『神の前に死はひざまずく ―そして祈りは、還る―』
(りうら視点)
季節は静かに、教会の鐘に寄り添うように巡った。
花が咲き、鳥が囀り、そして葉が落ち、雪が積もる。
それは、生者の時間。私はただ傍らで、静かにそれを見つめていた。
◇
ほとけが、老いた。
それでも彼女は、美しかった。
皺が刻まれても、手が細くなっても、
私を見つめるその瞳には、何も変わらぬ光があった。
彼女はもう、教会の仕事を後進に譲り、小さな部屋で過ごしていた。
私だけが、変わらずその傍にいた。
「りうら……私ね」
老いた彼女が、布団の中で静かに微笑んだ。
「あなたに、ずっと祈ってきたけど。今は……祈りじゃなくて、ただの“愛”だなって思うの」
「……ありがとう。私はそれで、ずっと立っていられた」
「嬉しい。ほんとに……私の人生、あなたがいたから、神様みたいだった」
「神より先に、あなたの手を取らせて」
彼女は笑った。
「うん。……約束だもんね」
◇
その夜、私は窓の外に立っていた。
教会の裏庭には、白い花が咲いていた。
若いころ彼女が植えたものだ。あれは「祈りの花」と呼ばれていた。
私は、目を閉じる。
空気が揺れた。
魂の気配が、ゆっくりと立ち上がってゆく。
まるで、夜明けに消える月のように、静かに、凛として。
──彼女が、逝った。
私は、黒い影をまとい、部屋に入る。
彼女はもう、目を閉じていた。
けれど、その顔は穏やかで、まるで眠っているようだった。
「……来てくれたんだね」
声が、頭の中に響いた。
魂となったほとけが、そこに立っていた。
若いころの姿。私が最初に出会った頃のまま。
「ええ。誰よりも早く、誰よりも静かに」
私は、彼女に手を差し出した。
彼女はそれを、迷いなく取る。
「行こう。もう祈らなくていい。
これからは、あなたの隣で、ただ生きるふりをしなくていい」
「うん……もう、迷わなくていいんだね」
私は、彼女の魂を胸に抱く。
影が揺れ、花の香りが風に混じる。
◇
教会の塔の上で、私は彼女と並んでいた。
そこからは、世界が少しだけ広く見える。
生きる者たちの命が、光の粒のように輝いていた。
「ねえ、りうら」
「はい」
「あなたは、もう“死神”じゃないよ」
私は目を細めた。
それが、何を意味しているのかはすぐにわかった。
私は、彼女の祈りで生まれた。
彼女の信仰が、私を形づくっていた。
ならば、彼女がこの世を離れた今──
私は、消える。
それは、恐怖ではなかった。
「あなたに逢えて、本当によかった」
「私こそ。祈られることの意味を、あなたに教えてもらった」
手を重ねる。
影が光と混ざり合って、少しずつ、世界に溶けていく。
そして私は、彼女の魂と共に、
──祈りの果てへと、還っていった。
◇◇◇
その教会の庭には、ふたつの碑が並んでいる。
一つには、「ほとけ――生涯を祈りに捧げた人」と刻まれ、
もう一つには、名も文字も刻まれていない黒い石が立っている。
その前にだけ、いつも季節を問わず花が咲いている。
名もなき“死神”と、たった一人を愛した祈り人。
その魂は今もどこかで、寄り添っている。
──神の前に、死はひざまずく。
──そして、祈りは愛となり、永遠に還る。
コメント
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言葉選び天才だね?すごいわ!尊敬する!