無茶な……! 僕は男ですよ!」
男である自分が、璃月の代わりになる?
そんなもの、不可能に決まっている。
「後宮にいるのは女性ばかりですよ⁈いや、たまに男性の鳳華もいるでしょうけど……‼」
「それは承知の上だ。それに、お前とて本来は入る資格がある」
「は……?」
混乱する頭の中で、父の言葉がゆっくりと染み込んでいく。
確かに、璃月と自分は双子だ。
顔立ちは瓜二つ。体格もほとんど変わらない。
加えて――
「お前も、璃月も、生まれつきの“|鳳華《ほうか》”だ」
ぴくり、と喉が動いた。
「鳳華は性別に関係なく、|龍血《りゅうけつ》と結ばれることが許されている」
それが、この国の|理《ことわり》だ。
鳳華は、龍血を持つ者に強く惹かれ、また、龍血との間にならば男女関係なく子をなせる。
ゆえに、古くから「龍血と鳳華の婚姻は正しきもの」とされてきた。
そして、鳳華も龍血もごく少数しか存在せず、大半の人間は |常血《じょうけつ》と呼ばれる一般の体質である。
「……それは、そうですけど……でも、僕が璃月を演じられるかどうかはまた別の話でしょう? 声だって違うし」
(まさか……本気でやるつもりなのか?)
煌星は、ぐっと拳を握る。
逃げられるなら、今すぐ逃げ出したい。
だが、父の表情は変わらない。そこには一切の迷いもなかった。
「些末なことはどうにでもなる。煌星、これはお前にしかできない。蘇家のためだ」
父の静かな声が、胸の奥に重く沈み込む。
逃げ道は、ない。
その現実を突きつけられた瞬間、目の前が暗くなった。