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鷹槻れん

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#契約結婚
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第4節 桐生百合香『離れられない』―5―
そうしてそれは、あんなに激しく求められた夜ですら変わらなくて――。
半ば無理矢理に身体を開かれる形で始まった最後の一夜ですら、雄二はそこだけはしっかり線引きをして百合香を抱いた。
百合香は、それが彼なりの優しさだと分かっていたけれど、ちょっぴり恨めしく思ってしまっている。
(お腹に、雄ちゃんとの赤ちゃんがいてくれたら……)
こんな風に雄二を失ってしまうくらいならば、仕事なんてどうでもよかったのに。
雄二は真面目な男性だから……きっと百合香に妊娠の可能性があったなら、あんな風に自分を切り捨てたりはしなかったはずだ。いるかどうかも分からない〝新しい生命〟という切り札で、愛する人を少しでも長く繋ぎとめたかった。
そんな未練がましいことを思ってしまう程度には、百合香の心は雄二から離れられない。
(うまくいっていたときに『私、すぐにでも雄ちゃんとの赤ちゃんが欲しいの』って言えていたら……)
例え雄二が極道になってしまったとしても、今でも変わらず雄二は百合香の隣にいてくれただろうか?
(組長さんだって、身重の女を捨てろだなんて言わなかったんじゃないかな……)
考えても仕方がないことが頭の中をぐるぐるしてしまう。
仕事中は業務のお陰で何とか考えずに済む〝愛しい人を失くした〟という現実が、プライベートな時間になると途端に脳内を占拠してどうしようもなくなる。
家の中にいたら雄二のことばかりを考えてしまってつらい。
家の中は、どこもかしこも雄二と過ごした思い出しかないのだから当然だ。しろには申し訳ないと思うけれど、百合香は家を空けがちになった。
外に出たからと言って、結局は雄二のことを考えてしまっている。そこは変わらないのだけれど……堅気じゃなくなったと言っても、雄二は変わらずこの街に住んでいるはずだ。もしかしたら、外にいればどこかで彼の姿を見かけることもできるかもしれない。
その希望だけが百合香を何とか生かしていた。
薄い茜色の光の中、信号待ちで立ち止まったとき、視界の端に黒塗りの高級車が止まった。
それは、小さめだけど新しい一軒家の前だった。
運転席から降りた男が、すぐさま後部座席のドアを開ける。開かれた扉から柔らかな布の影が揺れた。
モーブピンクの、清楚なロングワンピース。
柔らかな素材でできた裾と、長いストレートの黒髪が、秋風にふわりと揺れる。
色白の横顔が、夕焼けの光に溶けた。
(雄ちゃん……!)
車道を挟んでいて、距離があっても分かる。
日本人形のような、儚げな女性をエスコートしているスーツ姿の長身男性は、百合香の愛してやまない男――千崎雄二だった。
雄二が、その女性に「行くか」というふうに顎を少しだけ動かした。女は頷く。
彼は前を歩き過ぎず、後ろに下がりすぎず、自然な距離で彼女の横に立っている。
誰より見慣れているはずの、彼の歩調。
数か月前までは、確かに百合香の横にあったものだった。
(――雄ちゃん、隣にいる女性は誰?)
そんなの、本当は分かっていた。
だって雄二は別れ際、百合香に〝結婚を前提に面倒を見るように言われた女性がいる〟と話していたのだから。
だけど……そんなの、認めたくないではないか――。
胸の奥を、棘だらけの爆弾が何発も弾けたみたいな痛みが襲う。
答えの分かり切った問い掛けは、喉で崩れて声にはならなかった。
信号が青に変わっても足が動かず、横断歩道の前で立ち止まったままの百合香の横を、何人もの人が迷惑そうにちらちら振り返りながらすり抜け、向こう岸へと渡っていく。
自分もあちら側へ渡って、雄二の後を追いかけたい。追いかけなきゃいけないのに、足が地面に張り付いたみたいに動いてくれなかった。
雄二と黒髪ストレートの女性の姿が、家の中へと消えていく――。
家の前には、さっきまで雄二がいたはずの車が一台、ぽつんと取り残されていた。
百合香は五回青信号を渡れないままにやり過ごしてからやっと……足を動かすことができた。
雄二たちが家屋内に消えてから、一〇分近くが経過していた。
今更家の前に行ったからといって、雄二の姿を見ることは叶わないだろう。
だけど、百合香はトボトボとそちらを目指さずにはいられなかった――。
数軒の民家の前を通り、小さな門の前で立ち止まる。
視線を感じて見上げると、塀のあちこちに防犯カメラが設置されていて、百合香のことを見つめていた。
ぱっと見は普通の民家にしか見えないのに、万全のセキュリティで守られているように見える家。それは、百合香が八重子とともにホテルから移された葛西組の息がかかった一軒家に似ていた。
(雄ちゃんのお相手は……葛西組の組長さんにとっても、大事な女性ってこと……?)
おそらくはそういうことなんだろう。
このままここに立っていたら、不審人物として葛西組の人に囲まれてしまうかもしれない。
でも、百合香はどうしても、相手の女性の名前を確かめたかった。
門柱に小さな表札。『葛城』、と読めた。その横に設置されたポストには『葛城雪絵』の文字。
(……かつらぎ、ゆきえ……さん)
名前が分かった途端、雄二が黒髪の彼女に向けて『雪絵』と呼ぶ声が聞こえてきた気がして、百合香はポロリと涙を落した。
コメント
2件
百合香が可哀想でたまらない(涙)
読み終えました……。百合香の心情が痛いほど伝わってきて切なくなりました。特に「お腹に赤ちゃんがいたら」って願うところ、仕事より雄二を選びたかった本音が重くのしかかってくる。最後の信号🚦の前で動けなくなる描写も、見たくないけど見てしまう複雑な感情がリアルで、胸がぎゅっとなりました。いい作品をありがとうございます。