コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
お互い必要な分の買い出しはつつがなく終わり、陽翔のリクエストで百子が行きつけのお店に行くことになった。卵がふわふわでとろとろなオムライスや、内装がレトロなので有名な、昔ながらの洋食屋さんである。弘樹と同棲するようになってからは一度も行っておらず、8ヶ月ぶりに百子は店に足を踏み入れ、陽翔はビフテキを、百子はオムライスを注文した。
「ビフテキなんて文豪の書く小説にしかないイメージだったのに、今でもあるのか」
「そうよね。私も初めて見た時はびっくりしたもの。ビフテキも好きだけど、私はふわとろな卵のオムライスが一番好きなのよ。家で再現できないのが悔しいけど」
だから前は月一度は通っていたのよと彼女は付け加えた。陽翔は彼女の言葉が過去形だったことに気づいて、恐らくはしばらく来店していない理由を聞こうと口を開くが、料理が来たことで口の中に消えた。朝ごはんをいつもよりも早めに食べたので、食欲が勝ったのだ。いい匂いに急かされるように、ナイフで小さく切ったビフテキを口に運ぶ。
「こんなに旨いものが食べられるならお前に付き合ったかいがあるな」
慣れた手つきでナイフとフォークを使っている陽翔は、百子に向かって心底嬉しそうな笑顔を向けて感謝の言葉を述べる。百子は陽翔が噛んでいるのも謎なペースでビフテキを平らげようとしているのを見て目を見開いたが、全く悪い心地はしなかった。
「大げさね。でも私もここのお店のビフテキは好きだから嬉しいわ。久々に来れて良かったし。こちらこそついて来てくれてありがとう」
オムライスをつつきながら百子も微笑む。昨日あんなことがあったのに、その次の日から笑えるようになるなんて夢にも思わなかった。百子は買い物途中に、スマホのメッセージアプリに弘樹から大量のメッセージが来ていたのに気づいて気分が悪くなったので、美味しいものを食べている今はせめて考えないようにしようと、それらを脇に追いやった。
「やっと笑ったな。買い物途中も浮かない顔だったが、やっぱり食い意地には勝てなかったか」
百子は前半の台詞でギクリとしたものの、後半の台詞で眉を上げた。
「食い意地って何よ。食欲って言いなさいな! それにしてもなんで私の奢りなのに、自分の好きなお店を指定しなかったの?」
「好きな店は近所にないからな」
「ここだって近所じゃないけど?」
陽翔はギクリとしたが、水を飲むことでそれをごまかす。
「……新しい店の開拓がついでにできると思ったんだよ」
「ふーん……? あ、夜にしか開いてないお店が好きなところなのか」
「……そんなところだ」
百子は陽翔が一瞬目をそらしたのが気になったが、陽翔の皿がほとんど空になっているのを目撃したので、スプーンをせっせと動かすことにした。
「ゆっくり食べろ。別にオムライスは逃げないだろ。本当に食い意地張ってんなお前。そこは学生時代と変わってないな」
百子はムッとしたが、陽翔は大学時代には百子にだけ皮肉をよく言っていた奴だということをようやく思い出した。今までのあの優しさは百子が弱っていたからであって、通常運転に戻っただけだと思い直す。
「褒め言葉をどうも。東雲くんは相変わらず早食いね。対面で食事している相手に合わせるって発想が無いのもどうかと思うわよ」
何故か陽翔はここでふっと笑った。
「そこまで言えるなら元気だな。まだ色々と問題はあるだろうが、飯食ってる時くらいは忘れとけ」
(え……?)
百子は目をぱちくりさせた。学生時代の応酬をしていたつもりだったが、もしやこれも彼の気遣いなのだろうか。
(……いいえ、|東雲くん《あいつ》に限ってそれはないわ。こっちが素のあいつなんだもの。いつも私にだけ意地悪だったし。他の女の子には無駄に人当たりのいい人を演じてた、とんでもない奴なんだもの)
一人で陽翔の態度を回想しながら、百子はオムライスを平らげた。スプーンを置いた音を待っていたかのようにスマホが震える。いつもの癖でスマホを鞄から取り出そうとした百子だったが、いつの間にか対面にいたはずの陽翔が隣に来ており、百子の手を掴んだ。
「今は見るな。見なくていい」
百子は口を開いたが、彼からの強い眼差しに気圧されたので、言葉はそこから出なかった。
「見るなら帰ってからだ。それと見るなら俺と二人で家にいる時にしろ」
「……なんで? メッセージアプリを見るとは限らないのに」
百子は眉根をぐっと寄せていたが、その瞳にちらつく悲しみを陽翔は見逃さなかった。
「お前は一人で何でも抱え込みそうだから言ってんだよ。さっきからちらちらと鞄を見てるのに何言ってんだ。一人で抱え込むな。俺も何かしら対策を一緒に考えるから」
百子は彼の双眸から目が離せなくなった。鞄を、正確に言うと鞄の中のスマホを気にしていたことは指摘されるまで気づかなかった。自分の行動を把握できていないのと、彼に無意識からの行動を見透かされたことにより、百子は酷く狼狽している。
「……ありがとう」
百子はスマホを開いてサイレントモードに切り替えてカバンに入れた。
「分かったのならいい。店が混んできたからもう出るか。茨城、ごちそうさま」
そう言った後、トイレに行くと呟いた陽翔は、早足でトイレに向かう。百子は伝票を持ってレジで会計を済ませ、陽翔と合流したが、家に帰るまでは一切スマホを見なかった。