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#契約結婚
草原草原

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草原草原

634
二月の、最初の金曜日。
四十二階の大会議室の窓の外は、雪になりそうな、白く低い空だった。
楕円のテーブルを、取締役たちが囲んでいた。
社長。副社長。財務の取締役。社外取締役の三人。会長の席と、堂島常務のいた席が、二つ空いている。
壁際に、柏木室長が立っていた。分厚い報告書を、胸の前に抱えて。
私の席は、テーブルの端の、ドアに一番近い椅子だった。
六月と、同じ場所。説明を求められる人間の椅子。
社長の右隣の椅子は、空いたままだった。
社長は、今朝、一度も私を見なかった。
朝食の席でも。玄関でも。
私は、今日だけ、社長の車に乗ってきた。一緒に家を出るのは、これが最後かもしれないと思ったから。社長は何も言わずに、後部座席のドアを開けてくれた。
車の中で、社長は窓の外を見ていた。私は、反対側の窓を見ていた。目黒川の並木の枝に、冬芽が、固く並んでいた。
昨夜、扉越しに「出ます」と言ったあと、しばらくして、向こうから一言だけ返ってきた。わかった、と。それきり、足音は遠ざかっていった。
「では、始めようか」
副社長が、穏やかに言った。
社長が当事者になる議題だから、今日の議長は副社長が務める。六月と、同じだった。
「柏木くん。報告を」
*
柏木室長が、一歩前に出た。
報告書を開き、いつもの硬い声で、読み上げはじめた。
「瀬名灯。二十六歳。旧姓、真野。十五年前の鷹宮不動産横領事件で、犯人とされた元経理課長、真野誠一の長女」
会議室の誰も、動かなかった。昨日の記事を、全員が読んでいる。
「瀬名氏は、三年前、自らの希望で、当グループへの派遣を申し込んでいます。その際、父親との関係は一切、申告していません」
一本の線。
「昨年四月、社長室の専属秘書に登用。以後、社長の自宅に同居」
一本の線。
「昨年十二月と、本年一月の二回、深夜に、許可なく地下二階の文書庫に立ち入っています。同文書庫には、十五年前の鷹宮不動産の帳簿原本が保管されています」
一本の線。
室長の言葉は、どれも、一本の線だった。
室長は、一つも嘘をついていない。
私がしたことを、私がしたとおりに、読み上げているだけだった。
「以上の事実から」
室長は、報告書から顔を上げた。
「瀬名氏の目的は、父親の事件をめぐる、当社への報復であったと考えます。社長室長として、懲戒解雇が相当と判断いたします」
一本の線。
室長は、本気で、そう信じている。
懲戒。
去年の四月、この同じ四十二階の絨毯の上で、私は、同じ言葉を聞いた。あの日は、扉が開いて、この人が入ってきた。
今日は、この人は、もうこの部屋の中にいる。
*
「瀬名さん」
副社長が、私のほうを向いた。
「何か、言いたいことはあるかな」
私は、立ち上がった。
眼鏡は、外さなかった。今日は、誰かを読みに来たのではない。読まれに来たのだ。
「名前のことは、法律に沿った手続きです。父が亡くなったあと、母が旧姓に戻り、私も家庭裁判所の許可を得て、瀬名になりました」
声は、思ったよりもまっすぐに出た。
「でも、身元を伏せていたことは、事実です。文書庫に、許可なく入ったことも、事実です」
テーブルのあちこちで、誰かが、息を吐いた。
「私は、父の帳簿を見たくて、鷹宮に来ました」
指先が、冷たかった。
「父が承認したことになっている伝票を、自分の目で見たかった。それだけです。報復のためでは、ありません」
一度、言葉を切った。
「……でも、それを証明するものは、私の言葉しかありません」
私の言葉が本当かどうかを、確かめられる人は、この部屋にはいない。
六月と、同じだった。
私の目は、自分の顔を見ることができない。
「一つ、伺っていいかしら」
社外取締役の、白髪の女性だった。
「文書庫で、あなたは何かを持ち出しましたか」
「いいえ」
私は、その人の目を見て言った。
「何も、持ち出していません。持ち出すものが、ありませんでした。十五年前の鷹宮不動産の保存箱は、私が開けたときには、もう全部、空でした」
会議室が、ざわめいた。
財務の取締役が、隣の社外取締役と顔を見合わせた。
「空、というのは」
「番号の付いた箱だけが残って、中身がありませんでした。管理票には、去年の七月に、誰かが閲覧した印があります」
「保存箱の管理は、総務の仕事だからね」
副社長が、穏やかに引き取った。
「あとで、きちんと確認させよう。今日の議題とは、別の話だ」
一本の線。
ざわめきは、それで、すっと引いていった。
「ありがとう、瀬名さん。正直に話してくれて」
副社長は、ゆっくりとうなずいた。
それから、テーブルの反対側に、顔を向けた。
「怜くん」
やわらかい声だった。孫に話しかけるような。
「君は、彼女の素性を知っていて、隣に置いたのかい?」
*
会議室の空気が、止まった。
社外取締役の三人が、一斉に社長を見た。財務の取締役が、ペンを置いた。柏木室長が、報告書から目を上げた。
社長が知っていて、私を雇ったのなら。
社長は、横領犯とされた男の娘を、私情で、自分の隣に置いたことになる。
知らなかったのなら。
私は、社長まで欺いた女になる。
社長は、私を見なかった。
まっすぐ、副社長だけを見ていた。
「彼女の素性は」
平らな声だった。
「私は、知らなかった」
テーブルの下で、小さな音がした。
カチ、カチ。
柏木室長が、報告書のページをめくる音に紛れて、すぐに消えた。
私は、社長の顔を見ていた。
眼鏡を、外した。
三秒。四秒。五秒。
砂嵐だった。
切れ長の目も、左目の下の泣きぼくろも、引き結んだ口元も、全部そこにあるのに、何も届いてこなかった。
ざらざらとした灰色の粒が、輪郭の上で、ただ揺れていた。
六秒。七秒。
見続けた。
目が乾いて痛くなるまで。右のこめかみが、脈を打ちはじめるまで。
何も、見えなかった。
この人が、本当のことを言ったのか。
嘘をついたのか。
私には、わからない。
十五年間、ずっと見えていたのに。
一番知りたい人の、一番知りたい言葉だけが、私には見えない。
知らなかった、が本当なら。
この人は、私が誰なのかを知らないまま、隣に座らせて、手を握って、雪の中でキスをした。そして今、私が誰だったのかを知って、私を見ない。
知らなかった、が嘘なら。
この人は、最初から知っていて、ずっと黙っていた。
それなら、なぜ。
何のために、あの日、私を拾ったのか。
どちらなのか、わからなかった。
どちらだとしても、この人は今、私を見ていない。
「処分は」
社長が、続けた。
副社長から、テーブルの上へ、視線を落として。
「取締役会に、一任する」
*
誰も、何も言わなかった。
副社長が、小さくうなずく。丸い眼鏡の奥で、目が、やわらかく細くなる。
六月の、あの日と、同じ目だった。
右のこめかみが、ずきずきと痛んだ。
私は、手の中の眼鏡を見下ろした。
度の入っていない、黒縁の眼鏡。見すぎないための、柵。
十五年間、これさえあれば、どこにいても立っていられた。
眼鏡を、かけ直した。
テーブルの向こうの人たちの顔が、少しだけ、遠くなった。
それでいい、と思った。
椅子の横に立ったまま、背筋を伸ばした。
背筋くらい、伸ばしなさい。昨日、エレベーターの前で、そう言われた。
「処分は、必要ありません」
声は、震えなかった。
「私から、辞めます」
社長の肩が、ほんのわずかに動いた気がした。
顔は、上がらなかった。
私は、テーブルの一番遠いところにいる人に向かって、頭を下げた。
懲戒委員会の日、私の名前を一度で読んだ人。隣の椅子を引いて、戻れと言った人。雪の夜に、マフラーを巻き直してくれた人。
「――鷹宮社長。今まで、ありがとうございました」
コメント
1件
えっと、もう…胸がぎゅってなったよ。 眼鏡外して必死に読もうとしてるのに、一番読めたい人の心だけが見えないって、そのもどかしさが痛いほど伝わってきた。 「私から辞めます」って言う灯ちゃんの背筋、伸ばしてる姿が目に焼きついたよ。社長の肩が動いたのも、全部見逃せなかった。 続きが気になる…この嘘、どっちなんだろうね。