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うわあ…読み終わったあと、しばらく動けなかった。 「名前を知らないことを選んだ」って真相、めちゃくちゃ好き。事故で忘れたんじゃなくて、最初からそういう関係を選んでたってのがもう…。 過去の自分たちが未来の自分たちに残した手紙、その発想に完全にやられたわ。箱は過去に戻るためじゃなくて、前に進むためにあったんだなって。 最後、名前を呼び合って、当たり前みたいに「また明日」って言える日常に戻ってくるのが、本当によかった。ずっと追いかけてきてよかったと思える最終話だった🔥
#恋愛
ばたっちゅ
20,092
#誓い
耀聖(ようせい)
381
第114話 名前だけを知っていた
それから、一週間が経った。
二人が恋人になってからの一週間は、
思っていたよりもずっと普通だった。
朝になれば、
「おはよう」
と連絡をする。
学校で顔を合わせれば、
「眠そう」
「そっちもね」
なんて言い合う。
帰り道には、その日にあったくだらない話をする。
たまに意見が合わなくて、少しだけ黙ることもある。
でも、昔とは違った。
どちらかが無理に笑うことはなくなった。
「大丈夫?」
そう聞かれたとき、本当は大丈夫じゃないのに、
「大丈夫」
と答えることもなくなった。
「……今日はちょっとしんどい」
そう言えば、
「そっか」
と隣にいてくれる。
それだけでよかった。
過去を全部思い出したからといって、
傷が全部消えたわけではない。
怖いものは、まだ怖い。
思い出したくない記憶だってある。
家のこと。
学校のこと。
事故の日のこと。
失った時間のこと。
突然、昔の記憶が蘇って胸が苦しくなる日もある。
それでも。
もう、一人で抱え込む必要はなかった。
「大丈夫じゃない」
と言える相手がいる。
「怖い」
と言える相手がいる。
そして、
それを言っても離れていかない相手がいる。
それだけで、二人は少しずつ前へ進めていた。
そんなある日の帰り道。
琴葉がふと足を止めた。
「……ねえ」
隣を歩いていた律が振り返る。
「ん?」
「一回、全部見返してみない?」
「全部?」
琴葉は鞄を見る。
その中には、
あの小さな箱が入っていた。
律も少しだけ黙った。
「……箱?」
「うん」
もう、箱を開ける理由はない。
過去は全部思い出した。
約束も。
事故の日のことも。
どうして忘れることを選んだのかも。
二人がどうして離れてしまったのかも。
だからこそ。
最後にもう一度だけ、
最初から見てみたかった。
「行こうか」
律が言った。
二人が向かったのは、
あの図書館だった。
すべての始まりだった場所。
古い本棚。
少し色あせた窓。
夕方になると床に細長い光が落ちる。
そして、
あのベンチ。
二人は並んで座った。
琴葉が鞄から箱を取り出す。
机の上に置く。
ゆっくりと蓋を開けた。
中には、
今まで二人が追いかけてきたものが入っている。
写真。
銀色のチャーム。
青いリボン。
何枚ものメモ。
そして、
何度も二人を立ち止まらせた言葉。
琴葉は最初に写真を取り出した。
駅で撮られた写真。
二人がまだ、
自分たちの過去を何も知らなかった頃のものだった。
「これ、最初は怖かったよね」
琴葉が言う。
「何が写ってるのか分からなかったから?」
「うん」
写真の中の二人は、
今より少し幼い。
笑っている。
でも、
その写真を見つけたときの二人には、
その笑顔が誰のものなのかすら分からなかった。
今なら分かる。
あの写真を残したのは、
二人を見守っていた人物だった。
事故のあと。
記憶を失った二人が、
いつかもう一度ここへ辿り着けるように。
「この写真が最初の目印だったんだよね」
「うん」
律も写真を見る。
「でも、今思うと……」
「何?」
「写真は答えじゃなかった」
琴葉が顔を上げる。
「答えじゃない?」
「戻る場所を教えてくれてただけなんだと思う」
琴葉は写真を見る。
確かにそうだった。
写真は、
何があったのかを説明してくれなかった。
ただ、
「ここに何かがある」
と教えてくれただけ。
次に、
銀色のチャーム。
何度も二人の前に現れて、
何度も二人を同じ方向へ導いたもの。
「これも不思議だったよね」
琴葉が言う。
「どうして、こんな小さいものが何度も出てきたんだろうって」
律はチャームを指先で転がした。
「目印だったんだろ」
「何の?」
「戻るための」
琴葉が少し笑う。
「やっぱり?」
「うん」
銀色のチャームは、
忘れないためのものではなかった。
忘れてしまった二人が、
迷ったときに戻るための目印だった。
そして、
その隣にあったもの。
青いリボン。
琴葉がそっと手に取る。
事故の日。
何度も二人の前に現れた色。
律が守ろうとしていたもの。
失いたくなかったもの。
「これは……」
琴葉が言いかける。
律が続けた。
「守りたかったものの印」
でも、
今ならそれだけではないことも分かる。
律は琴葉を守ろうとした。
琴葉も律を守ろうとした。
二人とも、
相手を傷つけないために、
自分の中に何かをしまい込んだ。
そして、
それがいつしか、
「大丈夫」
という言葉になった。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
本当は、
大丈夫じゃないのに。
心配させたくなくて。
迷惑をかけたくなくて。
嫌われたくなくて。
相手を守りたくて。
二人は何度も、
その言葉を使った。
でも、
その「大丈夫」が、
二人の間に距離を作っていた。
琴葉が小さく息を吐く。
「私たち、ずっと守ろうとしてたんだね」
「うん」
「でも、守り方を間違えてた」
律は何も言わなかった。
ただ、
琴葉の手の上に自分の手を重ねた。
それだけで、
十分だった。
琴葉は、
一枚の紙を取り出した。
何度も見た紙。
そこには、
こう書かれていた。
『忘れたままでいい。
でも、生きていて。
いつか全部思い出せたら、
そのときは自分の言葉で伝えて。』
琴葉は、
その文章をゆっくり読む。
昔は、
これが謎だった。
誰が書いたのか。
誰に向けたものなのか。
なぜ、
「忘れたままでいい」
なんて書いたのか。
今なら分かる。
これは、
忘れることを悪いことにしないための言葉だった。
無理に思い出さなくてもいい。
過去に戻らなくてもいい。
ただ、生きていればいい。
そして、
いつか自分たちの意思で、
過去と向き合いたいと思えたなら、
そのとき初めて、
自分たちの言葉で伝えればいい。
琴葉が紙を裏返す。
そして、
手が止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「これ」
裏側。
何も書かれていないと思っていた場所に、
薄い文字があった。
何度も見ていたはずなのに、
気づかなかった文字。
『最後まで思い出したら、箱の底を見て。』
二人は、
同時に箱を見た。
「……箱の底?」
琴葉が箱を持ち上げる。
底には何もない。
でも、
よく見ると、
ほんの少しだけ板が浮いている。
「これ……」
律が指をかける。
ゆっくり持ち上げる。
カチッ。
小さな音がした。
底板が外れる。
その下から、
一枚の紙が出てきた。
今まで見たどの紙よりも古い。
何度も折られた跡がある。
二人は顔を見合わせる。
「まだ……あったんだ」
律が紙を開く。
最初の一行。
――『ここまで来たなら、きっと二人とも全部思い出したんだと思う。』
琴葉が息を呑む。
続き。
――『でも、たぶん最後に一つだけ、勘違いしている。』
「……何?」
琴葉が呟く。
律が続きを読む。
――『二人は、“名前を忘れた”んじゃない。』
二人の目が止まった。
――『最初から、“名前を知らないこと”を選んだ。』
「……え?」
琴葉の声が震える。
名前を知らなかった。
それは、
事故のせいでも。
記憶を失ったせいでも。
忘れてしまったせいでもなかった。
最初から。
二人は、
名前を知らないところから始めていた。
紙には続きがあった。
――『最初に会った日。』
――『二人は、お互いの名前を聞かなかった。』
――『それは偶然じゃない。』
その瞬間。
遠い記憶が、
一つにつながった。
図書館。
古いベンチ。
夕方の光。
窓から差し込んだ光が、
机の上に細長い四角を作っていた。
琴葉は、
その光の中で本を読んでいた。
少し離れたところに、
律が座っていた。
最初は、
何も話さなかった。
ただ、
同じ場所にいるだけだった。
何度か顔を合わせるようになった。
ある日。
律が話しかけた。
「その本、面白い?」
琴葉が顔を上げる。
「……うん」
「どこが?」
「まだ途中だから分からない」
「そっか」
それだけの会話だった。
なのに、
次の日も、
その次の日も、
二人は同じ場所にいた。
少しずつ話すようになった。
好きな本。
好きな音楽。
苦手なもの。
眠れない夜。
学校のこと。
家のこと。
誰にも言えないこと。
名前は知らないのに、
少しずつ、
相手のことだけは知っていった。
そして、
ある日。
琴葉が聞いた。
「ねえ」
「ん?」
「名前、聞かないの?」
律は少し考えた。
そして、
窓の外を見ながら言った。
「今日は、いいんじゃない?」
「なんで?」
律は、
少しだけ笑った。
「名前を知ったら、その人のことを知った気になっちゃうかもしれないから」
琴葉は黙って聞いていた。
「だから、最初くらいは」
律が言う。
「何も知らないまま、もう一度会いたいって思えるか、確かめよう」
琴葉は、
少しだけ目を丸くした。
「……変なの」
「そう?」
「うん」
そして、
小さく笑った。
「でも、いいかも」
律も笑った。
「じゃあ、また会えたら、そのとき名前聞く?」
「うん」
琴葉が頷く。
「約束」
それが、
二人にとっての最初の約束だった。
琴葉の目から、
涙が一滴落ちた。
「……忘れてた」
「俺も」
二人は、
ずっと勘違いしていた。
自分たちは、
事故によってすべてを失ったのだと思っていた。
名前も。
出会いも。
約束も。
でも、
違った。
事故の前に、
二人にはすでに、
「名前を知らない」という選択があった。
だからこそ、
「名前を知る」
ということには、
二人だけの意味があった。
紙には、
さらに続きがあった。
――『名前を聞かないことは、相手を知らないことじゃない。』
――『名前以外のものを、先に知ろうとしただけ。』
琴葉は、
静かに紙を読む。
――『だから、もし最後に名前を呼べる日が来たなら。』
――『そのときは、名前だけじゃなく、その人自身を知ったあとで呼んでほしい。』
琴葉は、
もう何も言えなかった。
律も、
紙を見つめている。
そして、
その下に。
さらに一行。
――『この箱は、二人に過去を思い出させるために作ったものじゃない。』
律の眉が動く。
続き。
――『二人が、過去に戻らなくてもいいように作った。』
二人は、
息を止めた。
箱の意味が、
また変わった。
箱は、
過去を取り戻すためのものではなかった。
過去に縛られないためのものだった。
事故の日。
律は、
忘れることを選んだ。
それは、
過去を消したかったからではない。
誰かを守るため。
自分自身を守るため。
そして、
いつか二人が、
過去ではなく未来を選べるようにするため。
だから、
箱の中に答えを全部入れなかった。
写真だけ。
チャームだけ。
リボンだけ。
短い言葉だけ。
それらを辿らなければ、
真実には届かない。
でも、
無理に辿らなくてもいい。
いつか二人が自分たちで、
「知りたい」
と思ったときだけ開けばいい。
琴葉が、
ふと顔を上げる。
「……じゃあ」
「うん?」
「ずっと私たちを導いてた人って」
律も、
同じことを考えていた。
あの人は、
二人を過去へ連れていったわけではない。
二人がいつか自分たちで戻ってこられるように、
道を消さなかっただけだった。
その人は、
二人の未来を決めたわけじゃない。
答えを教えたわけでもない。
ただ、
「選ぶ場所」を残した。
そして、
最後の選択は、
いつも二人自身がしていた。
「……あの人も」
琴葉が呟く。
「俺たちがどうするかは、知らなかったのかもしれない」
「うん」
「ただ、戻れるようにしてくれてた」
琴葉は、
静かに頷いた。
その瞬間。
律の視線が、
紙の端で止まった。
「……待って」
「どうしたの?」
「これ」
紙の下の方。
小さな文字。
署名はない。
でも、
見覚えのある筆跡だった。
律が、
自分の昔のメモを取り出す。
二人が昔残した写真の裏。
メモ。
約束。
比べてみる。
琴葉も、
気づいた。
「……同じ」
「うん」
「これ……」
二人は、
顔を見合わせた。
最後の紙に書かれていた文字は、
二人が過去に書いた文字と同じだった。
誰かが用意したものではなかった。
誰かが二人の人生を操っていたわけでもなかった。
二人自身が、
未来の自分たちへ残したものだった。
もちろん、
事故が起きることを知っていたわけじゃない。
記憶を失うことを予想していたわけでもない。
ただ、
あの頃の二人は、
自分たちのことを少しだけ分かっていた。
いつか迷うかもしれない。
いつか離れるかもしれない。
いつか、
何もかも嫌になる日が来るかもしれない。
だから、
そのときの自分たちへ、
道を残していた。
『もし、迷ったらここへ。』
『もし、怖くなったら、一人で決めない。』
『もし、忘れてしまっても、また探せばいい。』
未来を予言したわけではない。
ただ、
未来の自分を信じていた。
その事実に、
琴葉は涙をこぼした。
「……私たちが」
「うん」
「私たちを待ってたんだ」
律は、
静かに笑った。
「たぶん」
二人を待っていたのは、
どこかにいた誰かだけではなかった。
過去の二人自身だった。
自分たちが忘れてしまっても、
いつか自分たちで戻ってこられるように。
未来の自分たちを、
信じていた。
琴葉は、
箱の中身を見る。
写真。
銀色のチャーム。
青いリボン。
メッセージ。
そして、
最後の紙。
今までの出来事が、
静かにつながっていく。
写真は、
過去を見せるものではなく、
戻る場所を示すもの。
銀色のチャームは、
記憶を守るものではなく、
迷ったときの目印。
青いリボンは、
誰か一人を守るためだけのものではなく、
二人がお互いを守ろうとした証。
箱は、
過去を閉じ込めるものではなく、
未来の自分たちへ残した時間。
そして、
あの「大丈夫」という言葉。
二人が、
自分を守るために使っていた言葉。
それはいつしか、
相手との距離を作る言葉にもなっていた。
でも今は、
もう違う。
大丈夫じゃないなら、
そう言える。
怖いなら、
怖いと言える。
その言葉を受け止めてくれる相手が、
隣にいる。
琴葉が、
最後の紙を箱に戻す。
「……もう、閉じようか」
律が頷く。
「うん」
箱を閉じる。
カチッ。
小さな音がした。
それは、
終わりの音のようだった。
でも、
不思議と寂しくなかった。
今までなら、
箱を閉じることは、
何かを失うことのように感じていた。
けれど、
今は違う。
もう、
箱を開けなくてもいい。
答えを探さなくてもいい。
過去を追いかけなくてもいい。
全部、
自分たちの中にある。
二人は、
図書館を出た。
夕方。
空は、
昔と同じ色をしていた。
二人は、
並んで歩く。
少し進んだところで、
琴葉が言った。
「ねえ」
「ん?」
「私、全部思い出したら、もっと安心すると思ってた」
律が頷く。
「俺も」
「でも、全然違った」
「うん」
「まだ怖い」
「俺も」
「たまに、また何か忘れそうで怖くなる」
律は、
琴葉を見る。
「そのときは言えばいい」
「うん」
「俺も言う」
「うん」
二人は、
また歩き始める。
駅へ向かう。
昔、
何度も通った道。
事故の日にも歩いた。
記憶を探して歩いた。
誰かの言葉を追って歩いた。
でも今は、
ただ帰るために歩いている。
駅に着く。
二人は、
少しだけ立ち止まった。
ここには、
たくさんの記憶がある。
最初の再会。
写真。
約束。
事故の日の記憶。
「渡す」という言葉。
何度も、
ここへ戻ってきた。
けれど、
今なら分かる。
戻る場所は、
一つの場所ではなかった。
自分を隠さなくていい場所。
泣いてもいい場所。
弱くてもいい場所。
何も話したくない日でも、
隣にいてくれる場所。
それは、
人だった。
二人にとって、
帰る場所は、
互いの隣だった。
「帰ろうか」
律が言う。
琴葉が笑う。
「うん」
二人は歩き出す。
少し進んだところで、
琴葉が立ち止まった。
「……律」
「ん?」
「一個だけ、まだ約束してないことある」
律が振り返る。
「何?」
琴葉は少し笑った。
「忘れたら、どうするか」
律も笑う。
「また思い出す」
「それだけ?」
「うん」
「簡単だね」
「簡単なほうがいいだろ」
琴葉が笑う。
「じゃあ、それ約束」
「ああ」
二人は、
小さく指を絡めた。
昔の約束は、
失ったものを取り戻すためだった。
でも、
これからの約束は違う。
未来を、
一緒に作るため。
それでいい。
その夜。
琴葉は、
家に帰ってから、
鞄の中を整理していた。
教科書を出す。
ノートを出す。
ペンを机に置く。
そして、
最後に。
あの箱を取り出した。
しばらく眺める。
開けるつもりはなかった。
もう、
必要がないから。
でも、
箱の蓋に、
小さな傷があることに気づいた。
見覚えのある傷。
あの日、
初めてこの箱を見つけたときにもあった。
琴葉は、
指でそっとなぞる。
そして、
ふと笑った。
「……ありがとう」
箱を、
机の引き出しにしまう。
鍵はかけない。
もう、
隠す必要がないから。
そのとき、
スマホが鳴った。
律からだった。
『家着いた?』
琴葉は、
少し笑って返信する。
『着いたよ』
すぐに返事が来る。
『よかった』
そして、
もう一通。
『また明日』
琴葉は、
画面を見つめる。
そして、
ゆっくり文字を打つ。
『うん。また明日』
送信する。
画面が暗くなる。
部屋が静かになる。
琴葉は、
窓の外を見る。
夜空。
何も特別なことはない。
でも、
その普通が、
今は嬉しかった。
一方、
律も自分の部屋でスマホを置いていた。
机の上には、
一枚の写真。
昔の写真。
二人がまだ、
名前すら知らなかった頃のもの。
律は、
写真を見つめる。
そして、
裏返す。
そこには、
昔の自分の字で、
短い言葉が残っている。
――『また会えたら、名前を聞こう。』
律は、
その文字を指でなぞる。
そして、
小さく笑う。
「……聞けたな」
写真を引き出しにしまう。
そして、
部屋の電気を消した。
翌朝。
いつもの時間。
いつもの駅。
いつもの場所。
琴葉が歩いてくる。
少し先に、
律がいる。
目が合う。
二人とも、
自然に笑う。
「おはよう」
「おはよう」
それだけ。
特別なことは何もない。
でも、
それがいい。
二人は、
並んで歩き始める。
「今日、何食べる?」
「急に?」
「お腹空いた」
「朝から?」
「朝だから」
琴葉が笑う。
律も笑う。
くだらない会話。
何でもない一日。
でも、
その一日こそが、
二人がずっと欲しかったものだった。
過去を追いかけ続ける必要はない。
今日を、
一緒に生きればいい。
もし、
明日何かを忘れてしまったとしても。
また思い出せばいい。
もし、
迷ったとしても。
また戻ればいい。
もし、
怖くなったとしても。
「怖い」と言えばいい。
もし、
「大丈夫じゃない」と思ったら。
もう、
大丈夫なんて言わなくていい。
二人は、
そうやってこれからを作っていく。
そして。
もう一度だけ、
最初の日を思い出す。
古い図書館。
夕方。
窓から差し込む光。
同じベンチ。
まだ互いの名前を知らなかった二人。
琴葉は、
本を閉じた。
律は、
少し離れた場所からこちらを見ていた。
「その本、面白い?」
「……うん」
たったそれだけだった。
でも、
その一言が、
すべての始まりだった。
あの日の二人は、
まだ知らなかった。
これから、
何度も出会うことを。
一度離れることを。
大切なものを失うことを。
忘れることを。
探すことを。
もう一度、
同じ場所に戻ってくることを。
そして、
恋人になることさえ。
ただ、
一つだけ知っていた。
名前を知らなくても、
もう一度会いたいと思える相手がいる。
だから、
名前を聞かなかった。
それが、
最初の約束だった。
最後の日。
同じ図書館。
同じ夕方。
同じ窓から、
同じように光が差し込んでいる。
けれど、
二人はもう、
あの日の二人ではない。
琴葉は、
律を見る。
律も、
琴葉を見る。
「……なんか、不思議だね」
「何が?」
「ここ、何も変わってない」
律は、
ゆっくり周りを見る。
「変わったのは、俺たちだろ」
琴葉が笑う。
「うん」
少しの沈黙。
そして、
琴葉が言う。
「ねえ」
「ん?」
「今ならさ」
「うん」
「最初の日に戻れたら、名前聞く?」
律は、
少し考える。
そして、
首を横に振った。
「……聞かない」
琴葉が驚く。
「え?」
「だって」
律は笑った。
「名前を知らないまま始まったから、俺たちは俺たちになれたんだろ」
琴葉は、
しばらく黙って。
それから、
小さく笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、今は?」
律は、
琴葉を見る。
今度は、
迷わなかった。
「今は、ちゃんと知ってる」
「……何を?」
「琴葉の名前」
そして、
続ける。
「名前だけじゃなくて」
琴葉の目が、
少し潤む。
「私も」
「うん」
「律の名前だけじゃないよ」
二人は、
笑う。
あの日、
名前を聞かなかったことは、
間違いじゃなかった。
今日、
名前を呼べることも、
間違いじゃない。
どちらも、
二人が選んだことだった。
琴葉が立ち上がる。
「帰ろうか」
律も立ち上がる。
「うん」
図書館を出る。
夕方の道。
二人は並んで歩く。
そして、
少し歩いたところで、
律が言った。
「……じゃあ」
琴葉が見る。
律は、
少しだけ笑っている。
「また最初から話そうか」
琴葉も、
笑った。
「うん」
その一言は、
過去に戻るための言葉ではなかった。
これからも、
相手を知り続けるための言葉だった。
二人は歩いていく。
名前を知らない二人から始まって。
名前を知って。
忘れて。
探して。
傷を知って。
過去を知って。
それでも、
もう一度、
相手を選んだ。
だから、
もう、
過去を振り返らなくていい。
忘れないためではない。
過去を捨てるためでもない。
ただ、
これからを見るために。
二人の足音が、
夕方の道に重なる。
その先には、
まだ何も決まっていない。
だから、
二人で決めていけばいい。
今日のことも。
明日のことも。
これからのことも。
もし、
いつか何かを忘れてしまったら。
また探せばいい。
もし、
迷ったら。
また戻ればいい。
もし、
怖くなったら。
ちゃんと伝えればいい。
そして、
何度でも。
相手を選べばいい。
翌朝。
いつもの駅。
いつもの時間。
琴葉が歩いてくる。
律が待っている。
目が合う。
「おはよう」
「おはよう」
二人は笑う。
「今日、何食べる?」
「またそれ?」
「だってお腹空いた」
「朝から?」
「朝だから」
また、
同じ会話。
琴葉が笑う。
律も笑う。
二人は、
並んで歩き始める。
少しして、
律が琴葉を見る。
「琴葉」
「ん?」
「今日、帰り寄り道する?」
「どこに?」
「……図書館」
琴葉は、
少しだけ笑った。
「また?」
「嫌?」
「ううん」
琴葉は、
律の隣に並び直す。
「行こう」
二人の足音が、
朝の駅に重なる。
名前を知らなかった二人。
名前を忘れた二人。
名前を取り戻した二人。
そして今。
互いの名前を、
当たり前みたいに呼ぶ二人。
それでも、
まだ知らないことがある。
だから、
これからも知っていけばいい。
一日ずつ。
言葉を交わして。
笑って。
時々、
泣いて。
「大丈夫じゃない」と言って。
そのたびに、
「そっか」と隣にいて。
また、
明日を迎える。
それでいい。
二人にとっては、
それが一番だった。
――『また明日。』
その言葉が、
朝の駅に溶けていく。
今度は、
二人とも振り返らなかった。
前を向いて、
歩いていく。
まだ何も決まっていない未来へ。
二人で選んでいく未来へ。
そして、
物語は終わる。
けれど、
二人の明日は、
終わらない。
――名前だけを知っていた。
そう思っていた二人は、
最後には、
名前以上のものを知った。
そして今度は、
まだ知らない二人を、
一日ずつ知っていく。
名前を呼んで。
隣にいて。
また、
明日へ。
――完