辰の刻
小鳥の囀りが窓越しに響く。はっと目を開けてのそりと起き上がる。一つ伸びをすると髪を一つかきあげる。ベッドから足を下ろすとカーペットがひんやりとしていた。すっかりと残暑が引いて秋の始まりを感じる。
メイクと髪を整えて時計を見ると七時を少し過ぎていた。最近は朝の手入れも滞りなく出来るようになってきたと感じる。太陽が登り始め、辺りが薄藍に静まり返っている。
朝御飯の準備をする為にそそくさと部屋を後にする。江屋敷は東館と西館と二つに別れていて、私は西洋造りの西館に部屋を与えられている。そもそも江屋敷は刀剣男士達が多く居る本丸では居心地が悪いだろうという厚意から既に放置された別荘を改築したものだ。
刀剣男士に拾われただけの一般人にとってこの扱いは奇跡と言ってもいい。江派の刀剣男士達の寝床は日本家屋造りの東館。東館に沿うように建っている離れはこの屋敷の主のものだ。
一つ、深呼吸すると、屋敷の仄かな木材の香りがしてありがたさを噛み締める。
折り畳んだ割烹着を抱えながら、東館への渡り廊下を歩いていると桑名江様が縁側に座っているのが見えた。
あちらも気づいたらしく目が合うとにこやかに手を振ってきた。服や頬に泥が付いている事から、私よりずっと早く起きて畑仕事をしていたのだと分かる。
「おはよう、お嬢! 今日も早いね」
気さくに笑いかけてくる桑名江様の顔を見ると、今日も朝がきたと実感する。手を振り返し、スカートの裾を持って一礼する。
「畑仕事お疲れ様です」
「あははっ! さすがぁお嬢、察しがいいね! とは言え毎朝の日課だからねぇ。もうすぐでいいネギが採れそうだから、楽しみにしててね」
「まあ、いいですわね!」
時期は冬にかけて少しづつ寒くなる。もうすぐで畑仕事も一段落する。冬の桑名江様はいつも寂しそうだ。
「また紅葉が進んできたら、皆と上山田に温泉でも行こうね」
つい目を丸めてしまった。というのも、刀剣男士達の日々は多忙でこの屋敷に七人が揃うことは滅多にない。ぼんやりと皆で温泉街を歩く姿を想像し、つい顔がにやけてしまった。
ふと、頭に桑名江様の手が置かれる。
「そんなに固くならないでよ」
「あ、いえ……そうではなくて……」
ついつい慌てて視線を下に向ける。
「……ただ、楽しそうだなって……素敵だなって……」
「分かってるよ〜。 ホントに顔に出やすいね」
桑名江様はにかりと笑って縁側に身体を向ける。取れた茄子やししとうの入った籠を手に取ると一つこちらに振り返るとまた一つ、歯を見せて笑う。
今日も頑張ろう、と思い、私も抱えた割烹着を広げた。
巳の刻
屋敷は広いだけあって手入れが大変だ。任務に向かった豊前江様と松井江様、桑名江様を見送ると、まずは東館の畳を掃除する。欄間や掛け軸にハタキを振るい、掃除機をかける。一通りの乾拭きをかける。和室の掃除は一通りこの流れだ。つい忘れがちな天井の隅にも手を伸ばす。土台を踏んで背伸びしてハタキを伸ばす……
「わっ……!」
その瞬間、ぐらりと視界が回る。足の踏みどころが悪かったらしく、土台が揺れてバランスを失う。
しまった──
「お嬢様!」
その時、背と肩を支えられる。辛うじて倒れずに土台から一度降りる。畳に足を下ろして一息吐くとそこには篭手切江様が心配そうに眉をひそめていた。
「すっ……すみません! 私とした事が不注意な……!」
その場で正座して篭手切江様に頭を垂れる。
「いえいえ……」
篭手切江様は困ったように頬をかきながら笑う。
「私もお嬢様と和室の掃除をしようと思っていたのでちょうど探しておりました」
はっと顔を上げるとよく見たら篭手切江様はバンダナを頭に巻いて内番の格好で雑巾とハタキを握っていた。
「い、いえ、お気づかいなく……」
「ふふ、そう恐縮せず……畑仕事は桑名さんが一通り朝に終わらせてしまいましたので……」
そういえば夏の収穫が終わっていよいよ畑仕事も一段落するという時期だ。内番が暇を持て余すのも頷ける。
「はい……! では、あと向かって左側の三部屋が残っておりますので……」
「分かりました」
篭手切江様はそう言ってすたすたとこの部屋にする──
「あ、そうだ」
ふと篭手切江様は立ち止まり、こちらに改まった様子で背筋を伸ばす。その容姿に首を傾げると、篭手切江様は口を開いた。
「あ……あの、お嬢様」
「はい……?」
ええと、その……と言葉を切り、また再び篭手切江様は口を開く。明らかに緊張している。
「お嬢様……よろしければ……私達と一緒に……すていじのれっすんをしましょう!」
「え……?」
すていじのれっすん。篭手切江様が中心となり、江派の刀剣男士達が集まり、歌とダンスの練習をしている。東館の広間を使ってレッスンをしているのをこの目で何度も見てきただけあり、言葉こそ耳に慣れたものだったが……
「よろしいのでしょうか……?」
と口から先に言っていた。差し入れを持っていったり、タオルやジャージの洗濯などの手伝いの頼みならともかく、あの輪の中に私自身が招かれる事は想像すらしていなかった。
「は……はい! 皆さんもれっすんをする度に仰っておりまして……お嬢様が参加してくだされば……すていじはもっと華やかになると……!」
じん、と胸が熱くなる。この感情は嬉しい事に変わりはない。しかし……
「……私、ダンスどころか歌も自信がありませんわ……」
篭手切江様が悲しげにしゅんと眉を下げる。
「皆様の足を引っ張る訳には……」
言葉の前に篭手切江様は私にずいと近づき、手を握ってきた。
「何を言っているんですか! 今の私達はお嬢様ありきです!」
あまりに真剣な眼差しに、つい固まってしまう。
「それにもう……」
一つ間を開けて、篭手切江様は続ける。
「私達とお嬢様は、家族なのですから!」
言葉が出ない。再び胸の奥が暖かくなる。篭手切江のは一つ声を漏らすと即座に手を離して障子の方へとかけ出す。
「……すみません、つい熱くなってしまって」
「い、え……」
「れっすんでしたらいつでもご参加くださいね!」
早口で言うとそそくさと部屋を後にした。鈍感な私でも照れ隠しだとすぐに分かった。
静まり返った和室に雀の声が響く。
午の刻
屋敷の掃除が終わり、少し休もうと紅茶を淹れる。食堂の椅子に腰掛け、一息吐く。
窓から空を見上げると、爽やかな秋空が広がっている。しかしよく見れば東の空が僅かにくすんでいる。今夜は一雨降りそうと思いながら私はティーカップを傾ける。
すると食堂のドアが開き、視線を戻すと、よろよろと食堂に入ってくる影が一つ。
「村雲江様!」
咄嗟にティーカップをソースに置き、椅子を引いて彼の元へ駆け寄る。
「ご……ごめん、お嬢……休憩中に」
私と視線が合うと苦虫を噛み潰したような顔が僅かに綻んだ。しかしそれも束の間、また顔をしかめて村雲江様は俯き、そのまま蹲る。
「痛みますか……?」
「う……うん」
村雲江様は身体が弱いのか、時折こうして私の前にやってくる。その時の為に常に胃腸に効く漢方薬を常備している。
「今お水と蜂蜜を取ってきます」
漢方薬を飲むのには蜂蜜が欠かせない。私自身も身体が弱いためでもあり、食卓には必ず薬と合わせて蜂蜜を常備している。
急ぎ足で戻ると何とか村雲江様は椅子に座って身体を伏せていた。
「どうぞ、こちらを」
「ありがとう……」
小皿に蜂蜜と混ざった胃腸薬を一匙掬って村雲江様に向ける。
すぐに口を開いてくれて金色に煌めく匙先が唇の奥へと流れ込んだ。その動作を何回か繰り返し、小皿が空になってからようやく村雲江様は顔を上げた。
「はぁ……お嬢の作ってくれた薬、本当に効く……」
「よかった……顔色もみるみる良くなってきましたね」
胸を撫で下ろし、先程まで紅茶を淹れていたのを思い出して村雲江様にも一杯淹れようと思い当たる。
「お紅茶、好きでしたわよね?」
「うん、好き……」
村雲江様は角砂糖二つとレモンを少々。ついでに冷蔵庫の中にチョコチップスコーンがあった事を思い出し、取り出して電子レンジで少々温める。
ポットの中が染まり、スコーンを取り出して村雲江様の所へ持っていく。
「はい、お待たせ致しました」
「ありがと……お嬢……」
腹痛が和らいだらしく、スコーンを見ると早速フォークを手に取り、嬉しそうにスコーンを頬張った。こんな可愛らしい人が時間遡行軍の鬼共と戦っているだなんて、信じられなくなる。
次いで紅茶にも手を伸ばし、マドラーで丁寧にかき混ぜる。
「この紅茶がどんどん黄金色になってくのが好きなんだぁ」
そう言って村雲江様は無邪気に笑う。
出会った頃はずっと不安げな顔をしていたのに。嬉しさのあまりにこちらの顔もにやけてきた。
お昼前の贅沢な時間。じきに時計の針が頂点を指す。昼食を作ろうと立ち上がると、村雲江様は顔を上げる。
「あのさ……お嬢」
「なんですか?」
「その……」
もじもじしながら俯く様はさながら親に頼み事をする幼児の様で愛らしい。
「……飯、作るの教えてくれる……?」
小さく声が漏れてしまった。あまりの意外さにしばし固まる。次いで零れたのは、笑い。
「やっ……やっぱ……ダメだよね……? 忙しいのに……」
「何を仰ってるんですか」
壁に掛けた割烹着を素早く着ると村雲江様へ身体を向ける。
「もちろんですわよ!」
村雲江様はまた、満点の笑みを見せた。
未の刻
ひと降りしそう、と思っていたのも束の間、お昼ご飯を終えるなり縁側の向こうからはらりはらりと滴が落ちる音が聞こえ、食器を洗う手を止めて急いで物干し竿がかかってる庭に駆け込んだ。
一気に洗濯をしたため、取り込む量は多くなりそうだ。取り込んだ和服がずっしりと腕にくる。一度縁側に置いて、急いで残りの取り込むべく、庭へ振り向くと、物干し竿が傾き、するすると襦袢が物干し竿から滑る。
洗濯物が引かれ、向かい側に立つ五月雨江様と目があった。
五月雨江様は洗濯物を取り込み終わるとこちらへ歩んできた。
「これで全部のようですね」
頷くと、五月雨江様は縁側に静かに腰を掛け、取り込んで来た洗濯物を一つ摘むとみるみるうちに畳んでしまった。
あまりの速さについ口を半開きにして目を丸めた。私自身も住まわせて貰っている身として、家事の手伝いは既にお手の物と自負していたが、やはりまだ私は井の外を知らぬカエルだったようだ。
その後も五月雨江様に負けじと、縁側に放られたジャージや襦袢を畳み直していく。
しかし適わず、あっという間に五月雨江様の隣には布地の塔が建ってしまった。
「あの、ありがとうございました、五月雨江様……」
「いえ、これしきのお手伝いでしたら、いつでもお任せください」
涼しげな表情が常な五月雨江様だが、今は口角が少し上がっている。一礼し、重なった衣類を運ぶため立ち上がると、五月雨江様は軽々しく衣類の列を抱え、更には私の隣に重ねた衣類まで持ち上げて、そそくさと廊下の奥へと去って行った。
お手伝いをさせて、と言う暇も無かった。言葉こそ少ないが、何だかんだ過保護な所がある。
後で村雲江様と篭手切江様をお呼びして、茶室で一緒にお茶でも点てよう。
やる事が無くなり、仕方なく縁側に腰掛け、しばし、秋雨の降る優しい音に耳を傾ける。
ふと、脳裏に映る後ろ姿。影の様に黒い立ち姿と、白刃の様に鋭い光を湛えた瞳。一人の面差しが、泡沫の様に浮かんでは消えた。
今頃どうしていらっしゃるだろう。
つい、大袈裟なため息を吐いてしまった。
「お嬢様」
驚いて振り返ると、つい先程まで奥の間に衣類を担いで行った筈の五月雨江様が立っていた。1拍の沈黙。小さく吹き出してしまった。
五月雨江様の顔も綻んでいる。
雨は僅かに勢いを増し、地に落ちた雨粒が軽やかに弾ける音が響く。
その音を聴いてか聴かずか、五月雨江様は再び隣に座ると、暫し遠くを眺めた。
「五月雨を──あつめて早し──最上川」
ふと、彼の唇から和歌が零れる。
「貴方様の敬愛する……」
「ええ。松尾芭蕉様の一句です」
五月雨江様の自室には壁一面の本が並んでいる。無論、大抵が芭蕉様に関する和歌集や研究書が蔵書されており、時折そこから本を借りている。
「……本、久々にお借りしても……?」
「おや、最近はめっきり利用されなかったというのに」
「ふふ……久しぶりに」
静かな笑い声が縁側に木霊する。その笑いが収まるや否や、五月雨江様はすっくと立ち上がり、私に向かって手招きをしてきた。彼の立ち姿がいつにも増して幽玄に感じるのは、雨のせいだろうか。
今日はどんな季語が学べるかしら。
雨はまだ止まない。
申の刻
台所でおやつの準備をしていると、入口に設置されたベルが優しく鳴る。この音は門の鍵が開いた合図だ。
随分と早いお戻りですこと。
素早く手を拭いて火の元を確認してから台所を後にする。
江屋敷の玄関へと向かうため廊下に出て足を速める。玄関前に着くと背筋を伸ばした。
少しの間を挟み、勢いよく引き戸が開く。
「ただいま〜!」
豊前江様の威勢のいい声が屋敷中に轟き、内心胸を撫で下ろしつつ、スカートの裾を摘んで頭を下げる。
「お帰りなさいまし、豊前江様、松井江様、桑名江様」
今朝任務に向かった三方が私の生真面目な出迎えに満足そうに挨拶を返す。
「お怪我の方は……?」
私が尋ねるなり、豊前江様は分かりやすく視線を泳がせた。
「いや、心配無えっちゃ! 刀身はキズ1つ付いてねえ!」
頬をかきながら豊前江様は笑う。
「……はぁ、また手入れ部屋を利用しなかったのですか?」
本丸に設置された手入れ部屋は傷を負った刀剣男士達が傷を癒す施設を指す。
霊力の回復も兼ねているため、任務の終わった刀剣男士は必ずそこに向かわされる。
だが、豊前江様の事だ。桑名江様と松井江様に限られた数の手入れ部屋の利用を譲ったのだろう。
「いやいや、今回は桑名と松のお陰で軽傷で済んだしよ」
どんぴしゃりだったようだ。敢えて大きなため息を吐く。
「傷は私の手入れでも治りはしますが、審神者様よりきちんと霊力を与えて貰わなければ困りますわ!」
少しばかりきつく言いすぎたか。はっと口を閉じるも、豊前江様は笑顔を作るだけ。両隣に立つ桑名江様と松井江様はあからさまに呆れたようにため息を吐く。
咳払いを一つ挟んで話を続ける。
「……いざ霊力が足りず後々の任務に支障が出てしまっては元も子もありませんっ!」
豊前江様はまた困ったように笑う。
「……ははっお叱りどうも! んじゃお言葉に従い俺はまた本丸に向かうとすっか!」
ようやく折れてくれた。
豊前江様は踵を返して引き戸にもう一度手を掛ける。しかし何か思い出したのだろうか、もう一度私の方に振り向く。
「……早く三人無事に帰ってきてお嬢に面見せたかったからよ、ついつい焦っちまった」
「え……?」
豊前江様はイタズラっぽく笑うとそのまま引き戸を閉め、行ってしまった。
暫し玄関に沈黙が過ぎる。そして残された私含めて三人は一斉に吹き出して笑った。
「もう……口が達者なんですから……」
困りながら笑顔を作る私に、桑名江様はふるふると首を横に振る。
「りいだあが言ってたことは本当なんだ」
またも目を丸くしてしまう。
「りいだあはさ……いつも元気に送り出してくれるお嬢を一刻も早く安心させてあげたいんだって」
「…………」
返す言葉が見つからず、ついその場で立ち尽くしてしまった。豊前江様の気遣いを無下に扱ってしまったようで途端に申し訳なく感じてしまう。
「お嬢、それよりおやつ! おやつ食べたい!」
桑名江様の声に我に返ると、既に屋敷に残った方々も食堂に集まっている。
まだまだ私は未熟だな。
酉の刻
ゆっくりと日が傾く逢魔が時。夕飯の支度をする為に台所に向かう。食堂の前に差し掛かると、皆様方が集まって談笑している声が聞こえてきた。
少し聞き耳を立てると、桑名江様や豊前江様が任務先で起きた命懸けの斬り合いを笑い話のように語り、残った篭手切江様や村雲江様、五月雨江様は屋敷であった事を話している。
ふと、松井江様の声が聞こえない事に気づいて少し食堂を覗く。すぐに豊前江様が私に気づいて手を振ってきた。こちらに振り返る皆様方の表情は優しい。しかしその中に、やはり松井江様のお姿は無い。
「お嬢、これから夕餉の支度?」
桑名江様の問いに頷くと、彼はにかっと笑うと席を立ち、台所の方向を指さす。
「びっくりするよ〜!」
首を傾げると、皆様方も何か隠しているようにニコニコしている。観念したように台所の方へ向かおうと廊下に出ると、桑名江様と村雲江様がついてきた。
桑名江様は野菜庫に我先と歩み寄り、一つ私に笑みを向けると、ガラリと戸を引いた。
「まあ……!」
今朝までは空きの多かった野菜庫の中には茄子やサツマイモ、人参にレンコン、カブ……
特に目につくのがどっしりとした根菜。秋の味覚がぎっしりと野菜庫に入っている。
「さっき仲のいい農家さんが尋ねてきてさぁ、ウチのかぼちゃが美味しかったからお礼にって、こんなに貰っちゃった」
流石桑名江様。彼の作る野菜はプロの農家ですら舌を巻く。その上優しく気さくな人柄が人を惹き、地元の農家の方や八百屋さんに慕われている。
「だから皆で今日は天ぷらにしようって話してたんだ! いつもお嬢にご飯作ってもらってるから、今日は俺たちに任せて欲しいんだ!」
小さくガッツポーズをする桑名江様。すっかり腕まくりをして料理をする気満々だ。
「そんな……悪いですわ、私も何か手伝います」
慌てて言葉を返すと、今度は村雲江様がおずおずと口を開いた。
「いや……いつも美味しいご飯作ってくれるし……それに……」
言葉を切る村雲江様に桑名江様は肘で小突く。
「今日お嬢に料理教えてもらったじゃん……? 俺、もう少し作れるようになったらお嬢も助かるかなっ……て」
村雲江様は照れ笑いをこちらに向ける。桑名江様はそんな村雲江様に肩を回し、親指を立てる。
「皆様方……」
やっぱり……この屋敷に来て良かった。
*
ご好意に甘えて先に湯浴みを済ませ、夕食が出来るまで自室で休むことにした。西館の奥に設けられた女湯に一人浸かり、和服に着替えてほっとした所で自室に備えたインスタントコーヒーでも飲もうと自室に向かおうとした。
「……あら?」
ふと廊下の奥、応接間の方から物音がした。西館はほとんど私しか使用しない。誰か用があるのか。それとも……
乾かしたての髪を垂らしたまま、小走りで応接間に向かう。応接間の扉の前で息を殺して耳をそばだてる。扉越しに小さく鍔鳴りの音が聞こえた。どうやら聞き間違いではないらしい。生唾を飲み、ゆっくりとドアノブに手をかける。
「っ……!」
扉をそっと開け、隙間から応接間を覗く。
宵闇に浮かぶ人影。すらりと腕が天に伸びる。薄明かりに照る紅い血が、その腕から滴る。
「松井江様!」
扉を開き、後ろ姿の主に駆け寄る。松井江様は一つ肩を跳ねさせるとこちらに振り向いた。
「……見つかっちゃったか」
油断していた。任務後の松井江様は時折興奮を抑えられずに瀉血する事がある。自らの腕に刃を立て、ゆっくりと滴る血を恍惚と眺める。
今もその証拠にどこか頬に朱の色が灯り、瞳もぎらりと光を湛えている。
「もう……! すぐにお手当てします! 診察室に……!」
観念したように、松井江様は頷いて手を取られるままに西館の奥へと進んだ。
「……勘が鋭くなってきたね」
「どなた様のおかげで」
診察室は私の部屋の隣に設置されていて、時折刀剣男士や本丸護衛の方たちが訪れる。しかし一番利用する頻度が高いのは言うまでもなく、松井江様の瀉血後の治療だ。
「……また深く切りましたわね」
「フフ……久々だったからねぇ」
ため息をこぼしながら淡々と松井江様の左腕に傷薬を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻く。
「まあ、分かっているとは思いますが湯浴みの際はなるべく傷口が心臓より上になるよう腕を上げてくださいね」
「うん」
「……此度のご任務、大変だったのですか?」
「え? 何急に」
目を丸くする松井江様。ターコイズブルーの瞳が一段と映える。
「興奮が冷めやらぬようでしたので」
「……」
少し黙って、顎に手を掛けてものを考える素振りは本当に上品だ。
「……お嬢は知らない方がいいよ」
予想通りの返事に頷いて黙々と包帯や薬品を片付けた。
「……怒ってる?」
「ええ、少し」
片付けを簡単に済ませ、はらりと頬に垂れる髪をかきあげる。
「……じゃあ」
パチン、と指を鳴らす松井江様に振り向く。
「お詫びに髪を結わせてよ」
今度は私が目を丸くした。松井江様は小さく、いいでしょ? と首を傾げる。
「わかりました。少々お待ちを」
席を立ち、一礼して部屋に戻る。ふと部屋を出る際に松井江様の後ろ姿が見えた。傷口に当てられた包帯を撫でていた。
戸を閉め、部屋に戻りドレッサーの引き出しから髪留めと櫛を取り出して診察室に戻る。
「戻りました」
「おかえり」
包帯を剥がす事もせずに大人しく待っていてくれた。
「では……お願いします」
「うん」
ゆっくりと髪に櫛が通る。優しい手つきで順々と梳いていく。
「お嬢、シャンプー変えた?」
「あら、よく分かりましたね」
「凄いサラサラ」
「フフ、海藻と海泥を配合したものに変えましたの」
あらかた梳き終わったらしく、次は髪留めを取り出す音がした。横側の髪を後ろで結び、次は項の前で全体の髪を留める。
「変わった結い方をされるのですね」
「この前さ、偶然髪の結い方の書かれた本を読んだんだ」
留めた髪の先を今度は結っていく。三つ編みだろうか。
「本当に器用ですわね、松井江様」
「まあね。身につける物にはうるさい方だし、実務も得意な方だからかな」
結い終えた髪の先端を、項の髪留めに潜らせる。
「はい、出来たよ。どうかな?」
備え付けの姿見に目を向ける。私の背に二つのリボンが上下に並び、その下には三つ編みの輪が垂れている。
「マガレイトっていう、大正期に流行った髪型なんだって」
「素敵ですわ……」
「うん、似合ってるよ」
「リボンが映えますし、よく纏まってますわね。これは調合やお料理の時にも使えそう……」
「でしょ? 後で手順の仕方教えてあげるね」
結われた三つ編みの部分を触る。本当に器用な方だ。
その時、入口に設置されたベルが鳴る。
「どうやら夕食が出来上がったようですわね」
「それじゃ、食堂に行こうか」
頷いて、診察室を後にする。二つの足音が静かな館内に響き渡る。
「ねえ、お嬢」
「はい?」
穏やかな笑みを浮かべた松井江様の髪がさらりと揺れる。
「これで許してくれる?」
「もう……松井江様ったら……」
へへ、といたずらっぽく笑う松井江様は本当に綺麗で可愛らしささえ感じた。
「許すも何もございません、瀉血はダメですわっ!」
松井江様はまた、フフ、と笑った。食堂の方から香しい油の匂いが漂ってきた。
戌の刻
『いただきまーす!』
六人の揃った声が食堂に響く。皿には豪快な天ぷらが添えられている。お蕎麦と味噌汁、白菜の浅漬け。豪華な夕飯だ。箸を迷わせ、目に止まったサツマイモの天ぷらを一口かじる。
「お嬢、美味しい……?」
やはり真っ先に村雲江様が話しかけてきた。
「ええ、中までしっかり火も通っていますし、衣もしっかり付いていて」
「良かったぁ……桑名からビシバシ言われたからさぁ……」
「うふふ、流石は前料理長ですわ」
「この、お茄子も俺が揚げたんだ!」
お昼頃は顔を真っ青にしていたというのに、今は想像もつかない程元気に笑う村雲江様を見ていると、こちらまで嬉しくなって、ついあれもこれもと天ぷらを頬張っていた。
流石にお腹がいっぱいになってきたのでここでお味噌汁と白菜の浅漬けをいただく。最後に残った人参と玉ねぎのかき揚げをつゆに浸して、お蕎麦をすする。
「蕎麦湯飲みたい人〜」
桑名江様が立ち上がる。私は迷わず手を上げる。次いで松井江様と篭手切江様、村雲江様が手を挙げた。
「蕎麦の残りあったら持ってきてくれ〜!」
流石豊前江様。もう蕎麦の乗った笊が空になっている。
「りいだあ了解〜じゃあ蕎麦湯とおかわりいっぺんに持ってくるね〜」
桑名江様はいきいきと台所へ向かう。
「ふぅ……」
箸を置いてひと休みする。ふと視線を感じて顔を上げると、篭手切江様と目が合った。
「どうかしましたか? 篭手切江様」
「あっ……いえ」
少し俯いて、はにかみながら頬をかく。
「お嬢様の御髪……いつもと違うなぁって」
「ああ、これですか? 松井江様に結っていただいたんですよ」
ねぇ、と松井江様の方へ視線を向けると、にこやかに頷いた。
「俺も気になってたんだ! 流石松、器用だな!」
豊前江様はお隣の松井江様に肩を回す。
「……変、でしょうか?」
「いいえ、全然! とても良くお似合いです!」
篭手切江様は目をきらきらとさせている。五月雨江様も頷いている。
「新たな季語に出会ったようです。早速夕餉を終えたら一句詠みたくなりました」
「すていじのれっすん、是非その髪型で来てください!」
「わかりました、松井江様から結い方を聞きますね」
とは言いつつも、私は本当に歌もダンスも自信が無い。明日は“すていじのれっすん”の見学をさせてもらおう。
ふと、入口に設置されたベルがからりと鳴る。この音は……!
はっと背筋が伸びて、すぐ様に席を立ち、食堂を後にする。
「お嬢? 蕎麦湯置いとくよ〜!」
背後から桑名江様の声。返事をする余裕は無い。廊下を小走りに進み、玄関先に立つとまたも背筋を伸ばす。
引き戸の向こうから近づく足音と共に、鼓動が強くなる。磨り硝子の向こうに、ひとつの影が刹那浮かび、引き戸が開かれる。
私は静かに頭を下げる。
「お帰りなさいませ、稲葉江様。お戻りになられるのを、お待ちしておりました」
急く鼓動を抑えて、またゆっくりと顔を上げる。目の前には荘厳な雰囲気を纏った男性が立っている。整えた髪。身に纏う黒い武装。刃のように鋭い光を湛える瞳。
いつ見ても美しい。
「出迎え御苦労」
稲葉江様は履物を脱いで土間に揃え、式台へ上がる。
「ちょうど今ご夕食ができております」
「そうか」
「離れにお持ち致しましょうか?」
「いや、いい。先ずは湯浴みを済ませる」
さっそうと歩く彼の背中に置いていかれないように、足を速める。
「では、お召し物をご用意します」
「いや、いい」
稲葉江様は足を止めて振り返る。
「夕餉の最中だったのだろう? お前は食堂に戻れ」
「し……しかし」
「我に構っている暇は無いだろう。戻れ」
相変わらず背中越しの声は冷たい。
「わかりました。それでは失礼します。でも、湯浴みを終えたら一声かけてください。多分、食堂にいると思うので」
稲葉江様は小さく頷くと再び歩き出す。今度は追わずに私は食堂に戻った。
「戻りました」
食堂の障子を開けるなり、皆様方はこちらを向いてニコニコしている。
「あの……どうかされまして……?」
「良かったなあ〜お嬢、稲さん無事に帰ってきて」
暫し目をぱちくりと閉じ開き、唇を薄く開けて豊前江様の一言の意味を察する。
「かっ……からかわないでくださいまし!」
途端に頬が熱くなる。食堂に爆笑がこだまする。
「べるが鳴った瞬間、お嬢すっごく嬉しそうな顔するんだもん」
「やはり女性の笑顔は最高の季語ですね」
「稲葉ももう少しお嬢の事、可愛がってあげたらいいのにね」
「全くですよ松井さん! 先輩は元々ああですが、心配してくれるお嬢様に対してあの態度では男が廃ります!」
「ちょっ……ちょっと皆様方!」
口々に稲葉江様への反論が続き、ついムキになってしまう。
「まあまあお嬢、ホラ、蕎麦湯飲んで落ち着いて」
不意に桑名江様が注いでくれた蕎麦湯の香りにため息を吐いてお椀を手に取る。一口啜れば、だしの効いたおつゆと蕎麦湯の優しい温かさに、呆気なく癒された。
*
「はあ〜……」
洗い物は松井江様と豊前江様、篭手切江様が手伝ってくださったおかげですぐに終わり、私は一人がらんと静まり帰った食堂で一人寛いでいた。
皆様方はそれぞれ湯浴みを終えて部屋に戻ったらしく、一階には足音ひとつせず鈴虫の声だけが響く。
「嵐が過ぎ去ったよう……」
江派の刀剣男士達に拾われてからというもの、一刻一刻が賑やかになった。
満点の一日になるよう、早起きして朝食を作り、広い館内を隈無く掃除し、昼食を誰かと肩を並べて食べ、夜はどんちゃん騒ぎ。
学級から孤立し、友達がなかなか出来ず、母と細々と暮らしていたあの頃をふと思い出す。
この忙しさは、紛れもなく江派の皆様方に幸せをいただいた証。
ひとつ、伸びをした。すると、屋敷の奥から足音が聞こえた。その足音を聞くと、自然と背筋が伸びる。粗相をせぬよう、全神経が緊張する。
「サロメ」
食堂に入ってきたのは、やはり稲葉江様。
「はい」
「夕餉をいただく」
「わかりました、では……離れに」
「いや、ここで良い」
席につく稲葉江様の大きな背中。刹那見惚れてしまう。すぐに我に返ると先ずは晩酌の準備だ。
徳利と盃をお膳に並べる。
先程残しておいた天ぷらとお蕎麦を笊から盛り、次いでつゆの入った蕎麦猪口と味噌汁のお椀をトレイに乗せて、稲葉江様の手元に並べる。
「すまん」
「いえ、どうぞ」
軽く頷くと稲葉江様は盃を手に取って私に差し出す。私も徳利を手に取って、ゆっくりと盃に傾ける。
お酌の時間はとても至福。稲葉江様がお酒の味を楽しんでいる横顔を見るのも大好きだ。つい顔が綻んでしまう。
淡々と食事は進む。稲葉江様は江派の刀剣男士の中でもかなり食べる方で、あれ程こんもりと盛られた天ぷらもあっという間に平らげる。
「この天ぷら、実は桑名江様と村雲江様が作ったんです」
「ほう……」
「村雲江様、お料理に興味がおありのようで、昼食の雑炊も一緒に作りました」
「そうか」
今日起きた出来事をつい捲し立ててしまう。私はどうも沈黙が苦手だ。
対して稲葉江様は無口な方だ。煩わしく思われていないだろうか。
そんな一抹の不安が脳裏を過ぎるのも束の間、稲葉江様は箸を置いた。
「ご馳走様」
言うなり稲葉江様は食器を重ねる。
「あ、片付けでしたら私が……」
「そうか」
稲葉江様から食器を受け取るとすぐに流し台に持っていく。一人分の食器くらいはすぐに片付けられる。食器かごに皿を並べ、濡れた手を拭いて稲葉江様の元へ戻る。
稲葉江様はゆっくりと盃を傾けながら依然として膳の前で寛いでいた。
「戻りました。お酌致します」
「そうか、頼む」
再び盃を向けられ、徳利を傾ける。稲葉江様はぐい、と少し豪快にお酒を飲み干す。
「……離れに戻る」
「はい」
頷いて、二人して席を立つ。
「お前も来い」
「え……?」
肩に手を添えられた。鼓動が早くなる。
「湯浴みを済ませたのだろう?」
「え……ええ、勿論」
稲葉江様は、ほんの少しだけ、微笑んだ。顔が熱くなる。
二人、そっと目を合わせる。そして、食堂を後にする。暗くなった東館。霞んだ月だけが、道を照らした。離れへ向かう為草履に履き替え、館を背に、二人はゆっくりと歩を進める。
見えてくる平屋の家屋。稲葉江様の部屋だ。先に入るよう促され、草履を脱いで、一歩式台を踏んだ。背後で引き戸が閉まる音。
「っ……」
途端、背後から肩を優しく抱かれる。僅かに力が籠り、暗がりに、彼の左手に巻かれた赤玉の腕輪が妖しく光る。
「……あの……」
「……サロメ」
小さく名を呼ばれ、震えた声で返事をする。
「今日は……楽しかったか?」
「…………」
突然の一言につい言葉を失う。稲葉江様が微かに顔を上げる気配。こちらの表情を伺っているのだろうか。
「……はい、とても」
答えると、稲葉江様は小さく笑う気配。肩越しでお顔が良く見えない。
「良かった」
胸が締まるように感じる。本当に不器用な方。そんな彼が、とても愛おしい。そっと、胸元に当てられた手に触れる。剣士の手だというのに、くすみのない綺麗な肌をしている。
「……おかえりなさい、稲葉江様」
「ただいま」
腕が解かれて振り返る。綻んだ、愛しい人の立ち姿。そっと引き寄せられ、唇を重ねた。
完
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