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青桃・桃青
「出会いの音は、胸の奥で鳴った」
春の風が校舎の隙間から吹き抜けて、白いシャツの裾を揺らした。俺――乾ないこは、教室の窓際に立って、まだ肌寒い空気の中に混じる土の匂いを吸い込んだ。新学期。新しいクラス。新しい席。そして、まだ名前も知らない人たちとの、新しい一年。
――はずだった。
しかし俺は、廊下の向こうから聞こえてきた声に、首をひねった。
「おいおい、ほんまにこの教室で合っとるんか? なんや、全然知らん顔ばっかやんけ。うわぁ……人見知り爆発しそうや……」
聞いた瞬間に「どんなやつだよ」と突っ込みたくなるような関西弁。だが声はやけに通っていて、どこか透明感のある響きが耳に残った。思わず廊下に顔を出すと、黒い髪を後ろに流した男子が立っていた。大きめのトートバッグを肩から下げ、教室の前で、まるで迷子の子どものように立ちすくんでいる。
目が合った。
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。心臓なのか、それとも言葉にできない別の何かなのか。わからない。ただ、確かに何かが動いた。
「……教室、どこ探してんの?」
俺が聞くと、男子はぱっと顔を上げ、救われたみたいに表情を明るくした。
「お、おお! 助かった! 三年二組って、ここで合っとる?」
「合ってるよ」
「よっしゃぁぁ……死ぬかと思った……知らん土地に放り込まれた遠征の気分や……」
大げさに胸を押さえるその姿に、思わず笑ってしまう。
「そんなに不安だったのかよ」
「そらそうやろ。今日から転校してきたんや。緊張して腹痛いのに、校舎の構造までややこしいんやもん」
「あー……なるほど」
言われてみると、彼の制服は少しだけデザインが違っていた。
「俺、乾ないこ。よろしく。席はまだ決まってないから、とりあえず教室入れば?」
「お、おう……俺はまろや。苗字は――あ、いや、ええか。名前で呼んでくれたらええわ」
「なんで苗字言わないんだよ」
「なんとなくや」
「適当だな」
そんな会話をしながら教室へ戻ると、まろは一瞬で注目の的になった。転校生なんだから当然だが、それ以上に彼には目を引く何かがあった。背は俺より少し高く、雰囲気はどこか柔らかいけど、影を落とさない明るさを纏っている。笑ったとき、目の縁に少しだけできる皺が妙に優しげだった。
――正直、ちょっと見とれてた。
「乾くん、そこの席でいいよ。隣は……まろくん、空いてるから、ないこの隣ね」
担任の先生の言葉に、まろはぱっと俺のほうを振り向く。
「隣やて。よろしゅうな、ないこ」
「……ああ」
俺は素直に返したつもりだったが、心臓はなぜだか跳ねっぱなしで落ち着かない。
席につくと、まろが机の上に両腕を置き、ひそひそ声で話しかけてきた。
「ないこって……なんか、ええ名前やな。覚えやすいし」
「そうか?」
「うん。なんか、すっと入ってくる感じする」
褒められ慣れていない俺は、少し戸惑って視線をそらす。
「お前の“まろ”も、個性的だし……」
「それ褒めてるん?」
「……褒めてるよ」
「ほんまかいなぁ? まあええけど!」
まろは楽しそうに笑った。その明るさに、俺は気づかないうちに引き込まれていた。
* * *
午前の授業が終わる頃には、俺はもうまろを何度も見てしまっていた。ノートの取り方が妙に丁寧だったり、考え事をするときに眉間に皺が寄ったり。授業がわからなかったのか、俺のノートを覗き込むときの距離が妙に近かったり。
――匂いまで感じる。
そのたびに落ち着かなくなって、気づけばそっけない態度を取ってしまう。
「なあ、ないこ。これどういう意味なん?」
「自分で考えろ」
「ひどっ! 初日やのに扱い雑すぎひん?」
「うるさい。近いっての」
「あっ……すまん」
まろは距離を取り、しょんぼり肩を落とした。その瞬間、俺は胸の奥がチクリと痛んだ。
――なにやってんだ俺は。
別に嫌なわけじゃない。むしろ逆だ。近づかれると、なぜか変に意識してしまう。理由はわからない。わからないけど……気になって仕方ない。
昼休み、まろは弁当箱を開けながら言った。
「ないこ、弁当いっしょに食べへん?」
「……別にいいけど」
「やったぁ! あとな、この学校来て初めて話しかけてくれたのないこやから……なんか、ちょっと安心した」
「そんなんで安心してるとすぐ騙されるぞ」
「ほな、ないこは俺を騙すん?」
「……しない」
「そやろ? なんか、そんな気したんよなぁ」
――そんな気って、なんだよ。
まろは嬉しそうに笑い、弁当をもくもくと食べ始める。ときどき口元にご飯粒つけるの、本当にどうにかしてほしい。気になって仕方ない。
「……ついてるぞ」
「あ、ほんま? どこ?」
「ほら」
俺が指先で示すと、まろは指でご飯粒を取って笑った。
「サンキュー、ないこ。優しいな」
「別に……ふつうだろ」
まろの言葉はさらっとしているのに、胸の奥にはじんわり残った。
――なんでこんなに気になるんだ。
* * *
放課後。帰るために廊下へ出たところで、まろが階段に立ち尽くしているのを見つけた。スマホを握りしめ、表情が固い。
「どうした?」
近づくと、まろはゆっくり顔を上げた。
「……大丈夫や。なんでもない」
「嘘つけ。顔青いぞ」
「ほんまになんでも――」
言い終わる前に、まろの足がふらついた。
「まろ!」
咄嗟に腕を掴む。驚くほど体温が高い。汗が額に浮かび、呼吸も浅い。
「熱あるだろ……!」
「ちょ、ないこ……そんな心配せんでええねん。俺、こういうの慣れてるから」
「慣れてる?」
俺が眉をひそめると、まろは弱々しく笑った。
「家……ちょっと、いろいろあって。体調悪なっても、誰も迎えに来てくれへんのや。せやから、一人で帰るん慣れとかなあかんねん」
胸がざわついた。
なにそれ。初日にそんなこと言うなよ。
「バカ。無理すんな。保健室行くぞ」
「いや、迷惑――」
「俺が行けって言ってんだよ」
思わず強めの声が出た。その瞬間、まろの目が大きく揺れた。
「ないこ……」
体を支えると、まろはそれに身を預けてきた。力の抜けた身体が腕に重い。
その重さが、妙に切なかった。
* * *
保健室のベッドに寝かせると、まろは目を閉じたまま小さく言った。
「……ありがとう、ないこ。ほんまに」
「礼言う前に治せよ。熱、相当高いぞ」
「うん……でも、助かった。……ないこが、おって、よかった……」
弱った声なのに、妙に真っ直ぐ胸に刺さった。
――お前、なんでそんなこと言うんだ。
俺の心臓は、あの朝よりさらに強く鳴った。
その音は、驚くほど大きかった。
そして気づいてしまった。
俺は、こいつのことが――すでに気になって仕方なくなっている。
その理由はまだ言葉にできない。ただ、まろの息づかい一つで胸がざわつく。この不安と期待が混じったような感情を、どう表現すればいいかわからない。
だが、わかってしまったことがひとつある。
まろが痛そうに笑うと、俺のほうが苦しくなる。
これは、ただの友達に向ける感情じゃない。
「ないこ……」
まろがかすかに目を開け、言った。
「俺、これから……あんたに頼ってしまうかもしれへん。迷惑かけるかも……せやけど……離れんといて、くれる?」
胸が強く、強く締めつけられた。
「離れないよ」
気づけば、答えていた。
「俺は……お前を放っておけない」
その瞬間、まろの目尻から、涙が一粒こぼれた。
「……よかった……ほんま、よかった……」
その涙が落ちる音が、俺の胸の奥に確かに響いた。
その音こそが、二人の物語の始まりだった。