テラーノベル
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式の日がやってきた。 空は曇り、風は止み、屋敷の中は異様なほどに静かだった。ルネの部屋には、花が一輪だけ飾られていた。 深紅の薔薇。 花弁のひとつひとつが、どこか血の色をしていた。
セルジュは白衣ではなく、 黒と金の刺繍が施された、まるで神父のような長衣を纏っていた。
「……美しいよ、ルネ。 この式が終われば、君はもう、何にも傷つけられることはない」
ルネは静かに頷いた。 けれど、その瞳には、どこか哀しい光が宿っていた。
(やっと、終わるのだ――この愛が)
セルジュの私室。
そこに運び込まれた特別な台座。
半透明の箱の中には、特殊な薬液。
「永遠の眠り」を与えるはずの、冷たくも甘い液体。
ルネは衣を脱ぎ、セルジュの目の前で、 その白い身体をそっと横たえた。
「セルジュ様……」
「……ん?」
「あなたに壊されるのは、幸せでした。 でももう、これ以上は、“生きてる”とは言えない……」
セルジュが目を見開いた瞬間、 ルネは隠していた細いナイフを、自らの胸に突き立てた。
「っ……!」
刹那、血が噴き出した。
ルネの手は震えながらも、確かにその刃を深く押し込んだ。 そして、微笑んだ。
「これで……僕は、本当にあなたのものです……」
セルジュは叫び声とともに駆け寄った。
ルネの身体を抱きしめる。
温かい血が、彼の腕を濡らす。
「なぜ……! なぜ、こんな……!!」
「あなたに殺されるより、 僕の意思で“愛され死ぬ”方が、ずっと幸せです……」
セルジュは震える指で、ルネの顔を撫でた。 その瞳は、涙で濡れていた。
「……許してくれ……僕は、君を……完成させたかっただけなのに……!」
「……完成してます……だって…… あなたの中で、ずっと、僕は生き続けるでしょう……?」
そして、セルジュはそっと、ルネの唇に最後のキスを落とした。
それは、彼の人生で最も長い、最も熱い、そして、最も悲しい口づけだった。
ルネの息が止まったのは、その直後だった。
屋敷はその夜、静かに火に包まれた。
誰が火を放ったのかは、誰にもわからなかった。 けれど、誰も叫ばなかった。 誰も逃げなかった。
その部屋の中心には、抱き合ったまま燃え尽きる二つの影があったという。
そして、ひとりの医師と、ひとりの青年の物語は―― 赤いアリアの旋律と共に、静かに幕を閉じた。
セルジュの母校――
修道院の朝は、いつもと同じように始まった。
薄青の空、古い石畳、冷えた空気の中で祈りを捧げる声。
その日、掃除当番だった若い修道女が、書庫の奥で見つけたのは――
ひとつの白い封筒だった。
埃にまみれた古い机。
引き出しの底に、封をされたまま、無言でそこに置かれていた。
手紙の封には差出人の名も宛名もなかった。
だが、封筒の端にはうっすらと、乾いた赤黒い指の跡がついていた。
中身を確認するために修道女が破いた瞬間、ふわりとレースの布片がこぼれた。
細い金糸で刺繍された、白い布。
指でなぞると、どこか衣装の裾のようでもあり、**誰かの“思い出の一部”**のようでもあった。
手紙は、一枚の古びた便箋だった。
インクの色は褪せ、筆跡は端整だったが、どこか震えていた。
「この布は、僕の身体から離れても、きっと彼を覚えていてくれる。
彼の手が縫った。彼の言葉が染みた。
そして、彼の眼差しが、僕を**“美しい”と言ってくれた記憶”**だ。
だから、どうか焼いてほしい。
僕という存在が、この世に散っても、
彼の言葉だけは、灰となって天に昇るように。
彼の名は書けない。けれど、僕の愛は、もう充分に“作品”になった。
それで、いい。」
その手紙を読んだ修道女は、胸の奥がきゅうと締めつけられるのを感じた。
誰のものか、どんな愛だったのか――
それはもう知る術もなかった。
ただ一つだけ確かだったのは、
その封筒の端ににじんだ指跡が、どこか“愛しさ”を孕んでいたこと。
(これは、誰かが自分をすべて捧げた記録)
(そして、もう戻ってこない声の痕跡)
彼女は黙って手紙を畳み、レースの布をそっと包み直した。
そして、修道院の裏にある小さな焚き火場へ向かい、火を入れる。
白い布はやがて焦げ、金糸がくすぶり、
煙のように立ち上る香りの中で、手紙の文字も灰に還っていった。
誰も知らない、誰にも知られない――
それでも、確かに存在した“赤いアリア”の、最後の名残。
その夜、修道女は眠る前に短い祈りを捧げた。
「あなたの愛が、どうか静かに還りますように。
白い布と一緒に、誰かの心を温めてくれますように」
その祈りは、小さな部屋の中で静かに響いた。
まるで、失われたアリアの最後の一節のように。
──静かで、やさしく、そして誰よりも哀しかった。
コメント
2件
あああ最高です… 言葉選びが天才的すぎてほんとに綺麗でした、!!