入口の前に立ち、私は一度深く息を吸い込んで気持ちを整える。いつも些細な変化に気づく陸翔兄さまに、余計な心配をかけたくないからだ。指で軽く口角を上げ、意識的に微笑みを作ると、店の中へと足を踏み入れた。
高級レストランのドアが静かに開かれると、店内は上品なシャンデリアの柔らかな光で満たされていた。落ち着いた音楽がゆったりと流れ、大理石の床を歩くとコツコツと音がする。昔来た時と雰囲気は変わっていなくてほっとする。
「沙織お嬢様、ご案内します」
見慣れたスタッフに案内され、窓際の席へと向かうと、陸翔兄さまが私を見た。それだけで泣きそうになってしまう。それを隠して、先ほど作った笑顔を張り付ける。
「待たせてごめんなさい」
「遅かったな。何かあった?」
その問いにどう答えるのが正解かわからなくて、私は椅子に腰をかけた。
「ありがとう、陸翔兄さま」
「ん?」
いきなりお礼を言われても意味が分からないようで、彼は食事をオーダーしつつ、軽く返事をした。
「離婚をこんなに早く実現してくれて」
「沙織、どうしてそれを?まさか、あの男が来たのか?」
すぐにメニューを閉じた陸翔兄さまに、スタッフの男性が驚いた表情を浮かべた。
「それで大丈夫です」
代わりに私が答えると、スタッフは会釈して戻って行った。
「ここに来る前に少し…」
苦笑しつつ答えると、陸翔兄さまが勢いよく立ち上がった。
「あの男…」
「待って!きちんと言えたんです、私。だから大丈夫」
怒って出て行こうとする陸翔兄さまの腕を押さえ、私が伝えると、彼は仕事用にカチッと整えた髪をくしゃりと崩し、大きく息を吐いた。
「そうか」
そう言うと、頑張ったと言わんばかりに微笑んでくれた。
「今日はその報告をしようと思ってたんだ。離婚届は役所に今日付けで受理されたから」
「本当にありがとうございました」
いくら雇い主の娘だからといって、こんなことばかりさせてしまって申し訳ない。そう思い頭を下げると、「気にしなくていい」と言ってくれた。
料理はとても美味しく、どれも絶品で、私はすっかり食べすぎてしまった。
「ちょうど、今週末に引っ越しをしようと思ってたから、離婚できてよかった」
「え?」
何気なく言った言葉に、陸翔兄さまが私を見据えた。
「いつまでもホテルにいられないし、陸翔兄さまにも迷惑をかけられない。離婚できたし、お父様にも話に行かなきゃね」
明るく言ったつもりだったが、陸翔兄さまは何も言わない。
「どこに引っ越すか決めたのか?」
「うん、芹那にも今日頼んで、仕事もさせてもらえそうだし、会社の近くにした」
神田グループの本社ビルは巨大で、その中に関連企業も入っている。陸翔兄さまと同じ場所に行くことになるのは、彼もだいたい想像できるだろう。
「沙織」
諭すように名前を呼ばれ、私はデザートを食べる手を止めた。
「なに?」
あまりにも美味しいプリンだったため、きょとんとして答えてしまったようで、陸翔兄さまは少し困ったような表情をしていた。
「いや、なんでもない」
何だろう、そう思っていたが、少し思案した後、陸翔兄さまは口を開いた。
「何かあったら、すぐに連絡することは約束しろ」
勝手に引っ越しを決めたことを指摘されていると理解して、私は「はい」と頷いた。
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