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人生で初めての恋を、既に誰かのものとなっている人に捧げた。
俺が付け入る隙間など少しもなく、この人しかいないと思えるような相手と運命の出会いをとうに果たした人。
若さゆえに一目惚れなんかしたんだと思っていたが、あの表情には、歳を重ねていようが落ちていたとも思う。
宅配業に就いて間もなく、俺はキレイめな家が立ち並ぶ住宅街に配属された。
仕事への不安は拭いきれていなかったが、とりあえず治安が良さそうな場所でホッと胸を撫で下ろす。
段ボールを大切に抱えて、一軒目の〝若井〟と書かれた表札の隣にあるインターフォンを押した。
しばらくして目の前に現れたのは、少し小柄で整った顔立ちの男性。
エプロンを身にまとっていて、どこか人妻感がただよっている。
料理中だったのか、彼からほんのりとスープのような匂いがした。
「こ、こちらにサインをお願いします」
段ボールに添えられた左手に、指輪がないことを無意識に確認してしまう。
ペンを走らせる白い手や、伏せられた長いまつ毛を、目で追ってしまう。
何か一言でも、その形の良い唇から言葉が発せられるのを期待して、耳をすませてしまう。
「⋯⋯ぁりがとうございます」
たいして大きくもない段ボールを両手で丁寧に抱えて、かすれ気味の声でそれだけ言った。
こちらに押し付けるかたちでペンを返して、そそくさとドアを閉めて行ってしまう。
可愛い見目に反して無愛想なのか、それとも単に人と話すのが嫌いなのか。
彼もきっといい歳した大人なのに、人見知りをする子どもみたいだなと思ってしまった。
同時に、愛らしいな、とも。
「⋯ハァ⋯⋯」
同性にこんな感情を抱いたのは初めてで、その日はなんだか混乱してしまって。
サインを貰い忘れたり、荷物を間違えかけたりと、俺の初めての仕事はお世辞にも順調とは言えない結果に終わった。
大きなミスをしなかっただけまだマシだと、そう思うしかない。
若井さんの家には頻繁に荷物が届くようで、俺はその後 何度も彼のもとへトラックを走らせることとなった。
宅配物の中に彼の名前を見つけると、なんだかドキドキと緊張してしまう。
「はい」
期待していた通りの心地よい声に鼓膜が震える。
ペンを受け取ってさらさらと走らせるなめらかな手が、相変わらず白くて眩しい。
最近は世間話を振ってみると、二言三言は会話をしてくれるようになっていた。
今日もなんとか話題を探した末に、若井って名字カッコいいですね、と目に入った表札から苦し紛れに絞り出す。
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kurara
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「⋯⋯僕には似合わないです」
「そんなことないですよ! えっと、爽やかな雰囲気ですし、あと、響きいいですよね」
ワカイって、声に出したくなるというか⋯⋯
下手なフォローしか出来ず焦っていると、彼が俯いてちっちゃな声で、若井⋯と繰り返す。
髪の隙間から覗く耳は赤く染まっていた。
ペンを返すために上げられた顔は恥ずかしそうにはにかんでいて、ひとりの男性というよりは、恋する乙女のような。
思わず、自分のことが好きなんだろうかと、錯覚してしまうような顔だった。
そんな若井さんの家に何度も配達に行くたびに、あちらこちらで〝同居人〟の気配が漂っていることに気づかざるを得なかった。
そもそもひとり暮らしには広すぎる一軒家。
玄関にキレイに揃えられている、若井さんの足よりもひと回り大きいサイズの革靴。
宅配物に記されている宛先の名前。
若井元貴と、若井滉斗。
以前 気になってそれとなく尋ねたところ、葛藤の末に、自分の名前が元貴で、同居人は滉斗だと教えてくれた。
そしてその人は、高校生みたいによく食べるから、料理担当の元貴さんはすごく大変なこと。
体はデカいくせに態度はそれほどで、元貴さんが何か言えばすぐにペコペコすること。
その様子が面白いから、同居生活はそれほど悪くないということも、ぜんぶ教えてもらった。
いつも人見知りな彼が、その時ばかりはたくさん笑って、たくさん喋って。
同居人を⋯滉斗さんのことを、元貴さんがとても大切に思っていると、耳を塞いでしまいたくなるほど痛感させられた。
同じ名字なら、家族だろうか。
もう俺に望みはないが、せめて恋人などではなく友人であって欲しいなと、今日も切実に表札を眺めるほかなかった。
ピン、ポーン⋯⋯
⋯⋯⋯⋯珍しく物音すらしない、留守だろうか。
と思ったのも束の間、インターフォン越しに声が聞こえたかと思うと、彼の声の後ろではバタバタ言っているし、元貴さんは何やらゼェハァしているし。
そしてようやく出てきた元貴さんは、目が潤み、頬から首までが真っ赤になっていた。
上はダボッとしたTシャツ一枚で、男性にしては張っている胸元の真ん中にポチが浮き出ているのが視界に入ってしまい、思わず目が釘付けになる。
それから、下は、⋯⋯穿いてる?
危ういを通り越して、もはや元貴さんがセクハラで訴えられそうな格好。
ペンを受け取ってサインし始める元貴さんの額は汗びっしょりで、前髪が張り付いていて色気がダダ漏れている。
喉が渇き、唇が乾燥するのを感じながら、無意識に彼の前髪へ手を伸ばした。
サラサラと髪を梳かれ、不思議そうにこちらを見上げる大きな瞳。
りんごのように熟れた頬に、また手を伸ばそうとして、不自然な角度で動きを止めた。
戸惑う元貴さんの後ろから、こちらを静かに睨め付けながらゆっくりと歩み寄ってくる、大きな影が見えたからだ。
⋯⋯滉斗、さん。
凍りついた俺の手首を、ごつごつとした手がしっかりと捕まえる。
「ぇ、わか、」
元貴さんの腰を抱き寄せて俺から引き離し、相変わらず俺の手は掴んだまま、
「⋯はじめまして、新人さんですか?」
人と接するための最低限の笑みを浮かべて、こちらを見据えながら尋ねてきた。
心臓にビリビリと電流を流されているみたいに、声が出せなくなる。
代わりにコクコクと必死に頷いて見せると、ふーん、とさして興味は無さそうに、顎を一度だけ引いた。
鯉のように口をハクハクとさせて固まる俺の胸元を見ると、「〇〇さんね、」と名札に書かれている俺の名字を口に出す。
「初めて聞く名前だぁ」
「⋯っ⋯⋯⋯⋯」
喉がヒク、と震えるのが分かる。
滉斗さんは俺の反応を真っ黒な瞳で捉えると、そこでようやくブルブルと震える手首を解放した。
まるで、お前はもう敵ですらないとでも言うみたいに。
「あっ⋯⋯」
滉斗さんのただならぬ雰囲気に縮こまっていた元貴さんが、不意に声を上げた。
全開にしていたドアを半分ほど閉め、こちらから見えないようそこに体を隠す。
そのドアに必死でしがみつく小さな薬指に、宝石のはまったリングが光っているのが見えた。
「んくぅ⋯⋯ぐっ」
ついには顔すら隠して、何かに耐えるように何度も声を漏らす。
滉斗さんは俯く元貴さんの手からペンを取り上げると、そっと俺の胸ポケットに刺し戻した。
その左手にもまた、薬指で存在を主張している指輪が⋯⋯
「サインは、そっちで書いちゃってください」
どうも、と段ボールを片手で受け取ると、こちらの返事も聞かずにドアを閉めて行ってしまう。
ガチャリ、とすぐに鍵を閉める音も聞こえた。
ふたりの世界から、一気に現実へと締め出されてしまった気分に陥る。
ショックでその場に立っていられず、フラフラとトラックの運転席に逃げ込んだ。
「はっ、はっ、は⋯⋯」
⋯⋯あまりにも、身の程知らずな恋だったのだ。
分かっていたつもりのそれを、改めて思い知らされた、それだけ。
元貴さんの中で滉斗さんは、特別 親しいわけでもない配達員にも嬉々として話すほど、大きな存在。
元貴さんの中で俺は、ほとんどの時間を共に過ごしている同居人にすら話す必要性のない、小さな存在。
だから、俺は滉斗さんを知っているが、彼は俺を知らなかった。
⋯⋯俺は、遠回しに格の違いを見せつけられたのだ。
ふたりが着けていたペアリングの輝きを思い出す。
最近になって、結婚したんだろうか。
それとも、男同士で恋愛なんて⋯⋯と俺に思われるのが嫌で、今まで自分で指輪を外していたんだろうか。
エプロンにたくさん付いたポケットのどこかひとつに、その時だけはあの輝きを隠していたんだろうか。
『んくぅ⋯⋯ぐっ』
玄関先で聞いた元貴さんの声が、鮮明に思い出される。
⋯⋯俺が配達に訪ねる前、ふたりは何をしていたんだろうか。
俺がいる目の前でドアに隠れて、滉斗さんに何をされていたんだろうか。
俺が去った今、元貴さんは滉斗さんの手を、眼差しを、どんな風に受け入れているんだろうか。
「⋯⋯⋯⋯」
サイン欄に元貴さんが途中まで書いた、〝若井〟の筆跡を指でなぞる。
サインは、そっちで書いちゃってください。
⋯⋯胸ポケットからペンを、引き抜いて。
少し崩された綺麗な字に合うように、その続きに丁寧にペンを走らせた。
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