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 ――美しきものは、脆くして、儚し。


 その言葉を、鶴子は幾度となく胸中で繰り返してきた。鶴子は蒼白き面持ちで、軋む駕籠の中に身を沈めていた。頬に触れる夜風は冷たく、しかしその奥底に潜む湿り気が、まるでこれから己を待ち受ける運命を暗示しているかのようであった。


父・辰平の背は、既に見えぬ。幼い頃、あの背中をどれほど誇らしく仰ぎ見たことか。だが今、その父に花街「夕霧町」へと売られたのだ――商いに失敗し、借金のかたに。


花街は外から見れば華やかだが、遊女たちの多くは家計や借金のために、無理やりその世界へ引き込まれていた。


街では誰もが「自由だ」と叫んでいたが、ここには何一つ自由などなかった。



 「……着いたよ、嬢さん。」


 駕籠屋の声に促され、重たき足を引き摺るようにして外へ出る。そこには、紅灯の火影がぼんやりと揺らめく街並みが広がっていた。石畳に響く足音が、やけに大きく聞こえる。ここが、己のこれからの檻――置屋「桜屋」であった。


 迎え出たのは、浅黒い肌に鋭い眼差しを持つ中年女――おかみの志乃である。その隣には、艶やかな黒髪を結い上げ、紫紺の帯をきりりと締めたひとりの遊女が立っていた。


 「おまえが鶴子だね。……あたしは千代だ。今日からおまえの世話役を仰せつかってる。」



 足許に力が入らず、絹の足袋越しに石畳の冷たさが骨の髄へと沁み渡る。周囲には、紅灯の火影が幽かに揺れ、空には一片の星さえ見えなかった。


鶴子は深く頭を垂れ、「……よろしゅうお願いいたします」と蚊の鳴くような声で呟いた。


 夜の帳がすっかり落ちると、桜屋の内部は一層艶めき、そして張り詰めた空気が支配する。千代は鶴子を座敷へ案内しながら、厳しき掟を語った。酒の席での作法、男どもの機微、そして何より「決して情を持つな」という教え。


 「忘れるんじゃないよ、鶴子。ここじゃ、美しいもんほど早く壊れるんだ。」


 その言葉に、鶴子は小さく頷きながらも、幼き日の母の声を思い出していた。「美しいものは、壊れやすい」と。なぜ人はこうも同じ言葉を口にするのだろうか。まるでそれが、逃れえぬ定めであるかのように。


 迎えた初見世の日、鶴子の胸は張り裂けんばかりに脈打っていた。顔を白粉で塗り、紅を引かれた唇は、己のものではないように感じられる。鏡の中の自分は、もはや“鶴子”ではなかった。ただの一体の器――男たちの欲望を映す器。


 「初客が、来なすったよ。」


 千代の声が響き、戸口の向こうにすっと影が差した。鶴子の心臓が、ひときわ大きく鳴る。恐怖と羞恥がないまぜとなり、指先がわなわなと震えた。


 現れたのは、浅葱色の羽織をまとった青年――秋成であった。冷ややかでいて、どこか憂いを湛えたその眼差しが、じっと鶴子を見据える。視線が絡む刹那、鶴子は思わず俯き、喉の奥が乾いて音を立てた。


 秋成は静かに近づくと、何の躊躇も見せずに鶴子の傍に腰を下ろした。そして、恐る恐る見上げた鶴子の手を取る。ひやりとした指先が、そっと重なり合った。


 「……今日は、話をしよう。」


 低く澄んだ声が、まるで部屋の空気を変えるようだった。鶴子は目を瞬かせた。予想していた“客”の姿とは、あまりにもかけ離れている。彼がここへ来たのは、欲望を満たすためでは無いのかもしれない。でも、なぜ…?どう返して良いかわからず、唇を震わせる。


 「……お話、でございますか……?」


 秋成は軽く頷いた。その瞳には、憐憫とも興味ともつかぬ光が宿っている。


 「君は、今日が初めてだろう。顔に、すべてが出ている。」


 その言葉に、鶴子の頬がかすかに紅潮する。羞恥と恐怖が入り混じり、指先がまた小さく震えた。秋成はその様子をじっと見つめ、ふっと息を吐いた。


 「……無理に笑わなくていい。誰も、強いる者はいない。君は……まだ、これからだ。」


 鶴子は言葉を失った。男たちは皆、欲望と共にやって来るものだと、千代に教え込まれていた。だが、この人は違う。重ねた指が、力強くもなく、ただ静かにそこにあるだけ。目の奥がじんわりと熱を帯びる。


 「……お名前を、伺っても……?」


 秋成は一瞬だけ目を細めると、ゆっくりと応えた。


 「浅川秋成。」


 その名を胸中で何度も繰り返し、鶴子はひそかに飲み込んだ。


 「……浅川様は……どうして……私などに……」


 言いかけて、声が途切れる。秋成は視線を窓の方へとやり、遠くを見つめるように口を開いた。


 「人は、弱き者を見世物にして笑う。それがこの街の仕組みだ。……だがな、君、忘れるな。この場所が、君のすべてではない。」


 その言葉は、鶴子にとってあまりにも異質で、しかし胸の奥深くまで響くものだった。まるで、小さな火種が灯されたかのような。


 「……でも、私は、もう……ここに……」


 秋成は首を横に振り、鶴子の瞳を真っ直ぐに見据えた。


 「まだだ。終わりと決めるのは、君自身だ。」


 沈黙が、ふたりの間に降りた。やがて、秋成はそっと手を離し、立ち上がった。その背が戸口へと向かう。その背中を、鶴子は茫然と見送る。


「また来よう。」


 振り返りもせずに残されたその一言が、鶴子の胸をぎゅっと締めつけた。


 その夜、鶴子は何度もその声を思い出しながら、冷たく硬い布団の中で、ひとり密かに涙を流した。


 

 

 朝靄の中、桜屋の中庭では水を打つ音が響いていた。鶴子は膝をつき、冷えきった桶の中に手を沈める。冷水が肌を刺すようだが、もう驚きはしない。あれから幾夜が過ぎた。

 「鶴子、次の客が来るよ。」

 千代の声が遠くから響き、鶴子はゆるやかに振り向いた。白粉の下の頬が引きつるように笑う。

 「はい……すぐに。」

 扇のような袖を翻し、帳場へと向かう足取りはもうたどたどしくはなかった。華やかに飾られた髪、艷やかな帯。見た目は一人前の遊女――それが「従順な仮面」の完成形だった。

 部屋の襖が開き、男が入ってくる。酒の匂いをまとい、粗野な眼差しを鶴子に投げかける。

 「へえ……まだ若いな。こりゃ当たりだ。」

 鶴子は微笑む。心の奥で何かが冷たく沈むのを感じながら、決められた台詞を口にする。

 「お目にかかれて光栄でございます。どうぞ、ごゆるりと……」

 その夜もまた、時間が無機質に過ぎていった。誰もが似たような言葉をささやき、似たような手つきで触れてくる。鶴子は目を伏せ、思考を遠くへ追いやった。

 (……あの人は、来るだろうか。)

 ふと、秋成のことが脳裏をかすめる。澄んだ声、重ねた手の温もり――。

 男の指が頬に触れた瞬間、鶴子の胸がきゅっと締めつけられる。

 (違う……この人じゃない。)

 思わず肩がこわばる。だがすぐに、笑顔を取り戻した。仮面は決して落としてはいけない。それがここで生きる術だと、千代に教えられてきた。

 夜半。客を見送り、部屋に戻ると、鶴子は帯を解き、鏡台の前に座り込んだ。髪飾りを外す指がかすかに震えている。

 「……また、あの人の声が……聞きたい……」

 誰にも聞かれないように呟き、鶴子はそっと膝を抱え込む。押し寄せる虚しさの中で、秋成の顔が滲むように蘇る。

 翌日、千代がふと漏らした。

 「情なんて持つもんじゃないよ、鶴子。持った瞬間、あんたも壊れる。」

 鶴子は笑顔を作ったまま、黙って頷いた。その胸の奥で、もう遅いかもしれないという囁きが響いていた。

 ――そして数日後。

 秋成が再び桜屋を訪れた。

 「……!」

 帳場の隅からその姿を見つけた瞬間、鶴子の心臓が飛び跳ねる。視線を逸らし、息を整えようとするが、指先がかすかに震えていた。

 部屋に入ってきた秋成は、以前と変わらぬ落ち着いた様子で、黙って鶴子を見つめた。戸が閉まると、静寂が落ちる。

 「……久しぶりだな。」

 その声に、思わず胸が熱くなる。鶴子は頭を下げたまま、言葉を探した。

 「……お、お待ちして……おりました……」

 秋成は微かに笑い、ゆっくりと鶴子の傍に座る。手がそっと差し出される。

 「また震えている。……まだ、辛いか?」

 その問いに、鶴子は唇を噛み、首を横に振った。

 「いえ……もう慣れました……」

 「そうか。」

 秋成の目が、深い哀しみを帯びる。その眼差しに、鶴子は思わず口を開く。

 「……でも、浅川様のお言葉だけが……支えでございました。」

 秋成は驚いたように一瞬目を見開き、やがて小さく頷く。

 「……そうか。なら良かった。」

 その声を聞くだけで、鶴子の胸はじんわりと温かさで満たされていった。


 夏が深まり、夕霧町の路地裏に熱気が籠る。桜屋の廊下には汗と白粉が入り混じった匂いが漂い、うだるような空気の中で、鶴子は黙々と次の客を迎える準備をしていた。

 「おい、新入り。早くしな。」

 声を荒げたのは、同じ置屋の古株・お艶。些細なことで鶴子を睨みつけ、何かと嫌味を言ってくるのが常だった。

 「はい……申し訳ございません。」

 鶴子は深く頭を下げ、目を伏せる。その胸中に渦巻くのは、怒りとも言えぬ鈍い苛立ち――けれど、千代の言葉が頭をよぎる。

 (「耐えるんだよ。今は……ね。」)

 だがその千代も、最近は体調を崩して寝込むことが増えた。かつての頼もしさは影を潜め、顔色は日に日に青白さを増している。

 「……鶴子。あんた……どうしたいのさ。」

 ある夜、寝床で千代がぽつりと漏らした。天井の薄明かりをぼんやりと見上げながら、鶴子は答えに詰まった。やっぱり、美しいものは壊れやすい。

 「……私……」

 言葉が出ない。ただ、あの人の声、あの人の眼差しが心の中に浮かんでくる。

 ――秋成様。

 翌夜、秋成はふいに桜屋に現れた。蒸し暑い夜気の中、あの落ち着いた声が響く。

 「久しいな。」

 鶴子は顔を伏せながらも、頬が熱を帯びていくのを感じる。

 「……はい。お待ちしておりました……」

 秋成は静かに酒を口に運び、ふと視線を外の夜空に投げた。

 「……ここの外、見たことはあるか?」

 鶴子はきょとんとし、首を横に振る。

 「文明開化の波は、思ったよりも速い。街は変わり続けている。……けれど、ここは変わらない。」

 その言葉が、胸に鋭く突き刺さる。鶴子は思わず問うた。

 「……外の世界は、そんなに……自由なのでございますか?」

 秋成はしばし黙し、やがて静かに答える。

 「自由か……そうだな、少なくとも自分で選べる世界だ。」

 その言葉が、まるで遠い響きのように耳に残る。自分で選ぶ――鶴子には、それが夢のまた夢のように思えた。

 「……浅川様は……どうして、ここに……何度も……」

 問うと、秋成は一瞬だけ目を伏せ、ふっと笑った。

 「理由なんて……君にはまだ、言えない。」

 それでもその眼差しは、何よりも誠実だった。

 秋成が去った後、鶴子は独りきりの部屋でひとつ深く息をついた。蝋燭の明かりが揺らめく中、胸の奥でかすかに芽吹くものがあった。

 「鶴子……お前、ここを出たいと思ったことは?」

 彼の声は、思っていたよりもずっと低く、真っ直ぐだった。


 鶴子は、少しだけ顔を背けた。

 「……あります。でも……」

 唇が震える。心は叫んでいるのに、言葉にするにはあまりにも重い。


 「でも?」と、秋成が促す。


 「私が逃げても……また、誰かが同じ目に遭うだけじゃないかって。そう思ったら、怖くて……」

 ようやく出た声は、かすれていた。

 秋成は目を伏せ、そして深く頷いた。

 「君が思うことは、正しい。でも……君が壊れてしまったら、誰も救えない」



 「私は……」


 一度、言葉を飲み込む。

 だが、すぐにもう一度、強く言った。


 「私は……もう、誰のものでもありません」


 その瞬間、秋成が鶴子の前に証文と一冊の写しを差し出した。


 「君の借金は、これで帳消しになる。そしてこれは――政府の闇を暴く記録だ。おかみや志乃が手を出せない“盾”になる」

秋成はそう言って、静かに立ち上がり「また会おう。時間だ。」と姿を消した。

 鶴子は、それらを握りしめた。

 秋が深まり、桜屋の座敷にも涼風が忍び込むようになった。千代は床に伏す時間が増え、鶴子が彼女の世話をすることが日常になっていた。

 「……あんたは……ここに染まっちゃだめだよ。」

 寝台で蒼白な顔を向ける千代が、鶴子の手をそっと握った。その掌は異様なまでに冷たかった。

 「……千代姐さん……」

 鶴子はうつむき、胸がきしむ音を聞くような思いで口を噤んだ。


そして鶴子は、千代の最後の言葉を思い出し、裏口から逃げ出した。

だが、角を三つ曲がったその先――小舟の待つ川辺に辿り着く直前、突如、数名の男たちに取り囲まれる。志乃おかみに通じていたのは、他ならぬお艶であった。


 「……ごめんね、鶴子。あんたには、まだ似合わない夢だったよ。」


 その瞬間、鶴子の心のなかで、何かが静かに軋んだ。

 逃亡の計画は、あまりにもあっけなく潰された。

 川辺の小舟に辿り着く寸前、鶴子は志乃の差し金によって送り込まれた男たちに取り囲まれた。お艶がその陰で、どこか寂しげに呟いた言葉――「あんたには、まだ似合わない夢だったよ」が、いつまでも耳の奥に残る。

 ちょうどその時、秋成は桜屋へ向かって歩いてくる。すると、この光景を見て、驚いたようにこちらへ近づいてくる。

「誰が…密告したんだ…」

 秋成が声を押し殺し、唇を噛む。襖の向こうには、すでに目を光らせた番頭が立ち尽くしていた。鶴子の背筋が凍りつく。

 「申し訳……ありません……!」

 深々と頭を下げる鶴子の肩を、秋成がそっと支えた。その手は、これまで触れたどの客のものよりも熱かった。

 「責任は俺が取る。」

 秋成の言葉に、鶴子は瞠目する。

 「……だめです! あなたが……あなたまで……」

 声を震わせる鶴子に、秋成は真っ直ぐに目を合わせた。

 「鶴子。君はもう、ここにいるべき人間じゃない。俺は……必ず迎えに来る。」

 その言葉を残し、秋成は静かに立ち上がった。その背中が襖の向こうに消えるまで、鶴子は何も言えなかった。ただ、胸の奥で熱い何かが崩れ落ちるのを感じていた。

 ――あの人は、裏切らなかった。

 それからの日々、鶴子は深く考えた。罰は重く、自らの存在がますます「商品」として扱われる現実が襲いかかる。だが、千代の声が何度も耳に響く。

 「逃げな……」

 けれど鶴子は、ある夜、独り言のようにつぶやいた。

 「私は……ここで生き抜く。」

 誰もが諦める場所で、なおも立ち続けること。それこそが、自分の「抗い」なのだと。あの人が私を迎えに来てくれるから。私はここで待つ。例え貴方が来ないとしても…あなたを思えば、何だって出来るから。


 あの夜から、鶴子は座敷に閉じ込められ、監視つきの生活を余儀なくされた。志乃は一言も責めず、ただ静かにこう言った。

 「……夢を見たら、次はもっと苦しむよ。」

 それは同情でも、怒りでもない。冷たい現実の突きつけだった。


 秋成が責任を取ると告げて去ってから、数日が過ぎた。

 その間、鶴子の心にはさまざまな声が渦巻いた。

 (私が逃げようとしたせいで、あの人に迷惑がかかったのではないか)

 (このまま待っていれば、本当に迎えが来るのか?)

 (そもそも……秋成様は、本当に信じていい人なのか?)


 信じたい気持ちと、裏切られたくない怖さが、胸の奥で綱引きをしていた。



 その晩、鶴子は布団のなかでじっと天井を見つめていた。

 涙はもう流れなかった。ただ、心が凪いでいた。

 (……私は、どうなりたいんだろう)

 (ここで、壊れていくのを受け入れるのか……それとも)

 そして――


 季節は巡り、春――。

 桜が咲き乱れるなか、鶴子は秋成から手渡された封筒を握りしめていた。それは、彼女の借金全額を肩代わりする証文。そして、「明治政府の裏金の記録」が綴られた小冊子の写し。


 「この書付があれば、おまえは、誰のものでもない。」


 秋成は静かに言った。



 桜が満開のその日、桜屋の座敷に現れた新たな客。その影を見た瞬間、鶴子の胸ははやる。

 「……秋成さん……!」

 声を上げると同時に、抑えきれぬ涙が頬を伝う。秋成は、静かに微笑んで言った。

 「遅くなったな。すまない。」

 その瞬間、鶴子は迷わず秋成の胸に飛び込み、幼子のように泣きじゃくった。

 「……やっと……会えましたね……!」


「君の為だ。1人でも救われれば、俺はそれでいい。」

秋成は鶴子を優しく抱きしめ、微笑んだ。

鶴子の背中に手を当てたまま、秋成はわずかに目を伏せた。こんなにも彼女の熱に動揺する自分が、少しだけ情けなかった。

「…でも、何故そんなに、私の事を気にかけてくれるのですか?」

鶴子は秋成の顔を見て言った。鶴子にとっても最初はただの客に過ぎないように見えた。だが、あまりにも秋成の行動は、ただの客には見えなかったのだ。

「俺は内務省に所属する役人であり、本来の目的は、花街を根絶すること、そして「私娼窟」による汚職を暴くことだった。」

「そっ…そうなんですね…内務省か…すごい」

「俺も最初は調査のつもりで桜屋へ来ていた。お前と話したのも。だが、お前と話すうちに、なんだかまた来たくなってな。」

少しだけ、秋成の人間味が見えた気がした。

 ……「感情を持てば、壊れる」と。

 それでも、胸の内に残る灯火は、消えようとしなかった。  秋成が再び現れるのは、数日後のことだった。

 その日、桜屋の奥座敷には珍しく涼やかな風が通り抜け、障子の隙間から差し込む夕陽が鶴子の横顔を橙に染めた。

  秋成の声が、静かに届く。  その瞬間、鶴子は微かに顔を上げた。今や仮面を被ることにも慣れ、日々を無感動にこなしていた彼女が、ただ一人、心を許せる相手――それが秋成だった。

 「……お変わりございませんか」  

「君は、少し痩せたように見える」  そう言って差し出された手は、相変わらず温かくも冷たくもない。ただ、確かにそこに在るだけの存在。

 その夜、秋成はふと、こんなことを口にした。  「君を、ここから連れ出すことができたら……どうする?」  

鶴子は一瞬、耳を疑った。  

「……それは……夢物語でございます」 

 「そうかもしれない。でも、可能性があるとしたら?」  秋成の声は本気だった。  鶴子は戸惑い、そして心の奥底で疼く希望を押し殺すように微笑んだ。  

「……いけません。わたしは、ここで生きると決めました。そうでなければ、壊れてしまいます…」  それでも秋成は言った。  

「壊れたとしても、もう一度、始められる。君の名が“鶴”であるのなら……飛べるはずだ」

 その言葉が、胸の奥で何かを震わせた。  (わたしは、飛べる……?)  けれども現実は残酷で、桜屋には見張りもある。逃げ出した遊女は捕らえられ、時に見せしめとして打たれるのも知っていた。 

「…秋成さんは…私を連れて行って…くれるのですね」

「ああ。君の未来が輝かしいものになるのなら、俺はそうしたい。…俺では駄目か…?」

「…!いえ、そんな…!私は…私は、秋成さんと居られるのなら…」

秋成は、微笑みながら頷いた。

「…そうか。なら…今度こそ、本当に逃げ出そう。俺はもう、準備は出来ている。」

「…はい。私もです。」

2人は手を重ね、戸を開けた。


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