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第7話:境界の向こう側
放課後の校舎。傾いた陽が窓ガラスを茜色に染め、廊下に長い影を伸ばす。
ギィと重い音を立てて開いた屋上のドア。吹き抜ける風が、フェンスに身を預けたメアリの髪を揺らしている。
「……来たわね」
振り返りもせず投げかけられた声には、昨夜の喫茶『微睡』にあった温もりがない。
「単刀直入に言うわ。街の『影』が異常な速度で活性化している」
「異常……?」
「ええ。原因はまだ特定できていないけれど、調律者たちも本格的な調査と特定に動き始めているの」
メアリの視線を追い、凪は薄暗がりが差し始める街並みを見下ろした。あの見慣れた街のあちこちで、母の背中にへばりついていたような黒いモヤが蠢いている。逃げないと決めた凪の覚悟を、嗤うかのように。
◇
夕闇が降りる住宅街に満ちた焦げたような匂い。地面に沈み込むような不安が、凪の歩みを遅くする。
メアリの言葉、そして今朝見た母の背中。
逃げずに受け止めると、覚悟はしていたはずだ。
--それでも。
(俺に……何ができるっていうんだ)
深く溜息をついて、思考を振り払おうと角を曲がった、その時。
数十メートル先、何度も首を振って周囲を気にしながら歩く影。小柄な制服姿、丸められた背中。隣のクラスの白石琴音だ。
「白石?」
「ひゃいっ!?」
跳ね上がるように振り返った琴音の目が、限界まで見開かれる。
「ひ、日向くん……!? な、なんでここに……っ!」
赤くなった顔で、琴音は胸元にあった金属片のようなものを制服のポケットへ押し込んだ。息を荒くしてパニックになる姿は、いつもの気弱なクラスメイトそのものだ。
「いや、落ち着かない様子だったから……顔色も悪いし、大丈夫か?」
一歩踏み出した、その瞬間。
ぴきりと、琴音の首筋が強張った。
「白石……?」
凪の声は届いていない。
弾かれたように路地の奥を射抜く瞳。そこから色合いが消え、昨日見せた氷のような冷気が立ち登る。
だが琴音は即座に唇を噛み、声を張り上げた。
「ちょ、ちょっと急に用事を思い出したので! これで失礼しますっ!」
靴底がアスファルトを蹴る乾いた音だけを残し、琴音は風を切って走り去っていく。
(あの速さ……それに、今の目は……)
すれ違いざまに頬を撫でた、刺すような空気の硬さ。嫌な胸騒ぎが背中を突き動かす。
「待てよ、白石!」
鞄を持ち直し、凪は彼女の消えた路地裏へ飛び込んだ。
◇
だが、足音はあっという間に遠のき、入り組んだ路地の中で掻き消えた。
「くそっ……どこ行った……!?」
荒い息を吐き、立ち尽くした視界の端で捉えた、塀の上の小さな影。
しなやかに飛び降りてきたのは、一匹の黒猫。金色の瞳で凪の顔をじっと見つめ、「ナァ」と短く鳴くと、闇の濃い路地奥へ歩き出す。
数歩進んでは立ち止まり、しっぽをゆらりと揺らして振り返る。
(案内……してるのか?)
ザラついた胸騒ぎに背を押され、凪はその黒猫の後を追う。
行き止まりの古い空き地へ近づくにつれ、重苦しい空気が凪の意識を蝕んだ。
(なんだよ、この感覚は……)
黒猫が物陰で足を止め、そっと奥を指し示すように尾を振った。
息を殺し、壁の影から覗き込む。
——背中を向けた琴音が立っていた。
放課後の可憐な影はない。張りつめた殺気を全身から放ち、構えた両手の拳には金属のような冷たい光が宿っている。
その視線の先。
泥の上にうずくまり、声を押し殺して悶絶する男。その体から、油のようなドス黒い「影」がドロリとうねり出す。
「……フェーズ2。これ以上は進ませない」
静かな声が、凍りついた空き地に低く響いた。
コメント
1件
読了しました……! 今回は特に、琴音さんの二面性がぞわぞわしましたね。屋上でのメアリの冷たい口調と、琴音の首筋が強張る瞬間の緊張感が本当に丁寧で、引き込まれました。黒猫が案内する神話的な雰囲気も素敵。凪の「俺に何ができる」という不安に共感しつつ、それでも追いかける彼の足が止まらないのが胸に響きました。フェーズ2という言葉の重さ、続きが気になります……!
#ドライ
#地雷系
尾津嘉寿夫 ーおづかずおー
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