百子は額を流れる汗もそのままに、足早に取引先へと向かう。取引先の会社には約束の時間より30分早く着くように会社を出たものの、電車が車両点検や前の電車がつかえたために遅延してしまい、残すところ15分となってしまったのだ。早歩きしなくても間に合うといえば間に合う距離ではあるものの、目的地のトイレに着いてから身だしなみをもう一度整えたかった百子は、何がなんでも早めに着く必要があったのだ。
(もー! 何で今日に限って電車が遅延するのよ!)
内心で自分ではどうしょうもないことを毒づきながら大股で歩く百子の足音はいつもよりも大きく聞こえるのも気のせいではないだろう。パンプスを履いているから尚更である。
(しかも暑いし汗かくしベタベタするし! 本当に最悪よ……)
今朝はバケツをひっくり返したような雨が襲い、その後に太陽が燦々と輝いて不快な湿気を助長させており、出勤時の比較的涼しいであろう時ですらベッタリと肌にまとわりつく湿気とジリジリと肌を焼く直射日光と照り返しのコンボに辟易していた。そして今は14時に近いためにさらに不快指数が鰻登りになって、百子の苛々は頂点に来ていた。電車の遅延でさらにそれが増しており、少しでも気を鎮めようとして百子は深く深呼吸を何度か行った。吸う息が生温くてあまり効果は無いと思われたが、いくばくか心が落ち着いたので、彼女はさらに速度を上げて歩道をノロノロと走る自転車を追い越した。
(……ん?)
百子はふとそこで違和感を覚え、敢えて歩く速度を落として肩に掛けている鞄を手に持って取っ手をぎゅっと握る。先程から百子を追い越す自転車は乗り手が高齢者でもスピードが比較的速かったが、百子が追い越した自転車の乗り手はまだ若い男性だった。そして彼の視線の先にいるのは、鞄を車道側に掛けて持っている主婦らしき女性の後ろ姿だった。
(まさか……!)
百子の嫌な予感は的中した。その自転車は女性の近くまで来るとスピードを増して、乗り手が彼女の鞄を奪おうとしたのである。しかし女性も抵抗して鞄を必死で掴むので一時膠着してしまう。それでも自転車の速度と男性の力には敵わないようで、彼女はずるずると引きずられてしまっていた。
「てめえ! ひったくりか! やめろ!」
百子は通行人がぎょっとしてこちらを見るのを無視して咄嗟に大声で叫び、パンプスを履いていることを忘れて走り出す。そして無我夢中で手に持ってた鞄を自転車の乗り手目掛けてぶん投げた。
本革でしっかりした造りの、書類やパソコンが入っているその鞄は自転車の男性の後頭部にぶつかり、女性の鞄が男性の手から離れる。その直後に金属が勢い良く叩きつけられる音と、鈍くこもった音がして辺りは一時騒然となった。百子はひったくり犯がバランスを崩して女性の鞄を手放すことを狙って鞄を思い切り投げたのに、まさか転倒するほどの衝撃だったとは考慮の外だったために、みるみる顔を青ざめさせていたが、一連の動向を見ていた周りの通行人達がひったくり犯の腕を押さえつけたり、警察に通報したりして助けてくれたので、百子は鞄を抱えて座り込んでいる女性の前にしゃがんで声を掛けた。
「あの、お怪我はありませんか」
声を掛けられて女性は顔を上げ、百子は僅かに目を見開く。恐ろしい目に合ったにも関わらず、その双眸に恐怖が見当たらなかったからだ。百子は不躾だとは思ったが、ほんの少しだけ力強さが見られるその瞳をした彼女をしげしげと見つめる。顎がほっそりとして、鼻梁の通った顔立ちをしている。頭頂に少しだけ銀が混じっているものの、髪は艶があり美しく、クリーム色の肌にはシミがあまり見当たらずに若々しく見えた。
「ええ……大丈夫よ。鞄の持ち手でちょっと手を擦りむいたくらい。そんなことよりも、貴女……ありがとう。貴女がいなかったら私はもっと怪我をして、鞄を盗られていたわ。貴女、勇敢なのね」
百子は無言で首を振る。あの時は体が勝手に動いただけであり、百子が勝手にやったことだからだ。
「いえ、そんな……それよりも痛かったですよね……手を見せてもらえませんか?」
女性は逡巡していたが、両手をおずおずと差し出す。ややカサついているそれは鞄の持ち手を握っていた場所が赤くなっており、皮も少し剥けていたのを見て百子は眉を下げて唇を噛む。
百子は落ちている鞄を拾い、中から絆創膏を取り出して、絆創膏のパッケージを素早く破る。
「いいのよ、かすり傷程度なんだから……」
「だめですよ。かすり傷だって傷なんですから。もっとご自分を労って下さい」
百子は素早く皮が剥けている箇所に絆創膏を貼り、女性に微笑みかける。
「ありがとう……本当に。お礼をしたいから今から付き合って下さる? それか連絡先を聞きたいわ」
驚いたようなその顔に既視感を覚えた百子は口を開こうとしたが、スマホが震えているのを感じ取ってぎくりとする。
(あ! 取引先行かないとなのに!)
「え、えっと、大したことをしておりませんので! 私は急用があるので失礼します! どうぞお大事に!」
深々と一礼した百子は、女性が自分を呼び止める声が背中を叩いたがそれを振り切って取引先の会社まで全速力で駆けた。
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