テラーノベル
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「勇斗?」
すぐ近くに現れた恋人の顔がいつもと違う。
問いかけにも返事をせず、熱に浮かされたような、それでいて獲物を捕らえるようなどこか鋭さの残る瞳で、追い詰めていく。
「え、なになになにこわいこわいこわい」
布の擦れる音がやけに部屋に響いている。
身体半分まで迫り、思わずじりじりと肘で這いながら後退していく。
壁際に追いやられたところで、逃げられないことを悟った。
迫り来る顔に、あっこれ例のあれか??と察した。
…改めて見ると顔がかっこいい。
反射的に目を閉じると唇にふに、と柔らかい感触がある。
いつものように啄むように吸う。
ただ違うのは、いつも以上にしつこい。
某掃除機のように吸い取られそうだと馬鹿なことを考えるほどに。
そして食いつくように頬、首、鎖骨と南下していき、何度も落とされるそれに、反射的に呻いた。
腰を指先の線を残しながら意味ありげに撫でられると、自ずと身体はゾクゾクと震えた。
腰をなぞった手は肌蹴た服の間に差し込み、服 を押し退けながら顔を埋められる。
…やばい、脱がされてる!
警鐘を鳴らしつつも唾を飲みこむしか手段が見つからなかった。
まるで解くのは野暮だといわんばかりに。
顕になった肩が、今起こっていることをまざまざと見せつけてくる。
そういう雰囲気。
俗に言うそういうことだ。
何も楽しさのかけらもないだろう鎖骨と胸元に柔らかい小さな唇の感触がリップ音を響かせて、ピリッとした痛みを伴いながら温度を残していく。
緊張なのかくすぐったさの我慢なのか、はあ、と溜めていた息をはいた。
その息はどこか上擦っている。
…ん?俺が食われる側?
いや、別にいいけど。
逆に俺は絶対無理って思ってたから。
というか、あまり理解してない。
ぐっと腕を下に押され、上半身を倒される。
仰向けに向かい合わせになり、こんな時なのにとあるライブの時を思い出していた。
支える必要がなくなりフリーになった片手の手首を顔の横で縫い付けられる。
…あっもうこれ、終わった。
逃げらんないわ。
服の捲れで現れた紅一点を持つ丘を、少しざらついた掌が押し回す。
耳の先をソフトで熱すぎる吐息と鋭い歯の先が弄ぶ。
思わず膝同士を擦り合わせ、熱くなる何かを制御しようとした。
その時が近づくのを感じる度、心臓が高鳴ってくる。
万年冷え性な手足の指先が、熱を持ち始める。
未知すぎて恐怖すら感じる。
こういうのは目を閉じてしまえば案外一瞬なんじゃないか?
ぐっと目を瞑ってその時を待った。
しかし、一瞬間があって起ったのは…佐野の大爆笑だった。
「ちょ、お前、まじでさぁ!!」
ゲラゲラ笑う佐野に恐る恐る目を開けると、佐野は笑い転げていた。絵に描いたように。
涙を拭きながらこんなことを言う。
「その小鳥みたいな口やめろお前!」
「え、これ?」
また口をきゅっと結んでみせると、また爆発的に笑った。
さっきのドキドキを返してほしい。
思わず呆れを通り越して笑ってしまった。
「やだぁ〜何その口!笑っちゃったじゃん」
「しらねー笑…あーあ、拍子抜けした」
「それこっちのセリフだよ」
開けた2つのボタンを閉じて裾をぴっぴっと伸ばし、腹部を覆い隠す。
佐野が徐に膝を立てて、「ごめん驚かして」と言いながら頭をくしゃっと撫でて立ち上がった。
え、と声が出てしまった。
まさか、そのまま行くのかこいつ。
あんだけムードを作っておいて。
もう触られた体はじんじんとした痛みを伴っているというのに。
「えっ、本気?」
「もう寝よ。風呂沸かさないと。給湯器は…」
「勇斗!」
咄嗟にバッと手の裾を掴んでしまった。
驚いたように佐野が振り返る。
…ちょっと、自分から誘ってるみたいで怖い。
これでこいつの気まぐれで、断られたら悲しい。
元から遊びだって滅多に自分から誘うことはしない。
適当な言葉を探ったが、どうも頭が回らない。
まだ痺れてる感覚がある。
唾を飲み込んで、勇気を出しきれないまま口を開いた。
「…そのー、さ。これで放置はなくない…?続きとか…ない感じ?」
「…続き?」
意外そうに聞き返す佐野に、こくりと頷いた。
ああ何言ってんだ俺。
正気に戻りそうになるのを感じて、手を離した。
「いや…なんでもない」
足を抱えて目を逸らした。
ああ、ひどく滑稽に思える。
聞き返されちゃったよ。
ずん、と落ち込んで顔を埋めると、不意に肩をぐいと掴まれた。
驚いて見ると、佐野の顔が至近距離にあった。
一気に血圧が上がる。
真面目な顔になっていた。
「…無理してない?」
「俺がすると思う?」
「うん。…もしかして怖いのかなーって。俺とするのまだ嫌かなと思って…」
少し目線を外して、子供のように口を少し尖らせる。
なんかその顔が今は可愛くて仕方なくて、思わず吹き出した。
「別にいつかはするんだから。覚悟は決めるし」
そう口にすると、佐野はじっと吉田を見つめて口を開いた。
「その口やめて」
「無理だよどうすりゃいいんだよ」
必死に紡いだ言葉を消され、うんざりしながらそう答えると、佐野が少し考えてこう言った。
「仁人さ、口開けてみ?」
「あ」
大口を開けると「そうじゃねえよ」と笑って頭を叩かれる。
「少しだけ。軽くでいいから」
「キスできないじゃん」
「できるできる。いいからやって」
「…」
しぶしぶ佐野の言う通り、口を軽く当てた。
「そう、そんくらい」
そう言ってまた佐野の顔が近づく。
目を閉じて、その口を迎え撃つ。
その時、口の中にぬるりと別の感触があった。
「へぁ!?」
大声を出して飛び退いたが、顔の前にやりかけた手と首の後ろを捉えられて身動きが取れなくなってしまった。
歯列をなぞり、中の自分の舌を絡めてくる。
口全体を噛まれるように、唇も時々噛みながら溶かしていく。
…これがキスってどうかしてるだろ。
概念変わりすぎじゃね!?
そう突っ込む頭はだんだん痺れてくる。
擦り合わせた膝は脚気の診断みたいに跳ねる。
その膝もとある邪魔によって割れ、足の間をさらなる劇薬が身体を責め込んだ。
首に回された手が、頭を逆撫でする。
静かに後ろに倒される。
手首を掴まれてまた床に貼り付けられる。
水音が響く。
喉の奥から、妙な声が漏れ出る。
息すらもままならなくて酸欠になりそうになる。
…確か、こういう時は鼻で息するとかなんかあったなあ。
そう思い出して鼻から息を吸おうとするが、佐野の香りが鼻腔を刺激して余計に脳味噌が溶けていく。
逆効果じゃねえか、と内心叫んだ。
そろそろ死人が出そう、と感じた頃合いで名残惜しげに糸を引いて終わった。
は、と呼吸をして、勇斗がこちらの唇を拭いながら
「初めてにしちゃ上手いじゃん」
と余計なひと言を添えた。
それに突っ込む余裕がなかったのは、長い窒息による息切れではない。
いまだ不規則に整わない呼吸のせいである。
「…勇斗」
「ん?」
「何がとは言わないけど…当たって、ない?」
遠慮がちに申し出ると、ぐっと押し上げられて思わず反射的に息を飲み込んだ。
その声にならない声の甲高さに慌てて口を塞ぐ。
到底自分の声とは思えない生娘のような声に、ゾッとする体と裏腹にカッと顔が熱を持つ。
「どうしたん仁人」
「や…図らずも、っていうか」
「じゃあ口押さえなくていいっしょ、ほら取りなよ」
「いいって、やだやだ絶対やだ!」
「なんでやねんお前!さっきの威勢はどうしたよ!つか離れんな!」
触れないように足でジリジリと避けながら顔を隠そうと押さえていた手の手首を掴む佐野との攻防戦で子どものように駄々を捏ねた。
「恥ずい!!しんどいて!しんどい!」
「しんどくねえよ!そういうもんだろ!…お前なんか力強くなってね!?ああもう!」
佐野が痺れを切らしたような声を上げると、突然身体を抱え込まれた。
背中と膝裏を抱え込まれ、ふわっと浮く。
今度は抵抗する暇もなかった。
驚いて言葉に詰まる。
リビングを抜け、寝室に入るとベッドの上に投げ出される。
そのまま腰の上に馬乗りになると、有無を言わさずベルトをカチャカチャとはずしにかかった。
慌てて手の甲を押さえつけて止めようとするが一切効かない。
「いやいやいや何してんの何してんの」
「服脱がないと汚れるじゃん」
「服ぐらい自分で脱げるわ!しかもよりによって下かよ!!まじで恥ずい!」
また顔を覆うように上げた両手を掴んで顔の横にばん、と押さえつけられた。
磔にされたように身動きが取れなくなり、初めて勇斗の顔を見た。
あることに気がついて、ハッと息を飲んだ。
いつのまにか、髪が顔にうっすらとした汗でへばりついている。
湯気が出そうなくらい熱い息を感じた。
真剣に見つめる熱視線に捉えられ動けなくなる。
「あんま恥ずかしがると余計に我慢出来なくなるから」
手貸してみ、と押さえつけていた右の手首を持ち上げ、手首から手の甲にするすると移動させると、佐野の胸元に重ねられた。
思わず、目を見開いた。
手から熱い体温と共に力強く波打つ鼓動が伝わる。
カッと顔が熱くなる。
勇斗が言いにくそうに口を尖らせながらごにょごにょと呟いた。
「……俺だってめちゃくちゃ緊張してんだよ……」
雷が落ちたような衝撃を受ける。
胸中に埋めつくされ蔓延る気持ちが思わず、ポロッともれた。
下腹部もきゅん、とときめいたのを感じて、服の裾を掴んだ。
「かわよ……」
そっぽを向く顔の顎を掴むと、びっくりしたように睫毛の長い大きな目がパッチリ開いた。
顎をそのままぐっと引っ張って、ひとつの目的地まで顔を近づけさせる。
唇が重なる。
さっきより心做しか、熱い気がする。
さっきの勇斗の真似をしてみるかと唇を少し先で噛んで見せて手を離す。
そのまま勇斗が頬から顬を掻き乱して食いついた。
いつの間にか外し終えたのかボタンは全部外れ、肌蹴たところから手を差し込んで早急に脱がされる。
肌に空気が冷たく触れた瞬間、現実を帯びてきた。
離れた唇が顕になった肩に吸い付き、首筋や胸元を辿る。
空いた片手は下腹をなぞり、下降していく。
擽ったくて勇斗の埋めた顔に顔を寄せて耐えた。
触れられる顕になった肌と上がる息に、だんだんとその『モード』に映って行くのが自分でもわかった。
顔を上げた勇斗が自分のTシャツを脱ぎ捨てて手をついた。
そして未体験の世界へ誘う合図かのように、その肉体美にシルバーのネックレスがぶら下がった。
ゆるゆると動く腰に押し込まれ引き摺られる。
中はさっきまでの緊張はどこへやらぐずぐずに受け入れて、涎を垂らしながら飲み込んでいた。
お願いして消灯してもらった暗がりの中で、相手の顔が浮かんで見える。
…どうしてそんなに苦しい顔をしているのか。
上がる息も声も殺すこともせず野放しにしているとふと頬を掌で捉えられる。
何十回目かのキスを重ねた後、流されないように枕を掴んでいた手を、勇斗の手の甲にやって自分の手に絡めさせ、ぎゅっと握った。
まだ解放しきれてない、熱っぽい視線が絡む。
…絶対、こいつ我慢してるだろ。
変な気を遣って。
勇斗の首を引き寄せて息を整えることもせず、
「勇斗の好きにしていいから」
と耳打ちした。
勇斗が頷くと、汗ばむ身体が密着した。
体全体を抱え込まれると身体の中に侵入したものが一気に奥まで突き抜ける感覚があった。
それが奥の突き当たりまで達すると目の前に星がチカチカとチラつく。
中を無理やりこじ開けたような痛みが、四方八方を塞がれたことでそれ以上の何かに塗り替えられていく。
2つの感情のうち、後者がだんだんと超えていく感覚に、頭の中は混乱していた。
はくはくと口を動かしていたからなのか、勇斗が心配そうに額を撫でて
「痛い?」
と聞いた。
汗でへばりついた前髪が勇斗の手によって掻き上げられる。
そんな簡単な3文字の問いに、咄嗟になぜか首を振ってしまった。
それを何か別のものが超えたのである。
「慣れてこ、まだ動かないから…」
頭を掻き撫でながら吐息混じりな声が耳に触れた。
身体がその形に適応してくるにつれ、如何なる形をしているのか型どられているような感覚に、身体を震わせた。
互いの息遣いが薄暗い空間に和音を重ねていく。
天井に浮かび上がるその絡まった息に、夢じゃないことを暗示されているように感じた。
…勇斗のが、自分の中に。
勇斗が自身の意思で、身体で、自分を求めている。
そう実感した時、それが実態を伴ってきた。
思わず身震いする。
それは向こうにも伝わったんだろう、急に呻き声を上げた。
「…、なんか、急に締まったんだけど」
「…や、あの……なんか」
口にするのもなと思いながらも口からポロッと溢れてしまった。
「なんか、すごいなって…勇斗ので、腹いっぱいになってんの…」
そう呟いた瞬間、身体が新たに突き上げられた感覚に思わず声を上げた。
「あ、え?…なんで?」
目の前に弾ける星に目をとられながら口走っていた。
「お前まじそういうのやめて…」
後頭部をぎゅっとホールドされながら耳元で囁かれる。
その刺激さえも今は猛毒のように感じた。
逃げたくても余計に力が強くなる,.
「あのさ…もう動いて良い?」
「え…ま、待って…俺、なんか、言った?」
思わず心配になって聞くと、よほど余裕が無いのか即座に首を振って否定された。
「もう動かないと、俺がやばい」
そう言うと間も無く体の中のそれは動き出した。
さっきより速く感じる。
まだ追いついてない身体にはあまりにも刺激が強かったのか、電流が全身を駆け巡った。
ぎゅっと綴じた瞼から生理的な轍が伝う感触があった。
小さな断続的な波に加え、定期的にくる大きな波に耐えきれず溺れたように呼吸が上手く出来なくなる。
呼吸になり得たものが、まるで自分の出しているものとは思えない声となって変わっていく。
体の奥から競り上がってくる波が近づくにつれ、この嘘みたいな現実に頭の中は混乱した。
快感に飲まれていく自分が信じられない。
というか息ができない。
思わず探って見つけた勇斗の手を握った。
「どしたの…、怖い…?」
甘すぎる声に何故かグッと喉が詰まった。
「仁人、こっち」
呼ばれて恐る恐る目を開けた。
曇ってよく見えなかった視界は、勇斗の熱い指先で明瞭になった。
…これが良くなかったらしい。
とんでもなく、甘くて蕩けそうなほど優しい勇斗の顔は目に毒すぎた。
そんな顔を見てしまったら、今まで終わりが怖くてずっと言えてなかった言葉が出てきそうになる。
俺もちょろいな、と悔しくなる。
でも、もうこの言葉しか持ち合わせていない。
「…、…て…」
「ん?」
口が滑った。
安直なのかな、俺って。
でも本心だし、もらってばかりだからいいよね?
「愛してる」
って、言っちゃったけど、いいよね?
思ったよりも辿々しくて、つっかえながらになったけど。
目をまんまるくしている。
そして、いつもの呆れた笑顔で目を細め、息混じりに、
「お前さあ…」
と呟いた。
頬に唇のあとを落とされ、耳元で囁かれる。
「俺も、大好き。愛してるよ、これからも…」
胸いっぱいに暑い温度を感じたのは重なった体温のせいだけなのか。
「手、貸して」
顔の横に上げた手の上から掌を重ねられる。
「怖かったら握ってて…俺を見てて」
心なしか、さっきまでのの恐怖心は消え去っていた。
もう行けるとこまで一緒に行きたいと思ってしまった。
恥ずかしさも、何もかもこの大きな想いの前ではどうでも良くなりそうだった。
そこからはもう記憶も理性も、何もかもを飛ばして、ただ勇斗とこの一瞬を堪能することだけを考えていた。
言葉がいらなくなったその空白の後、額に勇斗が労いなのか軽く唇を押し当てた。
…何今の。やばくない?
ぼんやりと、恍惚とした頭でそんな頭の悪い感想が浮かんだ。
そして、こんなことを聞くのだ。
「いける?」
その言葉に返す言葉を探す前に頷く。
それを受け取ったかのように腕を掴んでぐっと引き上げた。
膝の上に乗るようになると、勇斗が下から見上げるような形になる。
「近…」
思わず率直な感想を漏らすと、勇斗も
「多分お前こっちの方が好きだと思う」
なんということを返した。
顔を引き寄せられて唇を合わせる。
熱烈なそれも、今こうなった後では酷く些細なことだった。
寧ろ、たくさんこういうことできるのいいな、とすら思えた。
熱っぽい視線が絡む。
熱い指先が後ろの首筋を通り、わずかに襟足を乱した。
「仁人」
不意に名前を呼ばれる。
耳元で囁いた。
「もっとその可愛い声聞かして」
…俺今夜寝れんな、これ。
身体中に接吻を受けながら、そんなことを思った。
窓に光が差し込み始めた頃、ジャケットを羽織った。
全身鏡に映る自分を見て、まるで昨日の自分とはひどく違うように思えた。
なんだか、力が漲っている。
率直に言えばそんな感じだった。
不意に、ベッドからモゾモゾと動く音が聞こえて振り向いた。
「…もう時間?」
ほぼ開いてない瞳で、横たわったままそんなことを聞いてくる。
普段ならもっと回りくどい言い方できるだろう人が語彙力が弱まっているのを見て、無理して起きようとしてるのがわかる。
白い素肌が布団の中で見え隠れするのを見て、思わず唾を飲む。
「おはよ、仁ちゃん。もう出かける。仁人は寝てなよ、体きついっしょ」
そう言って顳顬あたりをわしゃわしゃと撫でると気持ち良さげに目を閉じて甘える。
「…てか…痛くない?腰いてーとか、ない?」
「うん…」
聞こえてるのか聞こえてはないのかわからない返事の仕方をした。
「じゃあ俺、そのまま帰るね。お邪魔しました」
その足で玄関に向かう。
スニーカーを履いて、ドアノブに手をかけた時。
「あー…勇斗」
突然真後ろで呼びかけられて、咄嗟に振り返った。
かけ布団を身に纏いながら目も開いてない顔で、だるそうに起きてきた。
手をひらひらと振ってこんなことを言うのだ。
「行ってらっしゃい…」
その言葉に、思わず目を見開いた。
胸の辺りが少し暖かくなった。
「行ってきます」
反射的にそう答えて部屋を飛び出していく。
意外と時間がない。
早朝の人気のない道の中駅まで走る。
顔は熱いままだった。
信号が丁度赤に変わり立ち止まって息を吐く。
ふと、自分の手を見つめた。
抱き締めた腕の中で眠る温かい体温と、無防備な寝顔を思い出す。
鼻腔をくすぐるシャンプーの香りが甦ってくる。
滑らかで柔らかい肌の感触も、手を繋ぐ強さと熱さも、鮮明に戻ってくる。
胸元に寄り添って眠る彼の顔を見て、髪の毛を指でなぞった。
…幸せだ。
率直にそう思った。
青信号に変わる。
『行ってらっしゃい』
不意に耳中に甦る。
腹の底から熱くなるのを感じた。
「よし」
一言気合いを入れるように声を上げると、さっきよりも軽やかに走り出した。
「…あーーーーーー」
勇斗が帰った後、へなへなと座り込んだ。
顔が熱すぎる。
「…いってらっしゃいは寝ぼけすぎだろ…」
正直、腰は痛かった。
頭も少しガンガンする。
結局寝不足だし、あれだけ揺さぶられたら脳味噌が地震を起こす。
でも、幸せな悩みでもあった。
風呂に入るかと立ち上がってふと、鏡が目に入る。
首から胸元の周辺が、赤い点で彩られている。
それはじん、と少し疼いた。
「…ふふ」
思わず含み笑いをした。
美しいものなんだろう、でも…。
今日で分かった気がする。
「…俺めっちゃ愛されてんな〜」
止まらない含み笑いをクスクスと一人で愉しみながら、体を纏っていた布団を広げた。
今までで一番眩しい朝日が差し込んだ。
コメント
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まずはありがとう