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「綾瀬くん、いる?」
東側から入る陽の光が遮られ、暗くなったキーボードから目を移し、その巨体を見上げる。
黒田支店の大貫だった。
もともと大柄ではあったが、近年その迫力と体重が増しているように見える。
「綾瀬くんは朝、遅いですよ」
答えると、少し困ったような顔をする。
「ええ!そうなの?もう朝礼始まっちゃうのになあ」
(知らないよ。出直せよ)
心の中で毒づくが、巨体にここを去る意思はないらしい。
「ーーーどうしたんですか?」
仕方なく聞くと、待ってましたとばかりに隣の綾瀬の席に座り、書類を広げだした。
ギシシ。
「いやあ、今月どうしても登録してもらいたい車があったんだけど、車庫証明がさぁ」
言いながら眞美の席に椅子を寄せてくる。
ギシシシシシ。
(ん?何の音?)
「土地所有者である父親と、本人の印鑑、同じやつで押印してくれちゃってさあ」
ギシシシシシシシ。
(ちょっと……)
「これってもらい直しして司法書士に頼むんじゃあ、間に合わないよね。自分で警察署まで走らないと―――」
ドガン!!
ものすごい音とともに大貫がひっくり返った。
慌てて見下ろすと、オフィスチェアの支柱部分と座面部分の溶接が取れてしまったらしく、そこからぼっきりと折れるように壊れていた。
「いててててて」
周りに人が集まってくる。
倒れたのが大貫で、その大貫に怪我がないことを認めた本部の人間たちは笑いだした。
「痩せろ、大貫―」
「太りすぎなんだよ」
「おいー、誰か黒田支店に請求書出しとけー」
大貫が立ち上がって頭を掻いたところで、出社した綾瀬が駆け寄ってきた。
「どうしたんですか?」
今日も相変わらず、髪は艶々だし、肌は艶々だし、すみれ色のワイシャツも黒ストライプのスーツもバリッと着こなしていて、少しイラッとする。
「ごめん、俺、ちょっと机借りようと思ったら、椅子壊しちゃって」
大貫が丸っこい両手を合わせる。
「ーーーーー」
綾瀬は大貫と自分の壊れた椅子を交互に見つめて、こちらも手を合わせた。
「いや、もともとこの椅子壊れてたんですよ。まあ、すんでのところで折れないで堪えてるし、バランスさえとれば座れないこともないし、と思って放置していた俺の責任です。ごめんなさい」
「いやいや、そんなこと。………あ、そうなの?じゃあ悪いのは綾瀬くんだね!!俺の尻は高いよ、綾瀬くん!!」
開き直る大貫に、また見ていた周りが笑う。
「そんなデカケツ、蹴っ飛ばしてやれー、綾瀬―」
叫んだのは営業企画部の係長だ。
「ほんと、すみませんでした」
綾瀬が殊勝に頭を下げると、大貫は笑いながら顔の前で手を左右に振った。
朝の珍事件の騒ぎが沈静化すると、眞美は自分の椅子も戻し、デスクにまた向き直った。
「……その隣の椅子なら、壊れなかったのにね」
業務に戻ったうちの誰かが呟いた。
それに対して数人が笑った。
眞美は気づかないふりをして、引き出しを開けると、10月と書いてあるファイルを取り出し、新車ナンバーの打ち込みを始めた。
キーボードの上を走る指が、いつもより太く、短く見えた。
給湯室でコーヒーを淹れかえる。
朝一で淹れたときは、なんとなくブラックで淹れてしまったのだが、やはり苦かった。
コーヒーメーカーにカップを突っ込みながら、後ろの簡易的な食器棚から砂糖とミルクを出す。どちらも二本ずつだ。じゃないと意味がない。
「あ」
綾瀬が顔を覗かせる。
「お疲れ様です」
狭い給湯室は一人入るのがやっとだ。普通は誰かいれば時間をずらして出直すのだが、
「はは。また甘いの飲んでる」
綾瀬は強引に入ってきた。
今日は天気が良く、太陽が南に上るのに合わせて気温も上がってきた。
黒田店の上にある本部は、ショールームのデザインに合わせて南の窓ガラスが全面ガラス張りになっているため、外気の影響を受けやすく、10月とは思えないほど暖かい。
綾瀬も朝は着ていたカーディガンを脱ぎ、長袖のワイシャツ一枚になっていた。
ちらりとその腹あたりを見る。
脂肪が全くない腹。ベルトも細いほうから3つ目の穴に通している。
胸板も肩も腕も細い。
もう少し身長があれば、モデル体型だっただろうに。
まあ――――。
自分はブラックコーヒーを淹れているその横顔を見る。
(顔がきれいだから、その気になればジュニーズくらいは入れたんじゃないの)
ぼーっと見ていた眞美を振り返りながら綾瀬が笑った。
「さっきの大貫さん、びっくりしましたね」
「え、ああ。壊れてるなら早く言えばいいのに。会議室に同じ椅子なら腐るほどあるんだから」
言うと、
「うーん。なんとなく、自分で挑戦してたんですよ。バランスとりながら座るのって運動になるかなって」
言いながら綾瀬は自分の腹あたりを撫でた。
「営業と違ってオフィスワークって太るじゃないですか。足も浮腫むし、同じ姿勢でいるからか、腹に肉がたまってきたような気がして」
言いながら、どう見てもつまめていない腹をつねっている。
(——何それ。嫌味?)
「少しでも運動になれば、と思って。バランスボール感覚でやってたんですよね」
『その隣の椅子だったら、壊れなかったのにね』
「ーーそのあんたの“運動”のせいで誰か怪我するかもしれないとは思わなかった?」
コーヒーを一口飲もうとカップを引き寄せた綾瀬の手が止まる。
「——え」
「座ったのが若い大貫さんだったからよかったけど、もし常務や副社長だったら?
年とった人の骨って脆いのよ。腰やお尻を打って骨折でもしてたら、どうするの?」
「ーーそうですよね、配慮が足りませんでした」
綾瀬が素直に頭を下げるが、怒りが収まらない。
「そもそも、朝、もう少し早く来られないの?朝礼に間に合えばいいってもんじゃないと思うけど、社会人って。
営業さんなんか、朝礼終わったら、すぐ外回りに出ていくから、その前に本部に用がある人だっているし、今日の大貫さんみたいに急ぎで相談したいことを朝一で持ってくる人もいるし」
普段、大嫌いな彼らのことを“営業さん”なんて呼んだことないのに。
朝礼前の仕事なんて時間外なのにといつもイラついているくせに、いくらでもそれらしい言葉が出てくる。
「はい。おっしゃる通りです」
頭を垂れたまま、綾瀬が口元を引き締める。
「あと十分でもいいから早く来て。そんだけ身なりを完璧に整えてきてるんだもん。時間に余裕がないわけじゃないでしょ」
しまった。要らない一言が出た。
眞美は慌てて口を覆った。
しかし綾瀬は顔色一つ変えずに頭を下げ続けている。
「お願いしますね」
慌てて給湯室を後にすると、中古車グループの二十代の女子二人が、カップを片手に順番を待っていた。
眞美のことを睨み上げている。
目を逸らして脇を通り過ぎる。
「見た?」
どちらかが言う。
「見た見た」
どちらかが答える。
「こえー」
「綾瀬さん、かわいそー」
「あれ?あの2人って同期入社じゃないの?」
「そーだよ、なのに偉そうにさ」
もうどちらが何を言っているかわからない。
「綾瀬さんのほうが仕事できるのにね」
「質問しても優しいし。説明もわかりやすいし」
「頼んだことも丁寧だし」
「いやね、三十路女のマウントは」
眞美は席に戻った。
パソコンを起動し、甘く入れたコーヒーを傍らに置く。
軽く椅子を引いたところで――――。
ガタン!!!!
天井に向けて、自分の太い足が浮かんでいるのが見えた。
「今度はこっちの椅子が壊れたぞ!」
皆が駆け寄ってくる。
総務部の大地が、椅子に座った形のまま仰向けに倒れている眞美を抱き起す。
椅子は座椅子部分から外れていた。
「大丈夫?栗山さん?怪我はない?」
「あ、はい」
「ーーーーーーーーーー」
「~~~~~~~~~~」
一見心配そうに取り囲んでいる全員の肩が震えている。
「……今日は新車グループ、台替え決算市だな」
誰かが呟くと、その震えは一気に爆笑に変わった。
「ちょっと、笑っちゃ悪いってぇ!」
誰かの声がする。
「栗山さんは大貫さんと違って女の子なんだからぁ!」
笑いながら誰かが叫んでいる。
ーーーもうやだ。
眞美は俯いた。
ーーーもうやだ。こんな人生。
「大丈夫ですか?栗山さん」
頭上から声がした。
しゃがみ込んで顔を寄せる。
その顔は思いの外真剣で、まっすぐ眞美のことを見つめてくる。
小顔で、陶器のように肌がきれいで、髪が艶やかで、細くて、手足が長くて、美しい男。
「立てます?」
差し出した手の指が長い。
「美男と野獣」
笑いながら誰かが呟くのと、その手を払いのけるのは同時だった。
(この男が来てから、本当に良いことなんて一つもない)
眞美は綾瀬を睨んだ。
(私は、この男が大嫌いだ)