湯気の向こうに
深夜1時を回った頃、銭湯の営業終了を告げる札が静かに裏返された。
「貸し切りだな、ほぼ。」
涼太が湯舟のふちに腰かけて、湯の表面を指でなぞる。横には、大学の先輩・直樹。いつもは冷静で大人びた空気をまとっている彼が、今日は珍しく多めに酒を飲んでいた。
「お前さ、最近避けてないか、俺のこと。」
湯気が立ちこめる中で、その言葉は濡れた空気に重く沈んだ。
涼太はぎこちなく笑った。「いや、別に。そんなこと…」
直樹が無言で立ち上がり、湯舟に沈む。濡れた肌が湯の反射で艶を増し、男の体温が湯に溶けていく。
「…隠せないぞ、そういうの。」
肩が触れるほどの距離に詰められ、涼太の喉がごくりと鳴る。心臓が湯と同じくらい熱い。
「男が男を好きになるって、別に変か?」
「…変じゃない。でも、怖いよ。」
直樹の指先が、そっと涼太の手に触れた。拒む理由を、彼はもう持っていなかった。
湯気の向こうで、二人の輪郭が曖昧に重なっていく。肌の感触も、息遣いも、すべてが現実なのに夢のように遠く、熱い。
誰もいない夜の銭湯。水音と心音だけが、密やかに響き合っていた。
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