テラーノベル
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澄んだ青空の下、山の向こう側まで続く広大な草原の中を一台の幌馬車が走る。 荷台には、折り畳み式の長椅子に横になって眠る少女の姿があった。
ガタゴトと揺れる音でようやく目を覚ませば、濃紺の長い髪が視界に入る。
────目の前に誰かが座っている。
「起きた?」
優しく声をかけてきたのは、前髪を綺麗に切り揃えた紫色の瞳を持つ若い娘。
裾の短い黒い上着を着ており、年上にも見える大人びた雰囲気を醸し出している。
「身体の方はどう?」
「あの、貴方は……?」
相手の質問に答えることなく、少し驚いた様子で少女が尋ねる。
驚くのも無理はない。 少女にとって、自分以外の人間と会うのはこれが初めてだったのだ。
「私はシャーロット・モーティシア。貴方は?」
「わ、私?」
それはこちらが知りたい。
そういいかけ、少女は口を噤んだ。
少女は自分の名前を知らない。
そもそも名前などあるのだろうか。
────“フェアリーテール”。
突然少女の頭に過ぎったのは、夢から覚めたあとも不思議と頭に残っていた単語。
「……テール」
気が付けば少女は無意識に”テール”と名乗っていた。“分からない”と正直に伝えた方が良かっただろうか。
少女────いや、ここは少女自身が名乗った名前を使わせてもらい、”テール”と呼ぶことにしよう。
テールは、迷いつつも言ってしまったものは仕方ないと開き直り、ここは何処だろうかと辺りを見回す。
夢でも見ているのだろうか。図書館は? ラジオは? 本の中に吸い込まれて……どうなった?
次から次へと湧き出る疑問にテールが一人悶々としていると、シャーロットから「貴方、どうして倒れてたの?」と聞かれ「倒れてた……?」とテールが聞き返す。
「そうよ。倒れてる貴方を見つけたから乗せたの。放って置くわけにもいかなかったし」
(それで私は馬車に乗ってたのか。今乗ってるのは”幌馬車”ってやつかな? てことは、外には本物の馬が……?)
本の中でしか見たことの無い”馬”がすぐそこにいる。本物はどのような姿形をしているのだろうか。見てみたい。触ってみたい。徐々に好奇心が増し、 自分の置かれている状況を忘れそうになる テールだったが、シャーロットに続けて質問され現実に返る。
「貴方、手ぶらだけど……何処から来たの?」
シャーロットの質問にテールは言葉を詰まらせた。 何と答えるのが正解なのだろうか。「大きな図書館にいて、ラジオの声に従って本を開いたら中に吸い込まれ、目が覚めたら貴方に拾われてました」などと言って果たして納得するだろうか。
けれど実際、 この状況が夢でないのなら、信じ難いが今いる世界は本の中なのかもしれない。 とはいえ、物語の内容や設定などは知る由もない。下手なことを言って怪しまれるのも面倒だ。 ひとまず、この場を何とか乗り切ろうと考え、テールは 「ごめんなさい。あまり覚えてなくて……」と誤魔化すことにした。
「覚えてない? なら、自分が倒れていた場所は?」
テールが首を横に振れば、シャーロットは観察するかのようにテールをジッと見つめ、小さく溜息をついてから再び口を開く。
「貴方、草原のど真ん中で倒れてたのよ。家族や友人、仲間がどこかに居たりする?」
「いない、です。多分?」
「何故疑問形……。さっきも聞いたけど、倒れていた理由も、本当に分からないの?」
好奇心か心配か。はたまた両方か。
シャーロットとしては矢張り倒れていた理由が気になるのだろう。
本に吸い込まれてこの世界に来たと言ったら怪しまれるよりも、心配されそうだ。主に頭を。そうだ。 いっそのこと記憶喪失で通そう。そうしよう。
テールは諦めたように遠くを見つめながら「ごめんなさい、自分でも分かりません」と答える。
その言葉にシャーロットは、一瞬目を丸くしてから直ぐに険しい表情を浮かべた。
「貴方、もしかして……病気、とかだったりする? もしくは病院から抜け出した患者……ではなさそうね」
上品で小綺麗な格好をしたテールの姿を上から下まで見ながら、シャーロットが片眉を上げる。
「余計なお世話かもしれないけど、一度医者に見てもらったらどうかしら?」
「えーっと、お金なくて……」
嘘はついていない。テールは無一文だ。
シャーロットは再度目を丸くして頭を抱え「もしや家出少女かしら? 何かのトラブルに巻き込まれたりとか……」と独り言を呟き始める。テールとしては、シャーロットを騙してるみたいで申し訳ない気持ちはあったが、半分は本当の話だ。テール自身も自分が何者なのか分からないので、自分について何を話せばいいのか思いつかない。
釈然としない様子ではあったが、シャーロットは「まぁ、いいわ。人にも色んな事情があるだろうからこれ以上は聞かないことにする」とほんの少しだけ肩を上げ、両方の手のひらを見せて質問するのを止める。 直後、馬車が止まった。
「どうやら街についたみたいね」
「街……?」
「そうよ」
シャーロットは閉められていた御者席との間の幌を少し開けると、お礼の代金を支払い「さ、下りましょう」とテールに声をかけてから幌馬車を下りた。
「! 眩しっ」
燦々と降り注ぐ陽光にテールは目を細め、顔の上に手をかざした。
これが太陽の輝きなのか。
図書館ではステンドグラスから陽の光が差し込むことはあったが、太陽そのものを見るのは初めてだ。そこでテールは馬を見るという目的を思い出すが、幌馬車は既に走り去っており、テールはガクッと肩の力を落とす。
「ねぇ、貴方が良ければ折角だし、一緒に街を見て周らない? 勿論、無理にとは言わないけど、貴方、記憶喪失? っぽいし一人にするのが心配で……」
「えっ」
長い月日を図書館の中で一人過ごしていたテールにとって、シャーロットの誘いは衝撃的だった。
一人にするのは心配だからと、初対面の自分に観光の誘いとは。こんな展開、物語の中でしか見たことがない。承諾すべきだろうか。断るのは失礼になるだろうか。素直に受け入れてあとから痛い目にあわないだろうか。テールが考えあぐねていると、テールの不安を察したのか、シャーロットが困ったように微笑む。
「貴方の不安は分かるわ。大丈夫。私が誘ったんだもの。貴方に何かを求めたりしないから安心して。それに、旅は道連れ世は情けって言うでしょ? また倒れても大変だし」
つい忘れそうになるが、ここは本の世界。
正確に言えば本の中の世界であり、テールはこの世界については何も知らない。
そのような状態で一人右も左も分からないまま彷徨っていたら、そのうち本当に倒れてしまうかもしれない。
それを考えた上で、テールはシャーロットの言葉に甘えることにした。
「はい、一緒に行きます!」