テラーノベル
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勢いまかせに少女に突進していった男。一刻も早くこの場から逃げ出すことに必死で、周囲の人間たちは障害物くらいにしか思っていないのだろう。さきほど老人を転ばせた時だって気にする素振りすら見せなかった。自分の行手を阻む邪魔者。この少女のことだって同じように考えているはず。
体格差からしても少女が突き飛ばされてしまうだろうことは明白だった。老人はたまたま怪我をしなかったから良かったものの……今回もその幸運が続くとは限らない。だから俺は叫んだのだ。少女が自分で逃げてくれることに賭けて。
ダンっという大きな音がロビーに響く。俺は目の前で起きた出来事が信じられなかった。
小柄な少女が自分の倍はあるだろう中年男性を投げ飛ばしたのだ。まるで彼らの周りだけ重力が消失したかのようだった。男の体が綺麗に弧を描きながら宙を舞ったかと思えば、次の瞬間には床に叩きつけられていた。その衝撃でバッグは男の手から離れ、床を転がっていった。
「この程度の者を捕まえるのにどれだけ時間をかけてるんだか……」
少女が何か喋っている。内容までは聞こえなかったけど、その言葉は俺の方を見ながら発せられたような気がした。
投げ飛ばされた男は気を失ってしまったのか、床に寝そべった状態からぴくりとも動かない。男が投げ飛ばされる直前、少女から赤色の光が発せられるのを見た。もしかしたらこの少女は――――
「はい、これ」
「えっ……? あっ……と!?」
少女が俺に向かって何かを投げてきた。反射的にそれを受け取る。腕の中に収まっていたのはピンク色のバッグだった。床に転がっていたのを少女が拾ってくれたのだ。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
この少女は俺が男を追っていた理由を知っていたのか。それじゃあ……男の前に立ちはだかったのは偶然ではなく、最初から俺を手助けするためだった……?
「河合様!!」
「美作さん……」
人だかりを掻き分けながら美作が俺の元へ駆け寄ってきた。バッグを無くした女性たちも一緒だ。
「大丈夫ですか? 怪我などはしておられませんね」
「俺はなんともないけど……あっ、お姉さんこれ……」
ピンクのバッグを女性に手渡した。美作さんがある程度状況説明をしてくれていたみたいだけど、それでも俺が本当にバッグを取り返してくるとは期待していなかったのだろう、表情は驚きを隠せていなかった。
「中身を見てみてくれる? そのバッグが本当にお姉さんの物かどうか確認して欲しいんだけど……」
俺の言葉に女性は頷くと、バッグの中身を改めた。俺と美作さんはその様子を見守る。バッグの中には財布と小さめのポーチ……そして家のものらしき鍵が出てくる。女性から安堵の溜息がこぼれた。
「私の物で間違いありません。無くなった物もないようです」
女性は念の為にと、財布から免許証を取り出して俺たちに見せてくれた。自分のバッグであることの証明だそうだ。
気を失って伸びている男のもとには、いつの間にか警備員らしき人たちが集まっていた。後のことは彼らに任せておけば問題ないだろう。
「バッグを取り返してくれて、本当にありがとうございました」
「いいえ。俺は結局何の役にも立てなくて……お礼ならあの女の子に言ってあげて下さい」
男を捕まえてバッグを取り返したの俺ではない。例の少女は俺たちから少し離れた場所にいた。腕組みをしながらこちらの様子を窺っているようだ。
「八名木さん、あなたもこちらに来てください」
美作が少女に呼びかけた。八名木さんって……それがあの少女の名前か。美作は少女の事を知っている。ふたりは知り合いなのか。
美作に呼ばれた少女は渋々といった風にこちらに向かって歩きだす。あまりジロジロと見るのもどうかと思ったが、成人男性を軽々と投げ飛ばした女の子だ。どうしても視線が吸い寄せられてしまう。
身長は俺の肩より下くらい。真っ直ぐで綺麗な黒髪が足を前に踏み出すたびに揺れている。服装は膝丈ほどのワンピースにヒール付きのサンダル。女の子らしくて可愛い格好だと思う。容姿だけならとても男を投げ飛ばすような豪傑には見えない。
女性たちは少女……八名木にも礼を伝えると、手にしていた紙袋を手渡した。最後にもう一度俺にもお礼を言って、その後は警備員たちと一緒にこの場を後にした。バッグは無事に返ってきたけど、色々説明とかしなきゃいけないんだろうな。
男が連れていかれたので、周囲にできていた人集りも流れていった。
「……なんか貰っちゃった」
「バッグのお礼みたいだね。有り難く受け取っておきなよ。あのお姉さんたち本当に困ってたから、嬉しかったんだろうね」
少女が渡されていた紙袋。袋にはお菓子屋のロゴが印刷されている。きっとお土産として購入していたものだろう。
「だったら、はい」
「えっ?」
少女は貰ったお礼を俺に差し出した。目の前で揺れている紙袋を、俺は呆然と見つめてしまう。
「先に泥棒を追いかけたのはアンタでしょ。私は良いところを横取りしただけ。だからこれはアンタが受け取りなさい」
礼を受け取る権利は俺にあるのだと、少女は譲らない。俺としてはあんなにあっさりと男を捕まえた彼女が一番の功労者だと思うけど、当の本人の考えは違うようだ。意地を張って突き返すのもあれなので、大人しく従うことにした。
「あっ、そう。うん、ありがとう」
「八名木さん!!!! こんなところに……やっと見つけた」
俺と少女の会話を遮ったのは知らない男の声だった。声のした方向に俺と少女は同時に視線を向けた。
スーツを着た若い男性が汗だくで駆け寄ってくる。少女の名前を呼んでいたということは、美作と同じで知り合いみたいけど……
「百瀬さん……子守りくらいしっかり出来ないと、この先が思いやられますね……」
「……美作さん!! も、申し訳ありません」
少女よりも先に男性に話しかけたのは美作だった。彼は少女の事も知っていた風だったし……彼とも知り合いなのか。
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