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*インフェルノ 第二章*
1:共堕
誰よりも美しいものが、誰よりも壊れやすいとしたら。
それを守るには、壊れるしかないのかもしれない――そう思った。
⸻
滉人は、元貴のすべてに気づいていた。
嘘をつくときの目の泳ぎ方も、指先の震えも、喉仏の動きも。
愛しいと想うからこそ、見ないふりをしてきた。
「信じてる」と言ってやることが、ただの逃げになっていたことにも気づかないふりをして。
けれど、もう限界だった。
夜更け、寝息ひとつ聞こえない部屋で、枕元の小さな音が滉人を覚醒させた。
水の入っていないコップ。薬のシートの、微かな擦れ音。
目を開けなくても分かった。
元貴がまた、薬に手を伸ばしていた。
滉人は目を閉じたまま、呼吸だけを深くして思った。
――もう、終わりにしよう。
⸻
翌日、滉人は元貴が風呂に入っている隙を見て、部屋の引き出しの隅に隠されていた薬を探し出した。
案の定だった。
ポーチの底に、ティッシュにくるまれた錠剤が、無造作に潜んでいた。
その夜、元貴が布団に潜り込んできた時、滉人は突然それを取り出して見せた。
「……なに、それ」
元貴の声が硬直する。
滉人は薬のシートをひとつ、元貴の足元に放った。
「飲みたきゃ飲めよ。好きなだけ」
部屋の空気が凍る。
「……なに言って」
「その代わり、お前がそれ飲んだら、俺も同じだけ飲むから」
「……やめろよ……そんなこと、出来るわけないじゃん」
「出来るよ」
滉人は真っ直ぐ元貴の目を見る。
そこには、怒りでも悲しみでもなく、ただ、決意があった。
「……っ、返せよ……」
元貴が震える手で薬を奪い返そうとした瞬間、滉人は彼の手首を掴んだ。
優しく、でも逃がさない力で。
「なあ、お前、自分で気づいてるか?」
沈黙の中で、元貴の呼吸だけが震えた。
「……とっくにぶっ壊れてるって」
それは責める言葉ではなかった。
ただ、事実として。
滉人はそっと元貴の頬に手を添える。
「だったら一緒に、どん底まで堕ちてやるよ」
そのまま、唇を重ねた。
深く、長く、感情のすべてを注ぎ込むように。
最初は驚いて固まっていた元貴の身体が、徐々に、滉人の腕の中で柔らかくなっていく。
そのまつ毛がわずかに震えて、唇の奥から小さな声が漏れる。
苦しそうで、切なくて、それでもどこか安堵しているような。
気づけば薬のシートは、床に落ちていた。
滉人は目を伏せて言う。
「口寂しくなったら、すぐ塞いでやるよ」
元貴の肩が小さく震える。
「それでも飲みたきゃ、一緒にそれ飲んで……SEXすればいい」
ひどい言葉だった。
でも、滉人の瞳は真剣だった。
この愛が、きれいであってほしいとは思っていなかった。
醜くても、痛くても、二人で生きていけるのなら――それでいいと思った。
2:割れた水面
元貴は、滉人の腕の中で眠ることができなかった。
薬の代わりに与えられたのは、熱であり、体温であり、言葉であり、愛だった。
それが、嬉しかった。
でも、それ以上に――怖かった。
自分のせいで滉人も壊れてしまうかもしれない。
愛する人が、自分と同じ深淵に降りてこようとしている。
そのことが、元貴をいちばん苦しめていた。
暗闇の中、静かに目を開けたまま、元貴は滉人の寝息を聞いていた。
すぐ隣、穏やかに上下する胸。腕の重み。唇の残り香。
確かに愛されている、と感じるには充分だった。
だけど、心の奥で、水面が割れる音がした。
細いひびが、静かに広がっていく。
滉人の手の温度は、あたたかい。
けれどそれは、いまの自分にとってあまりにも眩しすぎて、
それだけで――壊れてしまいそうだった。
⸻
目が覚めたのは、朝の五時過ぎだった。
隣にいた滉人はまだ眠っている。
その寝顔を見つめながら、元貴はそっと枕元に転がっていた薬のシートに手を伸ばした。
でも、触れる前に――
滉人の言葉が頭をよぎる。
「お前がそれ飲んだら、俺も同じだけ飲むから」
ぞくりとした。
あのときの滉人の目を思い出す。冗談でも脅しでもなかった。
彼は本当に、そうするつもりだった。
「……バカだなあ」
吐き捨てるような声が、喉から漏れた。
それでも指先は震えている。欲しくて、欲しくてたまらない。
今すぐにでも、喉の奥に押し込みたい。
だけど。
「岩井まで壊したら、本当に俺、終わりだ……」
ぽつりと漏らしたその言葉に、自分で驚いた。
涙が、するりと零れる。
愛されるたびに、救われると同時に、壊れていく。
なのに、今夜の滉人のぬくもりは、どうしようもなく優しかった。
目を閉じて、深く息を吸う。
滉人の残り香が鼻腔に触れるたび、薬の代わりに呼吸ができた。
「もう少しだけ……こうしてていい?」
とても小さな声で呟いた。
誰に届くこともないその声が、滉人の胸の鼓動と重なるように響いていた。
⸻
朝食の時間。
キッチンに立つ滉人を、元貴はテーブルの向こうからじっと見ていた。
「卵、固めでいい?」
「……うん」
少し間があいて、「ありがとう」と付け加える。
滉人がくるりと振り向いた。
「珍しいな。お前が朝から“ありがとう”って」
「別に。……ちょっと、言ってみたくなっただけ」
「気持ち悪い。なんかあった?」
「……なんもないよ」
元貴は笑った。
少しだけ、本当に。
でも滉人は気づいていた。
その笑顔の奥に、うっすらと張りついた影を。
だから、なにも聞かなかった。
ただ、出来上がった卵焼きを皿に滑らせると、言った。
「食え。無理にでも、少しは」
「うん。食べる」
朝日が差し込む中で、ふたりの影が長く伸びていた。
それはどこまでも切なく、どこまでも優しい沈黙だった。
⸻
夜、元貴はひとりでベッドに横たわっていた。
滉人はシャワーを浴びている。
枕元にまだ残る、あの言葉。
「一緒に、どん底まで堕ちてやるよ」
その声を思い出すたびに、胸が苦しくなる。
――そこまでして、そばにいてくれるの?
自分は、それに値する存在なのか。
滉人を守れるほどの人間なのか。
震える手で、そっと自分の胸元を掴む。
「……怖い」
吐き出した声が、部屋に沈んでいった。
⸻
3:共犯者
滉人は気づく。
元貴が、薬を口にしなくても朝を迎えたこと。
それが、どれだけ大きなことか。
けれど同時に――それが長くは続かないことも。
次第にすり減っていく精神。
“薬なし”で生きるための戦いが、いよいよ本格的に始まる。
それでも滉人は、言う。
「お前が殺したいほど自分を嫌っても、俺はお前を抱くよ」
⸻
深夜。
風呂場からは、さざめく湯音と、シャワーの弾ける柔らかな音が聞こえていた。
滉人が少し長めに湯に浸かっているそのあいだ、寝室の空気は凍りつくほどに張り詰めていた。
元貴の身体が、小刻みに揺れている。
指先が冷たく、喉の奥は乾いているのに、唾を飲み込むことさえうまくいかない。
目の奥で脈を打つような焦燥感――それは、彼の中でひたひたと膨れあがっていた「それ」の声だった。
飲めば、楽になる。
飲まなきゃ、壊れる。
「……やだ、やだ……ちがう、やめろ……っ」
声にならないうめきが喉の奥で絡まり、胸の内で渦を巻く。
理性があるうちに止めたかった。けれど、手はもう動いていた。
引き出しを開け、震える指で薬のケースを取り出す。
一錠、二錠、気づけば四錠目までを手に取っていた。
舌に乗せると、ほとんど反射のように喉が動いた。
――そのときだった。
「……元貴?」
背後で滉人の低く静かな声が落ちた。
まるで波が音を呑み込むような、張り詰めた沈黙の中で、その声だけが現実を打った。
薬のケースを握ったまま、元貴は振り返れなかった。
その代わりに、滉人の足音が静かに近づいてくる。
次の瞬間、そっと背中に添えられた手が、彼の芯まで染み込んでくる。
強くもなく、怒りもない。
ただ、震える身体を包み込むように、優しいぬくもりがそこにあった。
「……気が済んだ?」
その問いに、元貴は何も言えなかった。
滉人がそっと手を伸ばし、彼の指から薬のシートをやさしく奪い取る。
「……ごめ……ん」
涙が、ぼろぼろと零れ落ちる。
許されるとも、責められるとも思っていなかった。ただ、申し訳なくて、苦しくて、自分自身が情けなかった。
「……もう、いいよ」
滉人の声はひどく穏やかだった。
それがかえって、元貴の心をぐしゃぐしゃにかき乱した。
「おいで」
そう言って滉人は、彼をベッドの上へ導いた。
座り込んだ元貴の肩を抱き、そのまま軽く押し倒す。
「……岩井……」
「助けて、って最初から言えよ、バカ」
彼の声が、頬に触れるほどの距離で響いた。
そして、そっと唇が重なる。
深く、長く、まるでその震えを溶かすように。
触れるたびに、息ができなくなる。
それなのに、どうしようもなく安らかだった。
滉人の手が額に添えられ、汗を拭う。
「……口寂しくなったら、俺が塞いでやるって、何回言わせんだよ」
耳元で囁かれたその言葉に、元貴は、やっと小さく嗚咽を漏らした。
ごめん、ごめん、ごめん……
そんな言葉が、何度も胸の内に反響する。
でも滉人は、一度もそれを否定しなかった。
ただ黙って、背中を撫でて、優しく唇を重ねて、すべてを受け止めてくれた。
――こんな俺を、まだ、愛してくれる。
元貴の目の奥で、涙とは違う熱が少しずつ灯り始めていた。
まだ暗闇の中かもしれない。けれど、確かにそこに、微かな光が差し込んでいた。
4:手放せないもの
朝――
目を覚ました元貴は、隣に眠る滉人の横顔を見つめていた。
規則正しい呼吸。
ぬくもり。
布団の中で触れ合った手のひらが、まだほんの少し湿っているのは、昨夜の涙の名残だろうか。
「……ずるいよ、岩井は」
誰にも聞こえないように呟く。
薬より先に、こんな愛があるなら、俺はとっくに救われてたはずなのに――
そんなのは、きっと甘えた幻想だってわかっているのに。
昨日は、たった一瞬だった。
それでも薬を飲んでしまった。
意識もあった。わかってた。
でも止められなかった。
手が勝手に動いた。舌が勝手に受け入れた。
あれは自分じゃなかった――そう思いたいのに、それは紛れもなく「自分」だった。
そんな自分が、今、滉人の隣で眠っている。
信じられないほど、あたたかな場所に。
「……それでもいいんだって、何回も言ってるのに」
低くくぐもった声が、ふと元貴の耳に届いた。
驚いて目を向けると、滉人は目を閉じたまま、眠気混じりの声でぼそりと続けた。
「独り言、全部聞こえてんだよ。……かわいくないな、お前」
「……起きてたの?」
「ああ。結構前から起きてたけど……お前見てたら、寝たふりしたくなっただけ」
苦笑混じりの声が、妙に優しく響いた。
「お前がどんなにボロボロでも、俺にとっちゃ変わらねぇよ。……だからちゃんと、ここに戻ってこい。薬の中じゃなくて、こっちに」
言葉の一つひとつが、心の奥に刺さる。
沁みて、じんわりと熱くなって、でもなぜか、痛くはなかった。
「……戻ってきたい。ほんとは、ずっとこっちにいたい」
元貴の声は小さかったけれど、滉人には十分すぎるほど届いた。
「じゃあ、それでいい」
何も責めない。問い詰めない。
そのやさしさに、救われたと同時に、怖さもあった。
また裏切るかもしれない。
また飲んでしまうかもしれない。
でも――それでも、と滉人は言ってくれる。
「手放せないなら、俺が隣でずっと掴んでてやるよ。お前が落ちそうなときは、俺が引き戻す」
そう言って、滉人は元貴の手を握る。
「手放せないものって、薬だけじゃないだろ?」
元貴は目を伏せた。
涙が落ちるのを、もう止められなかった。
⸻
その日から、元貴は”薬を「我慢する」のではなく、「向き合う」”ことを覚え始めた。
それは戦いだった。常に続く、心と身体の軋み。
頭痛。めまい。ふとした瞬間に訪れる、喉の渇きにも似た欲求。
それでも、滉人がいた。
横にいて、背中を支え、ただ黙って寄り添ってくれる存在がいた。
ある日、キッチンで薬のことを思い出し、思わず立ちすくんだとき。
滉人が何も言わずに背後から抱きしめてきた。
「……今、飲もうとしたわけじゃないのに」
「わかってるよ。でも、そうやって立ち止まってるの見ると……一緒にいたくなる」
「……重いな」
「うるせぇよ。お前が可愛すぎるだけだろ」
その言葉に、元貴は鼻をすすりながら、少し笑った。
そうだ、これが欲しかったんだ。
薬じゃなくて。
誰かのぬくもりを、声を、確かな存在を。
手放せないものは、今ようやく、本当に手の中にある。
最終章:光の中で
春の風が、カーテンを静かに揺らしていた。
外は穏やかな陽射し。
なのに、元貴の掌の中には、まだ“それ”があった。
透明なケースに入った、小さな錠剤たち。
色も、匂いも、何度も見たはずのもの。
けれど今、その全てが遠く、現実味を失っていた。
ずっとポケットに入れていた。
「もしものとき」のために。
ほんとうに、それだけのつもりだった。
けれど、捨てることはできなかった。
その理由を、自分でもよく分かっていた。
「……まだ、怖いんだ」
低く、誰にも届かない声で呟いた瞬間――
キッチンの奥から、コップを置く音がした。
「……元貴」
振り返ると、滉人がいた。
何も言わずに、ただ立っていた。
その目が、すべてを見透かすように、元貴を捉えていた。
「そろそろ、いいだろ」
滉人の声は、淡々としていて優しかった。
詰めるわけでもなく、押しつけるわけでもない。
けれどそのひとことが、背中を押した。
元貴は立ち上がった。
ポケットの中のボトルが、シャツ越しに小さく鳴る。
「一緒に……来てくれる?」
かすれた声で尋ねると、滉人は何も言わずにうなずいた。
⸻
マンションの裏手。小さな川辺。
昨日と同じ空の下。
でも、今日の風は、昨日より少しだけあたたかい。
元貴は、そっとポケットからケースを取り出す。
手の中のそれは、今や何の力も持っていない気がした。
滉人が、少しだけ横に立った。
「最後に、俺の顔、見てから捨てろよ」
小さく笑って、そう言った。
元貴はゆっくり顔を上げた。
滉人の目を見た。
まっすぐで、あたたかくて、やさしくて。
それは、ずっと変わらずに自分を見守ってくれていた瞳だった。
何も言わずに、ケースを握った手を、放す。
振り上げた指先が、ほんの少し震えていた。
でも――
「……バイバイ」
呟くように言って、ケースを投げた。
小さな円を描いて、空に吸い込まれるようにして、
それは静かに、水面へ落ちていった。
ぽちゃん。
小さな音だけが、耳に残った。
沈黙。
でも、その沈黙が、優しく包んでくれた。
ふと横を見ると、滉人が自分の手を取っていた。
「もう、持ってなくていい」
「……うん」
心のどこかで、ずっと思っていた。
薬を手放したら、自分も壊れてしまうんじゃないかと。
けれど今、滉人の手の温もりが、
それよりもずっと強く、確かに、自分を支えていた。
風が吹く。
桜の花びらが、遅れて舞った。
元貴は、その光の中で目を細めた。
少し眩しくて、少し、泣きたかった。
「若井……」
「ん?」
「……好きだよ」
それは、ずっと胸の奥でつぶやいていた言葉だった。
ようやく声に出せたことが、少しだけくすぐったかった。
滉人は何も言わずに、元貴の頭を撫でた。
なにも言わないくせに、その手の温もりだけで、全部わかってしまう。
元貴は、そっと目を閉じた。
今日を越えられたこと。
この光の中にいられること。
滉人のそばにいること。
それだけで、充分だった。
⸻
終わりではなく、はじまりだった。
壊れかけた身体と心を抱えて、
それでも、誰かの手を信じて歩くことは、
こんなにも温かく、優しいものだと知った。
風が、春を連れてくる。
元貴は、滉人の手を握り返した。
ほんの少し、強く。
そして二人は、ゆっくりと川辺を離れていった。
光の中へ――
(完)